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禅と中世日本文化シリーズ研修「第四回 禅と武士道」を開講

11月7日(月) 、日本文化体験交流塾において、
禅と中世日本文化シリーズ研修「第四回 禅と武士道」を開講します。

◆禅と中世日本文化研修 「第四回 禅と武士道」

日時 11月7日(月) 10:00~12:00
場所 日本文化体験交流塾研修室(小石川本部)
講師 水野聡(能文社代表)
受講料:IJCEE会員 2,800円、一般 3,500円
定員 65名

・カリキュラム予定
●武士道の倫理・道徳
●武士道のタイプ
●儒教と禅と武士道
●武士道書『五輪書』『葉隠』とは


「剣禅一如」。鎌倉時代、わが国に伝わった禅は、同時期に興隆した武士集団に
ことのほか歓迎され、広く受け入れられました。
以降、徳川幕府終焉まで武士が支配する日本社会では、悟りと直覚を大本とする
禅が精神修養の基礎として、重んじられてきたのです。
禅は武士層のみならず、やがて広く一般大衆に受け入れられ、
宗教にとどまらず、学芸や文物の諸相で様々な文化を開花させていくこととなります。

当講座では、武士道書の代表作品として『葉隠』を取り上げ、
名言と名段落をご案内する予定です。
そこに書かれているのは、ただ武道の極意だけではなく、人が人として矜持をもち
生涯をまっとうしていく叡智と実践に満ち溢れたもの。

以下に以前【言の葉庵】でご案内した「葉隠 名段落集」より
いくつか抜粋して、戦国武将たちの輝きに満ちた、深い智慧に触れてみたいと思います。

■葉隠 名段落集
(聞書第一より)

・武士道とは死ぬことと見つけたり

二 武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。


・一人の知恵は一本の木が突っ立ったようなもの

五 わが一分の知恵ばかりで万事進めようとするゆえ、私となり天道に背き悪事となるのだ。他人から見ると、汚く、手弱く、狭く、効果もなく見える。よい智恵を思いつかぬときは智恵のある人に相談すればよい。その人はわがことにはあらぬゆえ、私がなく自然な智恵で考える。されば道に叶うものである。はたから見ると、根強く確かに見えるもの。たとえば大木がしっかりたくさんの根を張っているようなものだ。一人の知恵は一本の木が突っ立っているようなものである。

・招待された席では「よい客だ」と思われるようにしなければ客ではない

一八 明日のことは前夜より案じ、書いておいたものだ。これも人に先んじて計画しておきたい心得である。いずれかへ約束により出向く時は、前夜より先様の諸事万端、挨拶の会話、礼の仕方まで案じおいた。某所に同道した時、以下のように話した。訪問する時は、まずご亭主のことを良く考えながら行くがよい。和の道であり、礼儀である。また、貴人のもとへ招かれたなら、億劫に思ってゆけば座が持たぬ。さてさて、ありがたいことかな。どんなに面白いことであろう、と思い込んで行くとよい。総じて用がない限り、呼ばれぬ席には顔を出すものではない。招待された場合は、さてもよい客ぶりだ、と思われるようにしなければ客ではない。いずれにせよ、その座の段取りを前もって呑み込んで行くのが大事なこと。酒席は一番大事だ。引け際が肝である。飽きられず、かといって早すぎもしないようにありたいもの。また常のことでもあるが、出された料理を遠慮しすぎるのも、かえってよろしくない。一度二度すすめられ、さらに言われたらいただきなさい。はからずも行きがかり、引き留められた時などの心得もかくのごとし。

・覚の士、不覚の士

二一 覚の士、不覚の士ということが軍学で取り沙汰されている。覚の士とは、色々な出来事を経験し、対応方法を身に付けただけということではない。前もって予想される方法をいろいろ準備しておき、いざその時に至り、やりおおせた者をいう。つまり、万事前もって決め置くのが、覚の士である。かたや不覚の士は、その時になってたとえ上手くいったとしても、それはたまたまのことである。前もって検討しないものを不覚の士というのだ。

・酒は公式なものである

二三 酒席は厳格であるべき。気をつけて見ていると、大方はただ飲んでいるだけだ。酒というものは、きれいにしめてこそ酒といえるのだ。気遣いがなければ、いやしく見えるばかりである。飲み方次第で、その人の心入れも器もおおよそわかってしまう。酒は公式なものである。

・その道に深く入れば「これでよし」と思うことができなくなる

四五 某剣術者が晩年にこう語った、
「剣術家は一生の修行に段階がある。下位は修行しても物にならず、われも下手と思い、人も下手と見る。この段階では役に立たない。中の位はいまだ役には立たないが、わが不足に気がついて、人の不足も見えてくる。上の位は、わが術を体得して自慢でき、人にほめられて喜び、他人の不足を残念に思うのだ。これは役に立つ。上々の位は、知らんふりをしている。人も上手と見る。大方はここまでだ。この上に一段立ち越え、道の絶えた位がある。その道に深く入れば、ついに果てもないことを知るゆえ、これでよし、と思うことができなくなる。われに不足あることを真実悟るので、一生成就の念なく、自慢なく、卑下の心もなくして終わるのだ。柳生殿がいった
『人に勝つ道は知らず、われに勝つ道を知りたり』
も、昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上げて行くことである。これも果てがないという意味なのだ」。

・大事な思案は軽くすべし

四六 直茂公のお壁書に、
「大事な思案は軽くすべし」
とある。一鼎の注には、
「小事の思案は重くすべし」
としている。大事というものは、せいぜい二、三箇条くらいのものであろう。これは普段詮議しているものなので皆よく知っているはず。前もってよくよく思案しておき、いざ大事の時には取り出して素早く軽く一決せよ、との意味と思われる。事前に考えておかなければ、その場に臨んで、軽く分別することも成り難く、図に当たるかどうかおぼつかない。しかれば前もって地盤を据えておくことが
「大事な思案は軽くすべし」
といった箇条の基本だと思われる。

・聖の字をヒジリと読むのは、「非を知る」という意味

四七 宗龍寺の江南和尚のもとに、美作守殿、一鼎などの学問仲間が集まり学問談義をしかけたところ、
「皆様方は物知りで結構なことである。しかれども道に疎いという点では凡人にも劣るようだ」
といったので
「聖賢が説く道以外に、道というものはなかろう」
と一鼎が反論した。江南和尚は
「物知りが道に疎いというたとえは、東にいくはずの者が、西へ行ってしまうがごとしである。物を知るほど、道から遠ざかってしまう。その仔細は、古の聖賢の言動を書物にて見覚え、話にて聞き覚え、見識が高くなり、もはや自分も聖賢に達したかと凡人を虫のように見下すからである。これが道に疎いということである。そもそも道とはわが非を知ることである。考えに考えて非を知り、一生打ち置かないものを道という。聖の字をヒジリと読むのは、非を知るという意味。仏は知非便捨の四字でもってわが道を成就すると説いている。
心に心をつけてみれば、一日の間に悪心が起きること、数限りない。われはよしと思うことなどできるはずもない」
と諭したので一同はそれより和尚を尊敬したとのこと。しかれども武辺は別物だ。大高慢にて、われこそ日本に並びなき勇士と思い込まねば武勇をあらわすことは成り難い。武勇をあらわす覇気の位は、かくあるものだ。口伝あり。

・奉公人に疵のつくことは、富貴になることである

五六 奉公人に疵のつくことがひとつある。富貴になることだ。貧乏さえしていれば、疵はつかぬもの。また、なにがしは利口者だが、仕事の非が目に付くたちだ。この位では立ちかねるもの。世間は非だらけと、初めに思い込まねば、おそらく顔つきが悪くなって人が受け入れぬ。人が受け入れねば、いかによい人でも本義ではない。これもひとつの疵と覚えたとの由。

・大雨の感

七九 大雨の感ということがある。道中にわか雨にあい、濡れたくないと道を急いで走り、軒下などを通ったとしても濡れることに変わりはない。最初から腹をくくって濡れるのであれば、心に苦しみはない。どっちにしても濡れるのだ。これは、よろずにわたる心得である。

・奉公人の打ち留めは、浪人切腹に極まる

九二 なにがしがいうには、
「浪人などといえば難儀千万この上もないもののように、皆思っている。その期に及ぶとことのほかがっくりとなり、へこたれてしまうものだ。浪人してより後はさほどでもない。前に想像していたのとは違う。今一度浪人したいくらいだ」
とあった。もっとものことである。死の道も、平生死に習っていれば、心安らかに死ねるもの。災難というものはあらかじめ予想していた程ではないものを、その時を思い描いて苦しむのは愚かなことである。奉公人の打ち留めは、浪人切腹に極まると常々覚悟すべきである。

・人の心を見たければ、病気になれ

九四 「人の心を見たければ、病気になれ」
という。普段親しくし、相手が病気または難儀の時大方にする者は腰抜けだ。誰であれ不幸な人には別けて立ち入り、見舞いや付け届けをすべきだ。恩を受けた人には、一生疎遠にできないものだ。かようの事にて、人の心入れはわかるもの。しかし、わが難儀には人に頼り、その後思い出しもしない人が多いものだ。

・究め役は罪人の言い分を立てて、助かるようにと願って裁くべき

一一〇 目付け役は、大局的にものを見なければ、国の害となる。目付けを仰せ付け置かれるのは、殿が国をお治めするためだ。殿様おひとりで国のすみずみまで見聞なさるのは無理なこと。殿様のお身持ち、家老の邪正、処分の是非、世間の声、下々の苦楽を克明にお耳に入れ、政道を正せるようにするためである。
目付けとは、上に目を付けるのが本意である。しかるに下々の悪事を見出し聞き出し、いちいち言上するので世の中悪事が絶えず、かえって害を招くといったのだ。下々に直なる者は稀である。下々の悪事は国家の害にはならぬもの。また、究め役は罪人の言い分を立てて、助かるようにと願って裁くべきだ。これもすなわちお家のためになる。

・分別も久しくすれば寝まる

一二二 古人の言葉に、七息(しちそく)思案というものがある。隆信公は
「分別も久しくすれば寝まる」
と仰った。
直茂公は、
「万事しだるいものは十に七うまくいかぬ。武士は物事手っ取り早くするものぞ」
と仰った。
心気がうろうろしだすと、分別も埒が明かず。淀みなく、さわやかに、凛とした気では、七息の間に分別は済むものだ。胸すわって突っ切れた気の位である。口伝する。

・添削を依頼してくる人の方が、添削する人より上である

一三八 人を越えたければ、わが振る舞いを人に言わせ、意見を聞くだけでよい。並の人は、自分ひとりの考えで済ますゆえ一段越えるということがない。人に談合した分だけ、一段越えたものとなる。
なにがしが役所の書類について相談にやってきた。自分よりもよく書けるし、勉強もしている人である。添削を依頼してくる人の方が、添削する人より上なのだ。

・成就したと思う心そのものが道には背く

一三九 修業というものは、これで成就したということがないものだ。成就したと思う心そのものが道には背く。一生の間、不足、不足と思い、思い続けて死ぬことが、後から見れば成就した人といえるのである。純一無雑、打成一片とは、なかなか一生の間には成りがたい。混じり物がある間は道ではないのだ。奉公武辺一片になるよう心がけるべきである。


●『葉隠 現代語全文完訳』能文社 2006年
※能文社『葉隠』は11月7日の講座でもお求めいただけます。

2016年11月01日 18:10

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