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秀吉と利休、数奇の戦。

天正十九年二月二八日 千利休は、秀吉の命により聚楽の自邸にて自刃して果てました。享年七十歳。その遺偈は、

人世七十、カ□希咄
吾が這の宝剣、祖仏共に殺す
提る我が得具足の一太刀
今此の時ぞ天に抛つ

天正十九仲春
廿五日   利休宗易居士(花押)

 「宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなし」(宗湛日記)

といわれるほど、数奇と政治の世界で、緊密な関係を結んできた、天下人豊臣秀吉と天下一茶匠千利休。しかし利休晩年にいたって、秀吉との蜜月時代は終わり、冷ややかな対決の時代が始まったといわれます。

その前兆は利休愛弟子山上宗二の死。小田原の陣にて、激昂した秀吉に耳鼻を殺がれる極刑により、一命を落としているのです。しかし、秀吉・利休それぞれの言動にもそれらを直接読み取れる。利休賜死の前年、二つの茶会に、その暗い影をたどってみましょう。

・秀吉の嫌う黒茶碗

まずは、天正十八年(1590)九月十日昼、聚楽第利休屋敷での大徳寺琉首座と神屋宗湛を招いた茶会。当時、秀吉に重用されていた博多の商人神屋宗湛の前で、秀吉が嫌った黒茶碗を、まず台子に一つ飾りに飾り、茶を点て終わってから瀬戸茶碗に替えて飾り、上様(秀吉)が嫌うのでこのようするのだと言った
といいます。

「上に黒茶碗ばかり置く。中に台子の先の壁に春甫の文字掛けて。先ず振舞有り。其後に茶の時に内より棗、袋に入れ持出でて、前に置、点ぜらる。茶の後、又内より瀬戸茶碗持出でて台子の上の黒茶碗に取替へらるヽ也。黒きに茶、点て候事上様御きらひ候程に、此程に仕り候と。」(宗湛日記)

秀吉と入魂の間柄であった宗湛を前にし、ぬけぬけと秀吉の嫌う黒茶碗を飾る利休。宗湛の口より直接秀吉に伝わることはないにせよ、その行為、言葉ともに「上を恐れぬ」挑発的なものといわねばなりません。


・野菊の茶会

そして同年九月二十三日、利休と秀吉の”数奇”の意地が直接ぶつかり合う茶会が開かれました。後世「野菊の茶会」と呼ばれている。招かれた客人の一人津田宗凡の〈茶湯日記〉から紹介しましょう。

「野菊の茶会」は聚楽第で秀吉主催のもと、黒田如水を正客に利休が茶を点てた会です。相客は針屋宗和、津田宗凡。秀吉は、床に北条氏政から召し上げた牧渓筆遠浦帰帆の大軸を掛け、床柱の前に鴫肩衝を紹鴎天目茶碗の中に仕込んでおいたと伝えています。

利休が面桶の水翻を持って出てると、肩衝と茶碗の間に一茎の野菊が挟んである。利休は気づかぬふうに洞庫から瀬戸の水差と柄杓を取り出し、床の前ににじり寄ったものです。黒田如水以下相客らが固唾を飲んで見守っていると、利休はさりげなく野菊を抜いてそっと畳の上に置き、肩衝を天目に入れたまま持
って座にもどり、茶を点てて客に供しました。
やがて秀吉も勝手から出て座に加わり相伴しました。茶が終って客たちが鴫の肩衝を拝見している間に、利休は天目と水差しを洞庫に仕舞い、拝見の終った肩衝を床の間に飾り、次いで野菊の花を取ってこれをさり気なく床の勝手側の隅に寄せ掛けておいて席を退きます。この野菊はわびを衒った秀吉の作為。しかし利休を慌てさせようとした秀吉の企みは見事空振りに終わってしまいます。利休が全く動じることなくさ
らりとこれを処理したのは、心憎いほどの手際であった、と宗凡〈茶湯日記〉は伝えているのです。

この時の利休と秀吉、それぞれの心の葛藤が思い知れましょう。そもそもこの茶会は、正客如水の帰国をねぎらうもので、秀吉は去り行く都を「菊」に、飛び立つ如水を「鴫」に見立てたものと推測されます。遠浦帰帆の軸もその意を含んだもの。

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 また、この西行の古歌を踏まえており、数奇を凝らした趣向、本来であればなかなかのものと評価されてしかるべきものであったかもしれません。

さて、利休は秀吉の野菊を邪慳に捨てず、しかしまた、それを自らの茶に組み込もうともしませんでした。心の内に小さなさざなみくらいおきたかも知れません。しかしそれをつゆも色に表さず、見事にあしらい、捌いたのです。秀吉の数奇を衒う作為に対する無言の批判。しかもそれを決して他人には悟らせず、水も洩らさぬ鮮やかな処置で報いた。秀吉へ、野菊に対する挨拶は一言もありませんでした。

ここには、「朝顔の会」や「金鉢の紅梅」のような、師弟が互いに磨きあい、かつ称えあう心温まる交流の姿は微塵も感じられません。天下人と天下一茶匠の息の詰まるような対決の予兆、または、もはや永遠に分かり合おうとせぬ人間同士の冷えに冷えた空気が漂うばかりです。

※註 名物茶入を茶碗に入れ子にする所作はこの秀吉の趣向が初出といわれている(津田宗凡他会記)。以降、古田織部が好んで行い、慶長年間織部一派の間で流行した。高弟の上田宗箇もしばしばこの点前を行っており(宗箇様御聞書)、小堀遠州もこの趣向を楽しんだ、と伝える。

『宗湛日記』同年十月二十日には、

「利休老御会。聚楽にて。宗湛。二畳敷。炉。雲龍釜。環付。松かさ。環唐金。共ぶた。折入。中次。黒茶碗道具入。土水指。瀬戸 水覆。引切。手水の間に。床に橋立の壺置て。紺の網に入。緒から結。濃茶過て大壺を網をのけて。床の前に投げころばして見せらるる也。」

とあり、宗湛一人を招いた会で、名物橋立の茶壺を放り出して見せています。橋立は利休が生涯愛用した、ただひとつの大壺の名品。利休の死の直前まで、執拗に秀吉が所望し、利休も頑なに拒み続けたという、いわくつきの道具でした。

・秀吉の利休追慕

利休切腹の翌天正二十年、秀吉はあたかも利休がいまだ生きているかのような謎の書簡を残しています。

「返すがえす一段と息災。昨日利休の茶にて、御膳もあがり、面白く芽出たく候まま御心易く候べく候」(太閤真蹟集 天正二十年五月六日付大政所宛書簡)

「伏見の普請の事、利休に好ませ候て懇ろに申し付けたく候」(太閤真蹟集 文禄元年十二月十一日付前田玄以宛書簡)

一通目は、肥前名護屋城に在陣中の秀吉が、生母大政所にあて朝鮮出兵の戦況を報告したもの。「昨日利休の茶にて、御膳もあがり」は、名護屋城内山里丸にて秀吉が、利休の流儀によって茶を喫し、会席を召したという意味だと思われますが、利休死して一年、もはや往時の憎しみはなく、その風を懐かしみ、惜しんでの筆と推測されます。

二通目は、同じく名護屋城から京都所司代前田玄以に伏見城普請の指示を与えたもの。「利休に好ませ候て懇ろに申し付けたく候」の文言はまことに奇妙です。これも前の書簡と同じく利休の後に”流”の文字を入れて、利休好みの数奇を凝らして造作せよ、と命じたつもりなのでしょうか。天正十五年の聚楽第
建築には、細川幽斉と利休が設計に参加していました。それを思い出し、伏見城もそのように設計したいと思いつき、そのまま筆を走らせたものかもしれません。

「風炉の見立て」「山里の点茶」「城の普請」。折に触れ老権力者の口からでるのは、「利休ならば」の言葉ばかり。天下のことも数奇のことも、おのれの自在に成し遂げてきた専制君主。手を携え、ともにそれらを実現してきた、かけがえのないパートナーを失った痛恨の情がほとばしり出た書簡とはいえないでしょうか。

・利休の幽霊

最後に後世の利休懐旧の逸話をご紹介しましょう。常山紀談の巻十六に興味深い記事がありました。「越後国一揆堀直寄武功の事」に附りとして「千利休が事」とあります。

太閤ある時茶室に入りて火をともし炭を入るる時、千利休が幽霊あらはれ来て黒き頭巾をかぶり、炉のかたへに座し居たるが、目のうちより光生じ息に火を吐く。
太閤炭を入れ終りて、無礼なり、とてはたとにらまれしかば、利休が形退きて坐す。

 まるで菅相丞のような、凄まじい利休亡霊の形相。しかしその恨みは、たんに利休個人から秀吉個人へ向けられたものではなく、おのれが翻弄された仮借なき戦国の世と、近世以降徐々に失われつつあった”侘び数奇”への追慕の情がなしたものといえるかもしれません。

2010年06月11日 22:12

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