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日本人は、「畳に正座する」民族である。

 日本人とは、一体何か?遺伝子型に基づいた人類学上の定義よりも、単純に「日本語をしゃべる民族」とした方が、納得感が大きいのではないでしょうか。では、言葉以外の文化で見た時には、どうか。生活習慣が欧米化した今日、ほとんど消えかかっていますが、「着物」を着て、「畳」の上にきちんと「正座」するのが、伝統的なジャパニーズスタイルといえましょう。

 今回は「畳」と「正座」の、なぜ?何?いつから?に焦点を当て、日本人独特の思考と行動パターンの源を探っていきたい。「畳」と「正座」が消えつつある今なお、私たち日本人がなぜこうも日本的な発想・価値観を持ち続けるのか。
まず、畳の歴史からその秘密の一端を解き明かしていきましょう。


パラグラフ1【畳とは】

 日本の生活文化は、その多くが中国大陸もしくは半島から伝来したものです。しかし畳は、日本民族の生活の知恵から生まれた固有のもの。湿度が高く、天候の変化が大きい日本独自の風土で生まれ、育まれてきた、優れた「敷物」なのです。畳の歴史を奈良時代より、ざっとたどってみましょう。

・奈良時代(710年~)
 現存する最古の畳は奈良時代のもの。聖武天皇が愛用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」がそれで、木製の台の上に置かれ寝具として使用されました。奈良東大寺の正倉院に保管されています。現在の畳とは異なり、真薦(まこも)で編んだゴザのようなものを5、6枚重ねて畳床とし、イグサの菰でおおって錦の縁でかがられている。この木製の台を2つ並べてベッドとして使った、といいます。
古事記にある「瓦畳」「皮畳」「絹畳」。あるいは万葉集に詠まれた「木綿畳」「置薦」などが、この時代の畳で、「御床畳」と同様、発生時の畳は今のゴザのようなものでは、と推測されています。

 あし原のしけき小屋にすが畳 いやさやしきて我二人ねじ
                        神武天皇御歌

・平安時代(794年~)
 平安時代に入り、貴族の邸宅が寝殿造となりました。これにしたがって、板の間に座具や寝具として要所要所に畳が敷かれるようになる。置き畳の上に、貴人や女房たちがくつろぐ様子は、この時代の絵巻物に見られるとおり。また畳は、地位や権力の象徴として住居に取り入れられたのです。

・鎌倉時代(1192年~)
 武家政権の確立により。貴人の住居が書院造へと移行していく。建築様式と生活空間の変化により、それまで客をもてなす座具であった畳は、部屋の周囲に敷き、真ん中だけを残す敷き方になる。そしてついに、部屋全体、床一面に敷きつめる、今日の畳のスタイルが完成されるのです。畳はこれにより、「敷物」から「床材」となりました。

・室町時代(1392年~)
 室町時代、将軍家により書院の一間を囲って、茶の湯がとり行われるようになりました。敷きつめられた畳の間での立ち居振る舞いは、茶道の礼法も相伴って「正座」の習慣化を促した、といわれているのです。(パラグラフ2参照)

・安土桃山時代(1573年~)
 茶道の興隆によって、茶室の様式を取り入れた数奇屋風書院造の建築がブームとなっていきます。茶室の炉の位置によって、畳の敷き方にも様々なヴァリエーションが生まれていく。茶の湯が町人にも親しまれるようになると、畳も町人宅に徐々に敷かれるようになっていきます。

・江戸時代(1603年~)
 将軍家・武家の屋敷に畳は必須の住宅設備となる。しかし一般庶民へと普及するには、江戸中期以降まで待たねばなりませんでした。農村部への普及は、さらに遅れ明治以降。こうして畳が庶民の生活に取り入れられると、様々な文化を育むこととなります。以下の俗諺に「畳」にまつわる庶民感情がよくあらわれています。

 起きて半畳、寝て一畳
 千畳敷に寝ても一畳
 畳の上で死ぬ
 畳の上の水練
 女房と畳は新しい方がよい


パラグラフ2【正座とは】
 正座は、正しくは「正坐」と書きます。日本の伝統的な正しい座り方。まさかと思いますが、正座をしたことのない若い読者もいるかもしれない。それは、両足をそろえ、膝を折りたたんで、かかとの上にお尻をのせる座り方。足首はまっすぐにし、足の甲が床についています。
 さて、それでは正座の歴史・意味・現状について概観していきましょう。

・正座という呼称
 意外に思うかもしれませんが、正座という名前が生まれたのは、せいぜい60~70年前のこと。戦前の修身の教科書で使われたのがはじめです。それまでは「端座」などと呼び、江戸以前は「かしこまる」「つくばう」などと一般的には呼ばれていました。

・正座の2つの意味
 江戸幕府が礼法として、正式な座法と定めたことにより日本中に浸透していった正座。戦国時代までは、「あぐら」「立て膝」が、貴賤問わず一般的な座り方でした。江戸の為政者は、正座のもつ2つの意味に目をつけたのです。ひとつは、「かしこまる」「つくばう」から連想されるように、正座をする相手に「従順」「屈服」の姿勢を求めたもの。土下座は、正座をして手を前につき謝ること。朝鮮半島では、正座は罪人の座り方とされている。
 もうひとつが、「礼」としての座法です。これは茶道の発展・普及と手を携えて、広く日本中に浸透していった。「正座=礼」が、日本の習慣と生活様式の中で、イメージとして自然に強化、確立されていくのです。

・正座は日本独自のもの?
 中国の秦の始皇帝陵から出土した陶俑、イースター島のモアイ像、外来の神像・仏像…。これらすべてが「正座」をしており、イスラム教モスクで、正座が座拝のカタチであることは、周知の事実です。正座は日本独自のものではありません。
そもそも正座を、より早く生活習慣として取り入れ、定着させていたのは中国です。そして、日本が他の文物とともに、この生活習慣を中国から輸入したものと推測されます。
 もともと中国人は、日本の着物のように下着として肌襦袢を着ていました。が、日本の褌のような、いわゆるパンツがありませんでした。あぐらをかいたり、体育座りでは股間が露呈してしまう。そのため、春秋戦国時代以来、正座が正式な座法とされていた。中国人がパンツをはくのは相当時代が下ってからのこと。日本に入ってきた褌は、もともとポリネシア系の文化。イースターのモアイ像も褌をつけています。
 さて、中国の正座はその後、唐の時代まで続きますが、胡人やアラビア人により、外来文化が流入し、家には土間ができ、椅子での生活が徐々に広がってくる。そして、宋の時代には正座の習慣は完全に消滅してしまうのです。こうして本家の中国では、正座は途絶え、それを輸入した日本では、文化として脈々と受け継がれていくこととなりました。

・江戸時代まで、正式な座り方はなかった
 平安時代の神像には、座禅を組んだもの、正座をしたものの2種類が混交しています。また絵巻を見ても男性は「立て膝」か「あぐら」、女性は「横座り」など、様々なヴァリエーションがあり、儀式の場であってさえ人それぞれ自由な座り方をしており、決まった座法がなかったことがわかります。
 室町時代、正座は神前・仏前で礼拝する時、目上の人に対する場合、あるいは茶席での立ち居など、ごく限られた場合だけの座法でした。
さらに時代が下り、江戸幕府により、茶道、小笠原流礼法に従って、正座が正式な座法としてはじめて制定される。これは八代将軍徳川吉宗以降のことだとされています。そして畳が庶民の家にも普及する江戸中期以降、正座は広く日本中に伝えられ、浸透していくのです。

・正座は「平和な座り方」?
 正座文化を論評する際によく耳にするのが「正座=平和の座法」説。戦国時代以前、一般的であった「あぐら」や「立て膝」は、姿勢がラクというだけではなく、瞬時に立ち上がることができる実戦的・好戦的な座法である。かたや正座は、徳川幕府が開かれ、日本中に戦がなくなった時代の座り方。立ち上がる時には、まずつま先を引き起こさねばならず、立つまで二挙動かかる。ゆえに、とっさに相手を襲うことも、防ぐこともできない「従順」で「平和」な座法だとしています。あぐらをかいた主君が、臣下に正座を強いて、恭順させるとともに、不意の攻撃を制したもの。これがこの説の根拠のようです。

 しかし「平和説」はともかく、この根拠には疑義がある。実際に立ってみると、結果は逆だからです。あぐらは立てない。正座は瞬時に立って、前に出ることができます。また、片膝立てではあぐらのように尻を落としていると立てない。ただし、能のシテ方のように、重ねたかかとの上で、尻を半分浮かせていると、正座のようにすぐ立てます。そもそも、居合術の座技はすべてが正座。あぐらでは立てないし、刀も差せないからです。つまり、正座は決して攻撃を封じるため武術から生まれた座法ではありません。むしろ「平和をめざす」という意味でいえば、礼を重んじる仏法ないし茶道の精神から広まった、とすべきでしょう。

・おらが村の正座

 日本の各都道府県別に、正座の方言を集めてみました。ぼくが子供の頃よく耳にした正座をさす言葉は、実は近県の方言だったことがわかりました。ただしこの中にはすでに使われなくなった言葉もあります。あなたの出身地で「正座」は、どのように呼ばれていいますか?

北海道 おっちゃんこ
山形 ねまる
群馬 おつくべ、おつくべえ、おっ(つ)くべ、おっつくべえ
富山 おつくばい、おつくわい
福井 おちょきん
長野 おかしま、おつくべ、おつべく、おつんべこ
岐阜 つくなる、つくばる
京都 おっちん、おまん
大阪 おまん
鳥取 えーちゃんこ
島根 えーちゃんこ
岡山 おじんじょ、べべちゃんこ
広島 じんじょう、ちゃんこ
徳島 おかこまり、おかっこ、おかこまり、おかっこまり、おちんこま
香川 おかっこ、おかっこまい、おかっこまり
愛媛 おかっこ、おちょっぽ
高知 おかっこ
鹿児島 きんきん
沖縄 膝まずき


パラグラフ3【欧米人が見た畳と正座】

 E・S・モースの名は、日本人にとってはとても親しいもの。明治時代来日し東京大学で生物学を講じたアメリカ人。大森貝塚と縄文土器を発見した、日本考古学の大恩人です。日本の文化・風俗にも多大な関心を寄せ、広く海外に紹介しました。
最後に、モースが見た日本人の生活習慣の中で、「畳と正座」に関する一文をご紹介しましょう。


 日本人はいつも、踏石から入口の土間に、つまり屋内に入る前に下駄を脱ぐ。家の中でも靴を履いたままというのは、外国人が、よく日本人を不愉快にさせる、浅劣粗野なあれこれの流儀のひとつである。長靴や短靴の硬い踵だと、畳面に深い跡型をつけるばかりでなく、突き破ったりすることがある。しかし、幸いなことに屋内に入るにさいして靴を脱ぐという行為は、およそ外国人が受け入れることのできる習慣のひとつである。それは、屋内で靴を履いたままでよいのかどうか、見ればはっきりわかるからである。春とか雨が降り続く時とかは、畳は湿気を含んでかび臭くなる。したがって、日当たりのよい時には畳を取り出して、家の前にトランプ・カードのように並べ立てて干すのである。また、時々畳を取り出して、ほこりを取るために表面を叩くこともある。畳は、その性質上、全体が蚤にとって格好の隠れ家となる。蚤は、日本を旅行する外国人にとって、じつに耐え難い苦痛の種である。しかし、この厄介者も上流階級の私宅では滅多に姿を見せない。このことは、アメリカの似たような害虫の場合でも同様である。
 この畳の上で、日本人は食事を摂り、眠り、死んでいくのである。

 畳は、寝台、椅子、長椅子を兼ね、時には机の役も併せ兼ねる。畳の上で休息する場合、日本人は膝を折り曲げた姿勢を取る。つまり、双方の脚部を折り曲げて身体の下に納める。臀部は両こむらと両きびすの内側の上にのっかるようになる。足指は内側へ向いた形になるが、これは、内側へ仕舞い込んだほうの足の甲の上部が、直接に畳面に当たるようにするためである。老人では、畳に接する足の部分にたこができているのをよく見かける。このような事柄に関して、日本人の生活習慣についての知識がなければ、こんな部分の筋肉がどうして堅くなるのだろうかと訝るような目で見られてもやむをえないだろう。
 この端座の姿勢は、外国人にとっては相当に苦痛で、それに慣れるためにはただ練習する以外にない。日本人でさえ数年も外国暮らしをやると、端座する生活に戻ることがことのほかむずかしくなり、かなり苦痛のようである。

『日本人の住まい』斉藤正二訳 八坂書房 2004・4

2009年02月06日 20:16

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