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室町時代の人気スター名鑑『四座役者目録』

 日本を代表する伝統芸能であり、最も古い歴史をもつ能。現在の能の祖は、さかのぼること六百数十年前、室町時代の観阿弥・世阿弥父子とされています。また、現在の能楽観世流の流祖でもある。
さて、この観世座と観阿弥・世阿弥の出自について、学会では歴史資料に基づいて鋭意研究されているものの、いまだすっきりした定説はみられません。

 古くは世阿弥在世時の『申楽談義』、『観世小次郎信光画像讃』から、近年発見された伊賀服部氏系図『上嶋家文書』、『播州永富家文書』など、観世系図の元となる資料は数々あります。が、その中でも今回とくに注目したのが『四座役者目録』。江戸初期、小鼓方観世新九郎家の観世庄右衛門元信が著した、室町から江戸初期におよぶ各流儀の役者目録です。

 役者のプロフィール、舞台実績、風聞などを通覧した、現代風にいえば”人気スター名鑑”。観世父子、早世した世阿弥嫡子元雅、現在の観世流直系音阿弥について、一般的な能楽研究書やガイドブックでは決して取り上げられない、珍説奇説が記録されています。いわく、「観阿弥は春日社の神託により、観世を名乗った」、「物まねの能は観阿弥が創始した」、「世阿弥は元雅を勘当」、「金島書を見た天皇が世阿弥を佐渡から呼び戻した」などなど。たんに作り話として捨て去るにはしのびない。そこには一片の真実も混じっているのではないでしょうか。読者の皆様が「能って何だろうか」と、改めて考え始めるきっかけになるかもしれない、と今回はじめて取り上げました。言の葉庵現代語訳にて、以下本文の一部をご紹介します。


『四座役者目録』 観世太夫代々の次第

・観阿弥清次

初世観世太夫。伊賀の国の甲族※1、服部氏である。春日大明神より、楽をもって神に仕えるべし、との神託を受けた。よって大和に住み、氏姓を変え結崎氏となって神楽を司ったのである。観阿弥は幼い日、父母に伴われ伊賀より大和の国へ行き、長谷寺の観音を拝礼した。その折路傍で一人の僧と出会う。父母はその僧に観阿弥のために名を求めたところ、観世と名付け、たちまち姿を掻き消してしまった。これは長谷寺の観音様の化身に違いあるまい。詳細は系図にある。以降、観世を称した。享年五十二、五月十五日に卒した。

◎浅野本朱書頭注 
甲族の甲は、申の字に改めるべきか。申楽家の意味であろう。
◎田中異本※2朱書
伊賀国杉内の住人、服部治郎左衛門の三男、とある。

◎以下異本にのみ見える記事、もしくは委しく見える記事。

一 春日大明神の神託に従って伊賀より大和へ赴き、そこで春日明神の楽人となって結崎を宰領した。これにより、結崎観世太夫という。また以降、”物まねの能”というものを作る。詳細は別紙にあり。

人王三十四代推古天皇の御代に、聖徳太子が天下平安、万民享楽を願って、猿楽延年と名付け翁の曲を自ら作した。これを秦河勝に命じて、橘の内裏紫辰殿にて演舞させたのである。翁の謡は、催馬楽と陀羅尼を取り合わせて作ったものであった。しかし、ほどなくこれは廃れてしまう。
人王六十二代村上天皇の御代に、秦河勝の子孫、秦氏安という者に命じ、翁を再演させたという。しかし元の翁の曲は、ことのほか長大でとても一日に演じきれるものではない。よってその要所のみを取り、式三番としたのだ。この時代までは、翁の演目しかなかった。稲積の翁、代積の翁、父の尉。現在の式三番がそれである。しかしまた、これらの曲もやがて忘れられていったのだが、人王百一代後小松院の御代に、秦河勝の子孫、竹田今春、結崎観世に再演させた。これを元として、物まねの能というものを観阿弥が考案したのである。竹田今春は、秦河勝の遠い子孫。観世は、鹿園院足利義満公に愛顧され、公方の太夫となった。一方今春は、春日大明神の太夫となった。委しい系図がある。
日本では、聖徳太子が面というものを初めて作った。大和の国に、十六面とよばれる地所※3がある。今春家では、太子御製の面を今に伝える。オソロシノ面と名付ける鬼の面である。しかし秘して公開はせぬ。

※1 武家のこと。
※2 底本(観世庄右衛門元信著 四座役者目録)を改めた高安六郎氏蔵本、田中充氏蔵近世写本を指す。
※3 現奈良県磯城郡田原本町十六面


・世阿弥元清

左衛門太夫と称する。観阿弥の子。花伝書の作者である。百一代後小松院の御代、鹿園院足利義満公から、普広院足利義教公の代までの人である。鹿園院殿が世阿弥を寵愛したことにより、観世座は代々足利公方の太夫をつとめた。世阿弥は長命で、八十過ぎまで健在であった。観阿弥・世阿弥の時代より、様々な能の曲が作り始められたのだ。とても筆に尽くせぬほどの名人であったという。詳細は系図にある。
世阿弥は、一休和尚に参学した。また世阿弥は、我が子※1よりも娘婿の禅竹を重んじたために、公方の御意に逆らい佐渡の国へ配流となる。その島で、七番の謡※2を作った。やがてこれが都へ伝えられ、世上に流布することとなる。かたじけなくも帝の御目にとまり、七番の内、とりわけ定家かつらの謡※3に感心され、「佐渡に置くは不憫なり。すぐに許し呼び戻すべし」と公方※4へ命じ、佐渡より帰洛したという。
またある時、世阿弥が公方のお側に仕えていると「今ここで、謡を作してみよ」と命じられた。勝手へ立ち、しばし案じていたがほどなく『浮舟』を書き上げたという。歌道・詩文・神道から諸道にいたるまで広く研究し、あらゆることに通じた人であった。現在、世間でもてはやされる名曲は、そのほとんどが世阿弥作である。
今春が作曲した能は、観世より少なく、金剛・宝生作の能はわずかである。各家が作曲した能は別紙に書き置いた。それにつけても世阿弥陀仏の奇特な逸話は紙上に尽くせぬほどにある。今、そのいくつかを書き置くばかり。世阿弥は美しい少年時代、公方義満の寵童であったのだ。他の太夫とはまったく別格であったことはいうまでもなかろう。

頭書。
世阿弥自筆の風姿花伝奥書には、「于時応永七年庚辰卯月十三日、従五位下左衛門太夫秦元清書」と一行で書かれている。官位は、正しくは諸大夫※5である。

※1 当時の公方、足利義教が愛顧した音阿弥元重。世阿弥にとって実子ではなく弟四郎の子、すなわち甥にあたるが、以下「音阿弥元重」では養子にした、とある。
※2 世阿弥が佐渡で書いた小謡集、『金島書』。
※3 能「定家」の文句、「山より出づる北時雨」が、『金島書』北山(佐渡の世阿弥配所、泉にある金北山)の章を連想させたことによるか。
※4 当時の公方は第七代将軍足利義勝。帝は後花園天皇をさすか。
※5 名目上、四位~五位の朝廷の官職をもった地下官人。宮家・公家・寺社などに属した。


・観世四郎太夫

世阿弥の弟。


・十郎太夫元雅

世阿弥の子。音阿弥の前の観世太夫である。ヲチ、と称した。越智と書くものもある。大和の国越智に住んだゆえ、地名を名乗ったともいう。能をいくつか作った。世阿弥に勘当され、父子不和であった。ヲチ、というのは、世阿弥と不和となって関東に”落ち”下ったため、という説もある。しかしながら、地名を取ったとしたほうが、まず妥当であろう。

・音阿弥元重

世阿弥の弟、四郎太夫の子息。世阿弥はこの甥を養子とし、観世の家を渡した。音阿弥は、普広院足利義教公から慈照院足利義政公時代の人である。養父世阿弥にも劣らぬほどの名人であったという。糺河原にて勧進能を興行した。
文明五年六月二十二日卒。法名海潮院音阿弥。山城国綴喜郡薪村の酬恩庵に遺骸を葬った。以下、一休和尚の引導の文。
「音阿弥下火。一休宗純。邯鄲の旅客栄花の枕 江口の美人歌舞の舟 言わば是家伝真の面目 六輪一路転風流。文明五癸巳六月二十二日」。以上。


現代語訳・注 能文社 2010年3月
底本『校本 四座役者目録』田中充 わんや書店 昭和30年

2010年03月31日 18:34

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