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各界著名人よりクリスマス・メッセージ届きました。

 メリークリスマス!
言の葉庵からのメッセージはこちら。(画像の中に庵主がいるよ)

一年にたった一度のスペシャルな日。いかがお過ごしですか?聖なるX’masの夜は、すべての人にやってくる。恋人同士にも、ひとりぼっちの人にも、老夫婦にも、ごちそうをたらふく食べている人にも、今晩も仕事で貫徹の人にも、予定が真っ白の人にも、社保庁年末バイトの人にも、サンタの帽子をかぶってパチスロしている人にも、爪を切っている人にも、守屋元事務次官にも、明るい人にも、返事の遅い人にも、浄土宗信者にも、イザナギの尊にも…。

 ああ、日本は何てすばらしい国なのでしょう。今夜は、山川草木悉皆イブです。みんなが喜び、祝いあう。さて、日ごろ言の葉庵が大変お世話になっている、各界著名人の皆様より、素敵なX’masメッセージが届きました。号外にてお知らせです。


■言の葉X’mas名言集■

「よこしまになき事をおもふ所」
宮本武蔵様

武蔵様、ありがとうございます。名著『五輪書』地の巻より、上お言葉を頂戴しました。
このことばは「我兵法を学ばんと思ふ人」が道を行う方法がある、として全九か条の心得の内、第一番目にあげられたものです。「邪に陥らないと、信じるところ」の意。とかく正しいことや信条などというものは、常にぶつぶつ心の内で唱えておかねば、ついつい横にそれ、知らず知らず変質していってしまうもの。確固とした信念を己のうちに持ち続けるべきことを説いています。そのための、日常のこまかな方法としては、同じ九か条に「第七 目に見えぬ所をさとってしる事」と「第八 わづかなる事にも気をつくる事」があります。行間を読み、細部に宿る神をこそ知れ、ということ。


「家、家にあらず。次ぐをもて家とす。
人、人にあらず。知るをもて人とす」
世阿弥元清様

『風姿花伝』第七別紙口伝、巻末のことば。
「家とはただ家名を継ぐだけではない。継ぐべきものを正しく伝承するものが家である。人もまた、その家に生まれたというだけでその家の人とはいえぬ。継ぐべきものの真価を弁えた人だけが、その家の後継者と呼ばれるのである」という意。
風姿花伝の初伝は、最初世阿弥より弟の四郎(元重父)に相伝されました。「一代一人の相伝。たとえ一子たりというとも無器量のものには伝うべからず」と、「家、家にあらず」の前文にある。が、のちに実子で長男の元雅が長じるにおよんで、これを重ねて相伝しました。自分自身が決めた「一代一人の相伝」のルールを自ら破ったわけです。世阿弥、五十六歳の時のこと。老いが進み子煩悩が発露したのか、はたまた将軍義教=四郎=音阿弥元重家と、世阿弥=元雅の観世本家の間の確執が高じたか…。能役者や職人に限らず、皇帝、大臣、創業社長などで、二代目ボンクラ息子が、国や家を滅ぼした例が、古今東西何と多いことでしょう。
秘伝重伝の真意はともかくとして、「家、家にあらず」には永遠の真理を認めざるをえません。


「聖君賢君と申すは、諫言を聞こし召さるるばかりなり」
山本常朝様

『葉隠』聞書一 一四八のことば。諫言とは、臣下が君主に意見すること。君主の悪行・不行跡・心得違いを叱り、正すことです。上に意見する、その根本には国や家を思う真心、誠意が絶対に必要不可欠であり、一片の私情があっても、それは「諫言」とはいえません。たとえば、国政、国法、世継ぎ、組織人事など公的なものから、生活態度、人間関係、女性問題、趣味などプライベートなものにおよぶまで、「悪」とされる君主の行跡が指弾されます。君主にとって時には耳に逆らう、いや、ほとんどが快くない事柄ばかり聞かされることとなります。これを上進する臣下にとっては、まさに命がけの行為。中国史上、暴君とされる夏の桀王、殷の紂王などは、実際、おびただしい数の諫臣、忠臣を誅殺している。そして己の代かぎりで、数百年におよぶ国家を崩壊させました。
「聖人、賢君とよばれる人は、ただただ黙って諫言を受け入れるかた」。計り知れぬほどの度量と慈悲、「仁」の心をもつものだけが、名君と呼ばれる。ここでは常朝の主君、鍋島光茂の遺薫を慕い、このように回想しています。


「仁は人の為になる事なり。我と人とくらべて、人のよき様にするまでなり」
同上

『葉隠』聞書二 七より。同じく山本常朝のことば、もとは亡父神右衛門の訓戒だと思われます。諫言とは次元が違いますが、これもまたなんとも実行の難しいことば。「仁」とは前回メルマガでも紹介しましたが、もとは孔子の説く「五常」の徳の最上位に位置する儒教概念。字義は、二枚の敷物の上で人が温かく気持ちよく過ごすカタチをあらわしています。孔子にはまた、「剛毅木訥は仁に近し」ということばがあります。少しく愚鈍で飾らず素朴な人は、なぜか他人に居心地よさを感じさせるもの。それを仁と呼んでもよかろう…。現代日本に、自分と人をくらべ、常に人のほうが自分より良い立場になるように、と行動する人がはたしているのでしょうか。もちろんそこに底意があっては何の意味もありませんが。


「花紅葉も我心にある事をしらず」
南坊宗啓様、千利休様

『南方録』覚書に、利休がわび茶の心をあらわす歌としてあげた、新古今集藤原家隆の歌、

花をのみ待つらん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや

を宗啓が敷衍した文章より。春は桜、秋は紅葉と、毎年季節のご馳走のみを期待し、浮かれ騒ぐ人々。
冬。雪がすべてを埋め尽くす、白一色の銀世界を「何もない世界」「死に絶えた世界」としかとらえられない目、「無」の世界に何も想像できない感受性を批判したものです。野原一面の雪のじゅうたん、真っ白の世界も、よくよく目をこらしてみれば、そこかしこに、ぽつぽつと緑の芽、自然の息吹がはやくも見られるではないか。春の兆、生命の強靭さ、豊かさに気づく人もないものか。厳しくつらい季節をじっと耐え忍ぶ生命の尊さ、美しさに、わびの精神をみる利休の観察眼。我が心中をもかえり見ず、ものごとの豊かな兆しも感じず、あけくれ外に外にと、外面的な美しさだけを求め続けることのむなしさを気づかせてくれることばです。


「失利立目ノ事」
山上宗二様

『山上宗二記』別本奥書にあることば。これもわび茶人の心構えを説いたもの。現代語訳では「利を捨て、目を開くこと」という意味。周知のとおり、千利休の「利休号」は大徳寺第九十世法嗣、大林宗套師が授けたものとされています。語義は「老古錐(使い古され、突き通すことのできなくなったキリ)」または、「名利ともに休す」からとったものとする二様の説があり、いまだにいずれとも決められていません。この「利」は利益ではなく、鋭利、鋭いということ。いわば、若く素質に恵まれ、将来性も豊か、意気盛んな才人の水際立った頭脳、舌鋒をあらわします。「名」はいうまでもなく、名声、世間の評判。年を取り、力も衰え、世間からも忘れ去られ、「名」も「利」も、もはや働かなくなった頃、人としてはじめて真実の「目」が開く。「失利立目」こそ、利休と宗二の目指した最終的な茶の到達点ではなかったのでしょうか。また、ことさら難しくいわずとも、人間年をとれば自然と見えてくるものがいろいろある、ということでしょうか。


「蝋燭をはや取べし。夜の更る事目に見へて心世話しき」
松尾芭蕉様

土芳『三冊子』わすれみづにある芭蕉のことばより。生まれたときから電気の明るさで育った現代人にとって、蝋燭の火はほの暗く感じられるもの。日が昇れば明るくなり、日没とともに真っ暗闇になる時代の人にとって、蝋燭や行灯の明かりは何と明るく感じられたことでしょう。

おそらくこのことばの発せられた場は、俳席。芭蕉をかこみ、幾人かの弟子どもが歌仙をまいていたのでしょう。腕利きの俳人たちから、次から次と神の入った句がうまれ来るその場は、芭蕉にとって心踊り、近来になく充実したものであったに違いありません。季節は秋。日はつるべ落としにどんどん翳ってくる。師の筆元が暗くなったのを見て、弟子のひとりが気を効かせ、座へ手燭を運んでくる。そこで発せられたのが、このことば。その時までは、さほど気にならなかったのですが、蝋燭が灯されるや、障子に映る外の色が、黄から赤、そして紫、薄青から濃い青へと、みるみる変わっていく。楽しいひとときが、まるで鳥が飛び立つごとくあっという間に過ぎていく。蝋燭のひと火が、秋の夕暮れに容赦なく拍車をかける。

なにごとであれ、ひとつのものに集中している時、「時間」という概念は人の心から消えうせるものです。また、時間に追いたてられてする仕事は、密度も完成度も低いもの。「俳諧の神はせわしい心には生まれず、また住みもせぬ」と、永遠の時間を五七五に捉え得た俳聖がこのように諭すのです。


「和敬清寂」
千利休様

『茶祖伝』序文より。わび茶の祖、村田珠光が一休宗純の禅導を受け、茶の心をあらわしたことば。のちに利休により、わび茶の根本精神とされ、江戸後期以降広められました。「一期一会」と同様、この「和敬清寂」もあまりに有名となってしまったため、その本義を解さず表面的に使用されているようにも感じられます。
「和」は馴れ合うことではありません。「敬」は敬して遠ざけることではない。
「清」は己一人、清であることではなく、「寂」はただ世を逃れることではありません。
『茶祖伝』によれば、珠光が将軍足利義政に茶の湯の精神を下問され、「謹兮敬兮清兮寂兮、卒以及天下太平」と答えたといいます。国政に無能のため、遊び事に逃れ、数奇三昧に溺れたといわれる将軍。世は麻の如く乱れていました。このことばは、将軍に対し、茶の湯の精神をもって「天下泰平」を訴えた警句であったかもしれません。
己に対しては冷徹に、他に対してはすべて許し、受け入れること。より峻厳に、より広辺無大に。ひとり茶の道のみならず、「和敬清寂」の本義を広く深く捉えなおしてみる努力が、今われわれに必要かもしれません。

「百花春至って誰が為にか開く」
雪峰義存様

『碧巌録』第五則「雪峰尽大地」の公案にあることばです。
早春、雪にとざされた大地より、ぽつぽつと緑の芽が萌え出でる。やがて春を迎え、百、千、万もの花がいっせいに美しく咲き乱れる。花は、いったい誰の為に咲いているのでしょうか。誰のためでもありません。花は、ただひたすら咲いているだけ。そして季節の終わり、いさぎよく散るべき時に、散る。与えられた生を心から喜び、誰が見ようと見まいと、器量いっぱいに咲き乱れ、喜びにあふれ、やがて従容として終わりを迎え入れる、花の無心さ。「誰もみていないのに…」「今咲こうか咲くまいか…」「咲いてもそのあとどうなる…」などと花は決して思わない。さかしらなはからいごとなど一切ない、花の命の清らかさ、尊さを知るべし、見習うべし、と碧巌録は教えてくれます。

2007年12月23日 23:12

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