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心の断捨離=メタ認知。

流行のキーワードとして、「断捨離」という言葉をよく耳にするのではないでしょうか。
これは身辺の不要なモノを整理して、シンプルな生活と心の安定を取り戻そうとする考え方。
しかし、対象をモノではなく、考えや心においた「心の断捨離」が最近注目を集めています。先日、日本経済新聞に掲載されたコラムを要約して以下にご紹介しましょう。

「心の健康のために、自分にはできないと思うことを上手に捨てることが大切。
それは、心の断捨離であり、本当に大切なものを見極め、自分を振り返る余裕をもつことである。

自分を振り返る心の働きを認知心理学では、“メタ認知”と呼んでいる。メタ認知により、生活はスムーズになり、悩みも少なくなる。

人間は時として、思い込みで行動し全体が見えなくなってくる。一つのことにとらわれ、本当に大切なことに目が向かなくなる。ささいなことにこだわり、前に進めなくなる。
こうした時に、見ていなかったものに目を向ける、一段上の心の働きが必要である。」

(日本経済新聞2015/7/12朝刊 「こころの健康学」認知行動療法研修開発センター 大野裕)


■自分自身の心を対象化する、メタ認知

メタ認知とは、1970年代に記憶の発達研究から提唱された概念です。
自分自身の思考や行動を対象化して認識することで、わかりやすくいえば、他人の目で客観的に自身の認知や行動を把握することをいいます。
一般的には以下の4つの区分で定義づけされています。

1.Knowledge Monitoring Ability(能力を監視する知識)
2.Knowing about knowing(知っているということを知っていること)
3.Cognition about cognition(認知していることの認知)
4.Understanding what I understand(自分の理解していることを理解すること)

メタ認知は、セルフ・モニタリングやセルフ・コントロールにとりわけ有効であり、その獲得には必ずしも高いIQを前提としないため(Schraw,1998)、近年学習と教育分野で重要視されているのです。


■記憶を呼び出す、メタ記憶

メタ認知の下位概念として、メタ記憶があります。これは、「記憶していることを、記憶する」こと。

メタ記憶が、実際の記憶を探り当てる過程には、「知っている感じ」(Feeling-of-knowing/ FOK)と、「わかりそうな感じ」(Feeling of warmth/FOW)の2つの指標があります。
これらは、人がよく何かを思い出そうとするとき、「のどもとまで出かかっている」感覚を数値化・測定しようとするためのモノサシです。あるメタ記憶の研究で、とても興味深い調査結果が導かれました。(J.Metcalfe,1986)

*FOW(もう少しでわかりそうな感じ)測定のため、記憶を呼び起こす洞察が必要な課題を提示。10秒ごとにFOWを0(まったくわかりそうにない)~10(完全にわかった)で評価した。

・所見1:答えを出す前から、FOWが高い場合は誤答になりやすい。
・所見2:正解にたどりつく場合、直前のFOWは弱く、突然の洞察により一気にわかる。
・所見3:FOK(記憶検索)は漸進的、FOW(洞察解決)は非漸進的である。

上の所見2をみると、人がモノを思い出す場合、「何となくわかりそうな感じ」は直前までほとんどなく、ある瞬間、突然正答に導かれる、というのです。
たとえば、禅の悟りで、小悟を得た者はなかなか真の悟りには至り得ず、愚かな修行者ほど豁然として大悟を開くことがある、と聞きます。


■仏教で千年前から実践されてきた、メタ認知

認知心理学の下で新しく命名され、発達・学習・教育の各分野で注目を集める、メタ認知。
心の断捨離を実行する、自分の中のもう一人の自分、という考え方は、認知科学が成立するはるか以前から、わが国とアジア諸国でセルフコントロールの有効な方法として実践されてきたのです。

 心の師とはなれ、心を師とせざれ。
 (『珠光茶道秘伝書』村田珠光)
http://nobunsha.jp/meigen/post_52.html

侘び茶の開祖村田珠光は、茶道精神の深奥は、わが心を監視するもう一人の自分にある、と看破していました。これは、大般涅槃経にある、「願作心師、不師於心」が出典とされていますので、古代仏教の教え。禅や仏教では、千年以上も前から心の修行のスタンダードだったことがわかります。


■世阿弥の「目前心後」「離見の見」とは

作者自身を客体化する文学・芸術、とりわけ舞台芸術の身体表現において、メタ認知は欠くべからざる概念といえましょう。

「舞に目前心後と云ふことあり。目を前に見て、心を後に置けとなり。これは、以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見る所の風姿はわが離見なり。しかれば、わが眼の見る所は我見なり。 離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。その時はわが姿を見得するなり。」

(『花鏡』世阿弥)

世阿弥の説く、「目前心後」「離見の見」は、伝統芸能である能に限らず、今日の演劇・演奏・演舞など、時間芸術すべてに通底する、必須のマインド・セットではないでしょうか。
自分が解釈した作品世界を精魂込めて伝えたい、積み重ねてきた訓練の結果を全力で表現したい…。実はそのような演者の思いはほとんど必要ではなく、観客からどのように見えるのかだけが重要なのですから。


■真実の自分を映す鏡をもつ

自分自身を徹底的に断捨離し、国家創業に身命を捧げた唐の皇帝太宗。かの人が終生喜んで受け入れ続けた諫言は、実は自分の中のもう一人の自分の声ではなかったでしょうか。

「そもそも銅を磨いて鏡を作れば、映して衣冠を正すことができる。いにしえ
を鏡とすることで、国の興亡盛衰を知ることができる。人を鏡とすれば、善悪
是非を明らかにできよう。朕はつねにこの三つの鏡を持ち、おのれの過ちを防
いできた。今、魏徴が亡くなり、ついに一つの鏡を失ってしまった」
(『貞観政要』巻第二任賢第三)

太宗は自分の目では直接見ることのできないものを、三つの鏡を通して感得しようとしました。一つ目は容貌や衣冠を映す銅の鏡。二つ目が歴史や故事という過去の鏡。そして三つ目が、自分の真の姿を映してくれる、他者の鏡です。自分で自分自身の心を見ることは、なかなか難しい。そこで、太宗にとってメタ認知のもっとも重要な鏡が、諫臣魏徴その人でした。三つ目の鏡はまさに希代の明鏡。真実の己の姿をあますところなく映し続けてくれたのです。


細かな事に煩わされず、周囲に惑わされず、怒らず、迷わず、後悔しない生き方。
自分の中の一段上にいる自分こそが、そんな生き方の最良の師なのです。


参照URL

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=cYT_hAa3pv8J&p=%E3%83%A1%E3%82%BF%E8%AA%8D%E7%9F%A5&u=koumurayama.com%2Fkoujapanese%2Fmetacognition.doc
http://www.ice.or.jp/cnts/somu/kyogaku/rink-4/s-200641.pdf

2015年07月16日 18:31

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