言の葉庵 |能文社 |お問合せ

本当に同じ能を観たのだろうか?[目利きと目利かず 第二回]

むかしから”能”という、ことばの語源について論議が多く、いまだ決着をみない。『能楽盛衰記』では、上古よりの弓・鞠・包丁・馬…など、芸能十項目をくくる「十能」起源説を紹介。さらに、三蔵法師が説いた仏教の「能所一如」すなわち「能所」説などをひとしきり開陳したのち、某碩学の「まあ、”芸能”か”堪能”から来ていると考えるがよかろう」との鶴の一声で、歯切れ悪く結んでいます。

 ぼくもまあ、能力の”能”からだろうなあ、とは思っているのですが、とくに「目利き」の”能”ではなかろうかとにらんでいる。能こそ、まさに目利き(と目利かず)の代表芸能だからです。

 能の前身芸能、猿楽と田楽で、たまに「猿楽能」、「田楽能」なるものが演ぜられた。猿楽も田楽も当時主となる芸は、物真似・滑稽技・曲芸・軽業などで、観衆をやんやとわかせたものだったらしい。かたや「猿楽能」は真面目な演目、真面目な芸です。時代が下り、芸系が主客転倒して、猿楽が狂言、猿楽能がいまの能となったといいます(『同書』)。
歴史的にみて、猿楽と能が分離した頃から、将軍も貴人も能を愛好し出したと思われる。客層の変化に応じて、目利きと目利かずの問題も表面化してきたものと推測されます。滑稽芸や曲芸・物真似なら、客を驚かせ、感心させれば、ごはんが食べられる。

「どつと云う位、初入門にも入るべからず。たとへば、京へ上る者、東寺を見てあっと言いたる程也『申楽談儀』」。

 ところが世阿弥の時代になると、客層も芸質も変わり、

「今の増阿(世阿弥と同世代、田楽新座の名人)は能も音曲も閑花風に入るべきか。南都東北院にて、立ち合いに、東の方より西に立ち廻りて、扇の先ばかりにて、そとあひしらいて止どめしを、感涙も流るるばかりに覚ゆる。かようの所見る者なければ、道も物憂く」

 と世阿弥自身嘆いています。ところが、本来猿楽一座の基盤は、寺領神域、田舎・遠国と一般庶民の支持にありました。貴所での演能、台覧能とはいっても、観客はいつも将軍義満、二条良基ばかりではありません。鑑賞眼の低い一般大衆にはどのような芸をして見せるべきか?

「およそ能の名声を得るにあたっては様々な場合があろう。上手の芸が目利かずの心を満足させることは難しい。下手は目利きの眼に合うことはない。下手な芸が目利きの眼に叶わないことに何の不審があろうか。上手の芸が目利かずを満足させないこと、これは目利かずの眼が芸の高尚さについていけないところではあるが、能を会得した上手でさらに工夫を尽くすシテであれば、また目利かずの眼にも面白いと映る芸をなすべきである。(中略)この芸能は、万人に愛され受け入れられることを、一座繁栄の福の元としている。ゆえに、あまりに難解にすぎる芸のみに偏ればまた諸人の評価も受け難い。このため能に初心を忘れず、時に応じ所により愚かな眼にもなるほどと映るような能をすることがすなわち福となる(『風姿花伝』)」。

 父、観阿弥は地方巡業の折、事前にその土地の風俗・習慣、所の人の好みをよく調べ、自身の演目や芸に反映。すなわち何方で演能しても、喝采を受けないということはなかった、と世阿弥は述懐します。
ところで、目利きは生まれながらの特殊な才能ではない。経験や環境により、育まれるものと、ぼくは思っているのです。

 時代は下り、現在の能。たとえば「隅田川」を観ての帰り、こんな会話が…。

今日が初めての観能「最初から最後まで、何もしないで、舞台のいちばん奥に座っていた二人。足痛くならなかったかしら。さすがプロね」

観能歴三年目「子役がうちの子にちょっと似ているの。もう、かわいそうでかわいそうで、ずっとその子に目が釘付け。ずっと泣いていたわ」

観能歴二十年目「そうね。トメ拍子の時はじめて自分が泣いていたのに気付いた。シテが南無阿弥陀仏を唱え、鉦鼓を打つのだけど、一心不乱で拍子も全く無視。あちらこちらとフラフラさまよって…。ああ。近江の犬王の隅田川を見てみたかったわ」

 と、同じものを観ていたとは思えないほどの差があるのです。これはもって生まれた美意識や素質の差ではなく、経験や知識により、受容度がぐんと広がった結果だと思います。

…目利きは育つもの。

 さて、今の日本に貴人はおらず、一億すべてが一般庶民。能の環境は、世阿弥以前の猿楽の時代と似てきています。カリスマ役者や新奇な演目で、ひとまず能楽堂に取り込んだ観客を、今後どのように目利きへと育ててゆけるのか。
 これは能に限らず、文化全体の問題で、今の日本は非常に憂慮すべき状況だと思っています。であれば、気がついた人、ひとりひとりの力量で、やれることから手を付けていくべき。ぼくも微力ですが、別の場所で具体的な取り組みをスタートさせました。

2006年03月01日 21:59

コメント

トラックバックではないのですが。とても痛み入る内容だったので一言。
狂言を見始めて一年と少しがたちました。お能は学生の時に数ヶ月やって辞めてしまったたわけ者です。キャッチーな狂言への興味から、もう一度お能や演劇に取り組む気が起きてきて、荘園制や染色技術にまで興味が広がりました。

求心力のある伝統芸能の担い手と出会った後は、どこまで自分が相手と拮抗していけるかが問題です。真の芸には真の心で答えるべきです。私も早く目利きになりたいものです。

投稿者 しおり : 2006年03月02日 00:27

「目利きは育つもの」
シンプルに本質を突いた一文に感心致しました。

お茶であっても能であっても日本人であれば潜在的な興味はあるものだと思いますが、”興味”を”楽しみ”にまで消化させようとするなら基礎体力は必須です。スポーツと同じように本を読むだけでは身につかないその力をどうやって手に入れるのか、そしてそれがどんな素晴らしいことなのか。いかにわかりやすく伝えるかが、きっとこれからの課題なのでしょうね。

投稿者 hijiri : 2006年03月02日 13:12

しおりさま

いつもコメントありがとうございます。

〉お能は学生の時に数ヶ月やって辞めてしまった

もったいないですねぇ。また始めませんか…。

〉真の芸には真の心で答えるべきです

世阿弥も、名人が大舞台で名曲を演じても、なぜかうまくいかないことがある…、といっていますが、これは見所が原因だと思っています。お能ほど、舞台と客席の責任が等分に分担されている芸能は世界でも珍しいと思っています。真の名舞台には、真の名観客・名鑑賞眼が必要なのですね。

Hijiriさま

コメントありがとうございます。

〉”興味”を”楽しみ”にまで消化させようとするなら基礎体力は必須

おっしゃるとおりです。書や美術鑑賞、バレエ、クラシックであろうと、本当の面白さをわかろうとすると、何が面白いのか必死でわかろうとしますよね。これはなかば強制されてやる学校の勉強ではない。その対価として、努力した時間分の「かけがえのない何か」が与えられるのだと思います。
この努力の末手に入れた「宝物」を他の人にもわかりやすく伝えることが難しい…。でも、何とかやりようによってできるのではないか…、と考えいろいろチャレンジしているところです。

しかし、能のそれは、他芸能とは比較にならないくらいの時間と手間の自己投資を強いますが…。

投稿者 庵主 : 2006年03月03日 09:43

言の葉庵 庵主様

ブログ訪問ありがとうございました。
また、身に余るお褒めの言葉も頂き・・・恐縮しております。f(^_^;;)
気楽に遊びに来ましたが・・・庵主様の専門的な解説に驚いたり、感心しきりです。(^^)

お能だけでなく、歌舞伎や、近代演劇・・・ライブっていいですね。
現代人は頭が良いので、なんでも”理解”しようとして、”感じる”ということを忘れがちです。
私は演劇の専門家でも評論家でもないので、先人に習って、出来るだけ心や感性をニュートラルにして感じるということを大切に。と心がけています。
先入観にとらわれず、流れるままに観るのも、なかなか楽しいものです。。(笑)

投稿者 Bonita2号 : 2006年03月09日 00:07

Bonita2号 さま

当庵にわざわざお運びくださいまして、深く御礼申し上げます。

「流れるままに観る」は、いいですねー。
これは大事なことで、映画でも読書でもなんでも、事前に頭に入れて、気合を入れてのぞむとたいていどうしようもないことになってしまう…。
天然自然、生まれ持ったアンテナの角度を大事にしたいとおもっています。
でも「能」はあまりにもお約束事が多く、始めてみる人にとってアンテナだけでは歯が立たないという声も聞きます。
Bonita2号 さんの"観能記"のようなものが普通にあれば、すごく役に立つのになあ…と思いました。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿者 庵主 : 2006年03月09日 15:05

◆言の葉庵推奨書籍

◆言の葉メールマガジン
「千年の日本語。名言・名句マガジン」

「通勤電車で読む、心の栄養、腹の勇気。今週の名言・名句」、「スラスラ古文が読める。読解ポイントの裏技・表技。古典原文まる秘読解教室」などのコンテンツを配信しています。(隔週)

◆お知らせ

ビジネス・パートナー大募集

現在、弊社では各業界より、マーケティング関連委託案件があります。
つきましては下記の各分野において、企業・フリーランスの協力パートナーを募集しています。

◇アナリスト、リサーチャー
◇メディアプラン(フリーペーパー、カード誌媒体等)
◇プランナー、アートディレクター、コピーライター
◇Web制作
◇イベンター、SPプロモーション
◆化粧品・健康食品・食品飲料・IT・通信分野

 

Copyright(c)2005.NOBUNSHA.All Rights Reseved

Support by 茅ヶ崎プランニングオフィス