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【日本語ジャングル】「漢字」は誰が発明したのか?

四方を海でかこまれながらも、建国以来多くの海外の文物が日本に伝来されました。学問、宗教、法律、芸術、医療、料理から茶法にいたるまで…。ぼくたちの日本文化は実に多くの恩恵を隣国あるいは、遠国から受けている。数ある伝来物から「文化」という視点で見た場合、その貢献度、影響力からみてダントツ ナンバー・ワンなのは、お隣中国から渡った「漢字」ではないでしょうか。

今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思います。

漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」

 さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、たった四民族のみです。

1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)

 1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけなのです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字から生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。
 言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕生の瞬間に立ち会いましょう。

漢字の起源伝説

 漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介しましょう。

【伝説 1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつくった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。たとえば、坎の卦の(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と呼んだ。

【伝説 2】
 上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、黄河から出現した、という説。

【伝説 3】
 伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじまりである、とする。

 これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭であったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えられていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティックではありますが。


なぜ、「漢字」と呼ばれるのか

 中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
 しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。

 時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
 秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。

 この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
 欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なのです。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面から見ていきましょう。


最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」

 現存する最古の文字は「甲骨文字」(画像はこちら)と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のもの。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
 殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きされたものも少数ながら見つかっています。

 甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認められません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の文字であることの傍証ともなっています。


骨の次は、金属に文字は刻まれた

 殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、周(西周/BC11~7、東周/BC7~2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるようになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました(画像はこちら)。
 鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
 などの数文字から、3~40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったのに対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録としての銅器金文のみが継承されていったのです。
 この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にもバラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使える文字を作ったのでしょうか。


中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?

 万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のことでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」、「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代には書の「八体」と呼ばれるものがありました。

1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字

 これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています(小篆の画像はこちら隷書の画像はこちら)。


今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。

始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体である、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄介な代物だったのです。
そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線化し、簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました(画像はこちら)。複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちなみに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書かれるようになっていきます。


楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!

 一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、その発生順にいえば、

1.草書 → 秦末~前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末

とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありません。

【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわれますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということからきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐にはじまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全土に普及、流通していきました。

【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、現代のような草書に発展していきました。

【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど連綿とはならない、中間的な書体です。

 この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。


「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。

 最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から、その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。

【仁 ジン】画像はこちら
「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす。二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とする説があります。

【民 ミン】画像はこちら

金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者をさす言葉だったのです。

【税 ゼイ】画像はこちら

「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせることを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませんが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源です。

参考資料
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店

2007年12月10日 12:00

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