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仏教は誰のためにあるのか。

『沢庵の名言集』訳出にあたり、沢庵の紫衣事件の時代背景を通覧しました。江戸初期、戦国の世を制した徳川幕府は、以降二百六十年続く太平を築くべく、かつてない厳格な統制を社会のすみずみにいたるまで布きました。

その一つである士農工商という身分制度は、支配層としての武士階級に特権と規制を与えると同時に、国民のあらゆる職業・階級に逃れられない鋼鉄の首枷、足枷をはめたのです。宗教を奉ずる僧侶とてそのくびきを逃れることは不可能でした。
ここに近世特有の政教一致・統制宗教が立ち現れます。このため沢庵は己の信仰を守って幕府に反発、出羽の国へ流罪となるのです。


今回のテーマは、「仏教は誰のためにあるのか」。世界の中でも特殊な日本の仏教。その変遷の時代背景をしばらくたどってみようと思います。
たとえば漢字と同様に、仏教も日本に輸入されると徐々に変容し、日本独自の精神文化として発展してきました。しかし今日、日本人は仏教に対していくつかの疑問をもっているのではないでしょうか。

1.なぜ日本には、他国のキリスト教、イスラム教のような中心宗教がないのか。
2.名僧や聖はなぜ寺にいないのか。
3.なぜ士農工商に僧は入っていないのか。
4.なぜ仏教に、墓と葬式と法事があるのか。
5.そもそも信仰と仏教は何のため、誰のためにあるのか。

たとえば江戸時代に生れた庶民の学校〔寺子屋〕ではおもに論語など儒教のテキストが用いられました。仏教寺院で孔子を教えたのです。上に述べた多くの仏教変容は、江戸幕府の仏教統制により惹き起こされた日本仏教特有の諸側面といえましょう。

さて、幕府は具体的に何を命じ、寺や僧侶たちは生き残るために何をしたのでしょうか。以下、宗教史研究家の言葉に耳を傾けてみましょう。


・檀家制度と民衆

江戸時代以前の仏教は、日本人がいかに生きるか、いかに死ぬかの心の支えを教えてきた。民衆とともに、いや民衆の先頭に立って、民衆とともに泣き、ともに喜ぶのが僧侶の生きる道であった。しかし、戦国時代が終わり、江戸幕藩体制が確立するにつれて、僧侶の生きる姿勢に大きな変化が生まれた。江戸時代は士・農・工・商に象徴される階級関係が権力によって固定化された時代である。こうした階級関係のなかで、農・工・商はもちろん、僧侶たちまでが武士の支配を支持することによって、生きることを許されたのが江戸時代であった。

そこに、僧侶の生きる道が、民衆とともに生きることから、幕藩の民衆支配を全面的に支援するという方向に変わったのである。かつて一向一揆の指導者として民衆とともに権力と戦った本願寺教団の僧侶までもが、幕藩の意を体して、より従順な民衆を育てる武士の国家の公僕に変身してしまった。
そして、僧侶が民衆支配に積極的に協カする限り、幕藩は、これに政治的、経済的保護を与えることを惜しまなかった。だが、その保護の代償として、強烈な統制が江戸時代の仏教をはじめとする全宗教に加えられたのである。

江戸時代の仏教は、寺院法度※1によって僧侶の生活と教団のすみずみにいたるまで、厳しい統制が加えられた。僧侶には、幕府の心、公儀の心をおのれの心として、理想的な民衆育成をはじめとするさまざまな役割が課せられた。その見返りとして、寺と僧には給料としての土地が、千石、百石、五十石といったさまざまなランクで与えられた。こうして、江戸時代の僧侶は、まさに武士の政府、つまり幕藩の公務員として生きることとなったのである。僧侶の生活を律する公務員法こそ、数々の寺院法度であった。このような僧侶は、宗派ごとに厳密な本寺末寺関係でしばられ、上下の関係は士・農・工・商の世界と同じように厳しかったのである。

いっぽう江戸時代の民衆のすべては、いずれかの寺の檀家となることが強制され、それによってキリシタンをはじめとする当時の危険思想の持主でないことを、檀那寺の僧侶から証明してもらわなければならなかった。江戸時代の僧侶が依存した檀家制度※2こそ、幕藩が僧侶に贈った最大のプレゼントであったといえる。幸か不幸か、幕藩体制が崩壊し去った近代、現代においても、仏教寺院は檀家制度にしがみついて生きているのである。

幕藩の公務員として僧侶が果たした役割はいろいろあるが、そのうちで最も大きなものが三つある。その一が村役人の仕事の肩がわり、その二が思想善導役、その三が特高警察の役割である。僧侶は、檀家の人々の冠婚葬祭の証明書発行と旅行手形の権限を握っていた。この権限を利用して,檀家からの収奪をほしいままにした者も少なくなかった。さらに、僧侶が檀家や民衆に説く説法のなかに、積極的に公儀の心をとりいれ、幕藩の期待する民衆を育てあげることに協力したのである。そのために,仏教の教えのなかに、大幅に権力の要求する倫理思想※3が盛り込まれた。

これに加えるに、江戸時代の為政者が危険思想のレッテルをはってその圧殺に努力した隠れキリシタン、不受不施派(隠れ題目)、隠れ念仏などの地下信仰の摘発と処断に、僧侶は特高警察的役割を演じた。その際利用されたのが、檀家に対する宗旨人別改め※4による思想調査であった。江戸時代の僧侶が民衆に対してもつ権限のなかでも、宗旨人別改めは、民衆に対して大きな圧力と睨みとなった。宗旨人別改めを悪用した僧侶の悪徳行為に対する数々の批判書が書かれ、今日に残されている。宗旨人別改めの権限を僧侶が握っている限り、民衆は例外なしに、いずれかの寺院の檀家にならざるを得なかったのである。
幕藩の公務員としての地位によって、幕藩体制がつづく限り、僧侶の生活は安泰そのものにみえた。しかし現実はそう容易なものではなかった。幕藩体制を双肩に担っている武士でさえ、江戸時代の中ごろともなれば、その封禄だけで体面を維持することは難しかった。そこに生まれたのが武士、なかでも下級武士のアルバイトであった。まして幕藩体制を側面から支える僧侶が、勝手もと不如意を、幕藩から補ってもらうわけにはゆかなかった。僧侶とて、武士にもましてアルバイトが必要となったのである。

・葬式仏教化

僧侶が檀家制度の上にあぐらをかき、民衆の思想的監視役におさまっているあいだに、僧侶は民衆の立場に立っての生死の問題を信仰によって解決することを忘れ去ってしまった。生きることを教えられない僧侶に、民衆からの布施は集まらない。そこで、僧侶は食うために檀家の墓の面倒をみはじめるのである。戦国時代末までの僧侶は、一般民衆の墓や葬式などに関係することは少なかった。そうした仕事は、一ランク低い勧進聖※5たちが、村々を回って行なうのが常識であった。江戸時代の僧侶は一般民衆の葬式と墓守りの仕事を、勧進聖の手から奪い取って、副収入の財源としたのである。

これで僧侶は一息ついたかにみえたが、江戸時代二百六十余年のあいだになされた生活の向上はさらに数々のアルバイトを僧侶に余儀なくさせた。人間一度しか死なない。葬式は一人一度だけである。これを何回にも活用し、死者を媒介として収益をあげるために考えついたのが、死者、つまり民衆の祖先の法要の回数の増加であった。そのために生まれたのが檀家の人々の過去帳※6の作成であったといえる。民衆の過去帳がつくられはじめたのは、江戸時代も中期を迎えるころであった。僧侶は、過去帳によって、檀家に対して、三回忌、七回忌、十三回忌等々の法要を次々に要請し、その度ごとに出されるお布施が僧侶の生活を支えることとなったのである。こうして江戸時代の仏教は、生者のためより死者のため、つまり完全な葬式仏教化への道を急速に歩んでゆくのである。

幕藩権力は寺院法度で僧侶を虜にし、僧侶は彼らのもつ檀家に対する権限、なかでも宗旨人別改めによって、民衆の生殺与奪の権を握った。要するに、幕藩と仏教の完全なる癒着のなかに、仏教の国教化ともいえる事態が実現したのである。

御用宗教化した江戸時代の仏教による宗教的重圧は、江戸時代の民衆の苦悩を倍加させた。しかも、江戸時代の仏教は、生き生きとした信仰を忘れ去り、檀家制度の枠のなかに民衆を押し込め、年貢などの重税に苦しむ民衆の苦悩に上のせするかのように、寺への布施や寄付という経済的負担の重荷を背負わせたのである。その当然の結果として、江戸時代の民衆のなかには、生きた信仰を求めて、さまざまな巷の宗教に心を委ねるものが少なくなかった。
以上のような権力の虜となった御用仏教に対する反発が、幕藩権力と僧侶の監視の目を盗んで、民衆をいわゆる反「体制宗教」の信仰に追いやったのである。そこに生まれたのが地下で信仰をつづける、隠れキリシタン、不受不施派(隠れ題目)、隠れ念仏とよばれた信仰者の群れであった。いうまでもなく幕藩と御用仏教は手を結んで、これらの摘発と弾圧に狂奔し、これらを圧殺していったのである。やがて民衆が流れていったのが流行神・仏※7であり、江戸末期に生まれた教祖信仰であった。


(『日本宗教史2 近世以降』「第一章 幕藩体制と宗教 1近世社会の宗教」 笠原一男 山川出版社 1982.10 )


※1寺院法度 江戸幕府が仏教寺院、僧侶を統制するために発布した一連の法令。1601年(慶長6)の高野山法度に始まり16年(元和2)までに46通が下された。当初は個別寺院あてのものが多かったが、その後各宗派本山に下されたことによって、従来あいまいであった宗派、本山を確定することになった。家康の政治顧問であった金地院崇伝がこれらの制定に関与している。その内容は宗学奨励、本寺末寺関係の確定、僧侶階位や寺格の厳正化、私寺建立禁止などが主要なものである。
※2檀家制度 寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう。江戸幕府のキリスト教禁止令において説明される場合には、特に寺請制度と呼ばれる。仏教に関わるものであるが、江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つなど、日本固有のものである。
※3倫理思想 儒教の忠や孝など、社会秩序維持のための思想・規範。
※4宗旨人別改め 江戸幕府の宗門人別改帳による戸籍と信仰調査。領主が村ごとに作成させた。家ごとに戸主を筆頭に家族成員、奉公人、下人などが記載されている。各人ごとに檀那寺が記され、その寺の証印があり、これによってキリシタンでないことが証明される。戸主名の頭に〈百姓〉〈水呑〉などの身分も記された。帳面の末尾にはその村の戸数、人口合計(男女別区分)が記される。
※5勧進聖 寺院や橋の建設のため、全国を勧進して歩いた僧。勧進の原義は衆生救済のために、諸国を歩いて念仏を勧めることにあったが、莫大な経費を必要とする堂塔などの創・再建の資財調達を主目的として回国する聖を勧進聖と称するようになった。東大寺大仏の造営を成就させた行基や、俊乗坊重源は史上著名な勧進聖である。
※6過去帳 寺院に備える死者の名簿。戒名と死亡年月日と俗名を記している。出自と戸主との続柄を書いたものもあり、死亡原因、たとえば何年の地震や津波、疫病、戦死などを記したものがありその当時の状況をうかがわせることもある。過去帳の目的はその寺にゆかりのある死者を、毎月命日ごとに朝暮勤行で回向するためである。
※7 流行神・仏 一時的に信仰されるが、急速に忘れられる神仏で、民間信仰にしばしば見られる。流行神現象は社会不安や、社会変動を背景とする場合が多い。7世紀大化改新の直前に出現した常世神、945年地方農民層に推戴され入京した志多羅(しだら)神、近世初頭の鍬神信仰、幕末の〈お蔭参り〉〈ええじゃないか〉も流行神現象である。

上の一文を読み、ぼくは江戸キリシタン弾圧以上に、「仏教と信仰の受難」をなまなましく感じたものです。幕府の犬と化した僧侶たち。しかし食うために幕政に加担せざるを得なかったであろう末寺や弱小寺院には信仰を守ろうとしたまことの仏弟子も多くいたのではないか。法度と信徒の板ばさみとなった彼等の苦衷はいかばかりか、朝夕勤行の声もふるえていたのではないか、と想像するしかないのですが。

この論文は、水上勉『沢庵』にも引用されたもの。その他、近世の神道、〔垂加神道〕、〔国学〕、〔復古神道〕などについても興味深い論考があります。近世宗教史にご興味がありましたらあわせてぜひご一読ください。

2013年06月01日 19:58

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