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鈴木大拙の「禅と能」。〈山姥〉が表す無限の愛

日本文化論を世界に広めた、鈴木大拙のベストセラー『禅と日本文化』。これまで多くの方が同著に触れたと思いますが、その〔続編〕があることは、意外と知られていません。
コンパクトな新書版ゆえ、正編に収録されなかった原著の他の章をまとめたものです。

内容は、以下目次をご参照ください。

・目次

第一章 禅と日本人の自然愛(一) ~富士山について
第二章 禅と日本人の自然愛(二) ~北条時頼・時宗
第三章 禅と日本人の自然愛(三) ~良寛
第四章 禅と日本人の自然愛(一) ~さくらの歌
第五章 禅と能
第六章 禅と茶人
第七章 禅と問答
第八章  禅と空観

今回、言の葉庵では、『続 禅と日本文化』より、〔第五章 禅と能〕をご紹介しましょう。
本章では、数多い能の中でもとりわけ哲学的・禅的と評価される〈山姥〉が取り上げられ、山姥という存在そのものが内包する深遠な哲理に肉迫します。
以下、本文の一部をご案内しましょう。
(原文の旧字体・旧仮名遣いは、現代の字体と仮名遣いに置き換えています)

能の研究は実に日本文化一般の研究となる。その中には日本人の道徳観念・宗教的信仰・芸術的思慕が含まれている。能は昔武土階級から庇護されたので、多少厳粛な雰囲気につつまれている。次に示す謡曲は普通最も知られている二百番の中から選んだものであるが禅から見て特に興味あるものである。

「山姥」は深い思想の染みこんだ仏教的特に禅的な謡曲である。それは恐らくは借侶が禅を広める為に書いたものであろう。しかし、誤解されて、多くの能の愛好者もこの曲の眞意を逸している。山姥というのは、文字通りには「山の老女」というのだが、それは我々誰の心にもひそかに動く愛の原理を現わしている。普通自分たちはそれと意識せずに、始終それを悪く云っている。多くの人は愛とは何か見た目の美しい、若々しい、たおやかな、魅力のあるものだと思っている。が事実は違う。愛は人の目には止まらぬが惜しみなく働くものであるから。目に止まるのはその働きの表面的の結果だけで、人はそれを美と考えるが、本来愛の働きは美しいのがあたりまえである。しかし、愛そのものはよく働く農婦のように、やつれた姿をしている。他のものの為に苦労を重ねるところから、その顔は皺だらけで、その髪は真白だ。解決しなければならぬ難問を多く身につけている。その生活には苦労の絶え間がないが、喜んでそれに耐える。世界の果てから果てへと旅を続けて、休むことを知らず、止まることを知らず、憩うことを知らぬ。かかる倦むことを知らぬ働きという点から見れば、愛を表現するのに山姥を以ってするのはふさわしいことである。

 山姥の話は古来、日本人の間に広まっていたに違いない。彼女は必ずしも醜悪な老女ではなかった。普通年寄に現わされているが、いたって恵み深い性質で、村にやって来ては、立ち去った後には福を授けていった。山姥は山から山へさまよい、村人や山人に目をかけてくれると思われていた。謡曲「山姥」の作者は、この観念を作品の中に盛って、山姥を以って、自然と人類の背後にある眼に見えぬ力とした。人々は普通、好んで日本の哲学・神学・文学に表されている、かかる力について語るが、単なる話以上に出ようとはせぬ。現実にそれが現れるとなれば躊躇する。丁度、いつも龍を描いている画家の前に、本物の龍が現れて、その神秘的な姿を、もっと真実に忠実であるように描かせようとすれば極度に驚いて画家は気を失ってしまうようなものだ。人々は山姥の事を謡うが、彼女が親しく現れて、その生の内面を見せれば、途方にくれてどうしていいかわからない。それ故、禅の説くように、われわれの意識の深奥を深く掘り下げんと思うならば、自らの手で現実を把握する事を恐れてはならぬ。

あらかじめこれだけのことを云っておけば、謡曲「山姥」を理解することが出来るであろう。その意図はこれまで、外国の記者からも、日本人からも、はなはだしく書き誤られて来た。謡曲を翻訳することは難しい。恐らくは不可能な事であろう。その不可能な事をやろうという大それた考えは自分には毛頭ない。次に示すのは、この謡曲に、美しく与えられている一切の文学的潤色を去った、単なる梗概である。

本著はそもそも欧米で、英文にて出版されたもの。キリスト教文化圏読者を想定して、仏教の〔慈悲〕をキリスト教の〔愛〕へ置き換えて書かれています。山姥とは、その恐ろしい姿かたちに反して、至高の愛を与える、自然そのものである、と喝破した大拙の慧眼には驚くほかありません。
以降、謡曲〈山姥〉に沿って、くわしく詞章とその背景・思想が読み解かれていきます。終曲で山姥が都の遊女(ツレ)に、わが心情を吐露し、「山また山」を駆け巡り、飛び去るくだりを大拙の美しい訳文でご鑑賞ください。

『妾がこの世にあり、この世とともにある時、村人の山に来たりて薪をとるを助ける。彼等は重き荷を負い、花の木陰にしばしの憩いを求める。妾は村人とともに月夜を重荷を分かちて歩き、村まで送れば、彼等はその働きを終わりて安らかに眠るであろう。妾が機織りに役立つことあるも、その人はよもこれに気づくまい。その機を窓近く据え、筬にいそしむ時、輪と台のメロディに合わせて、戸外の鶯が囀る。これを見守るものもなく手をかすものもなきに、あたかも自ずと進むがごとく、その業は障りなく進む。秋深く霜が地をよそおう時、家婦達は冬近きを知って暖衣をおもう。村の家々よりは月夜に衣打つ砧の音が聞こえる。その時、山姥の手が砧の音とともに動くとは、よもや彼女たちも想うまい』

『都に帰ったら、山姥が勤めるかかる数々の役割を、歌に歌ってください。しかし、そう妾が望むのも、これも一種の妄執というものでしょう。あなたがどう歌おうと、山から山へとさまようのが、とこしえに妾のつとめで、幾ら嫌でも仕方はありません。一樹の陰を分かち合い、一河の流れを汲み合うも、みな他生の縁というもの、わたし達の間ではことにそれが深かったのです。あなたが妾のことを歌って名を上げたのも仮初のこととは思えません。枝葉の浮かれごとを歌っても、直ちにそれが仏陀の徳を讃える因となるでしょう。お名残惜しいが、お別れする時が来ました。それではさようなら、お達者で……』


『続 日本文化と禅』鈴木大拙 岩波新書 昭和17年10月
第五章 禅と能 ― 謡曲「山姥」の禅的解釈 ―

2014年03月05日 17:12

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