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┣┫OW┃O 「伊達」と「ゆるし」 2006.9.26
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秋の言の葉庵、芸術満載号!ジャングルは「いろは歌」後編。ついに行って
はいけない見てはいけない世界へと踏み込んでしまいます。名言・名句は蕉門
俳諧。いつの時代にも、名人と一番弟子はよきライバル同士。芭蕉と其角の資
質の違いが面白い。イベントは秋の名舞台目白押し。「弱法師」「松風」鑑賞
会と、旧染井能舞台ガイドツアー。『葉隠』新規取扱書店増えました。ぜひ立
ち寄り手にとって見てくださいね。お友達の”高月美樹ちゃん”はさっきお母
さんから電話があり、今日は風邪ひきで学校休むそうです。
…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………
【1】日本語ジャングル いろは歌に隠された怨念とSOS〈後編〉
【2】名言・名句第九回 「伊達」と「ゆるし」
【3】イベント情報 11月秋の名作能と旧染井能舞台見学会
【4】言の葉通信・お知らせ 『葉隠』取扱書店増えました。
…編集後記…
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【1】日本語ジャングル いろは歌に隠された怨念とSOS〈後編〉
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前号Vol.11では、いろは歌に隠されていた暗号は、
1.「咎無くて死す」
2.「かきのもとひとまろ」
であった、というところまで見ていきました。それではさっそく、村上通典『
いろは歌の暗号』の続きをどうぞ。
●江戸時代には知られていた
大正時代には「咎無くて死す」は議論されていたそうです。
筆者は、江戸期の人々にも、「いろは歌」を折り句にした時の暗号が広く知ら
れていた節があると推理しています。
その証拠のひとつが、お芝居の「仮名手本忠臣蔵」だと言います。
有名な赤穂四十七士の討ち入りの話ですが、歌舞伎の題名が一風変わっています。
「仮名手本忠臣蔵」という題名は、一種の暗号だと言うのです。
「蔵」が大石蔵之助を指していることは容易に分かります。
では「仮名手本」とは何でしょうか。江戸時代、仮名のお手本は「いろは歌」以
外にありません。
「いろは歌」がどうして仇討ちになるのでしょうか?
そこに、上記の折り句での沓があって「咎無くて死す」がすでに公認の符丁であ
ったと知られるわけです。
四十七士が、 全員切腹を命じられたのは「咎無くて死す」だと暗号で示している
のです。
討ち入りの人数を四十七人にしたのは「ん」を除く「いろは四十七文字」を意識
したものでしょう。
また、 ストーリーの中に寺子屋のシーンを入れたりして暗号をカモフラージュし
ています。
もとより江戸幕府の五代将軍綱吉を正面切って批判することなど、 到底出来る相
談ではありません。
時代を鎌倉に設定し、 名前を替えて、芝居は作られています。
淨瑠璃の題名「菅原伝授手習鑑」も 同じく、 「手習いの鑑」つまり「いろは歌」
を示唆しています。
●源為憲の「口遊」
江戸期に徳川幕府を批判する方法は暗号でした。では平安期に藤原家の批判を
する方法は? やはり暗号であったことでしょう。
ここに、 万葉集、 古事記に潜んだ暗号を読み解く作業の重要性があります。
古事記、 最古の写本は、 名古屋市「真福寺」に伝わるものです。
このお寺は元岐阜県羽島の大須庄にあった観音堂を、江戸時代初期に僧能信が現
在の名古屋市中区に再建したものです。 (一般に大須観音と呼んでいますので、
真福寺はどこですか? と聞いても大抵の名古屋人は分かりません. 国宝級の図書
館であるとの認識はゼロです)
尾張の真福寺は、京の仁和寺、紀伊の根来寺と並び、本朝三文庫と評される貴
重なもので、 羽島から名古屋への移築を命じたのは、 他ならぬ徳川家康でした。
今に伝わる古事記真福寺本(大須本)の恩人です。
村上通典の著書でも引用されている、 源為憲の「口遊」( くちずさみ) も、真
福寺に伝わる写云々と(90 頁) 書かれています。
古事記の序文が偽書であることを、 かなり解明できたきっかけとなった、「口遊
」が真福寺に伝承されていたとの記事に私は注目しました。
「口遊」は一種のパズル收集本です.碁盤目に繋がる和歌だとか、数学の問題な
どが盛り込まれています。
この本の著者、 源為憲( ~1011) が、「 いろは歌」の作者ではないかと、筆者
は推理しています。
そして万葉集や、 古事記の中に柿本人麿、 山上憶良の暗号を仕込んだ人でもあ
ると考察しています。
その元となる多数の文献が、真福寺 一か所に集中して保存されていたことは、
やはり
源為憲説の有力な証拠と言えるでしょう。
つまり村上が確認した事を、かつて解読した人物がいて、 その結果集中的にこ
れらの書物を揃えたのだと思えるです。
暗号の存在を知っていた人物でなければこんな本は集めなかったでしょう。
●字母歌「あめつち」と「たゐに」
源為憲の「口遊」には「いろは歌」に先行して作られた字母歌「あめつち」と
「たゐに」も同時に收録されています。
彼が、これらを下敷きにして「いろは歌」を作ったと見る根拠です。
「あめつち」「たゐに」は「いろは歌」ほど完成された字母歌ではありませんが、
それだけ露骨に分かる暗号が組み込まれて作られています。
これらを解読すると、「あめつち」からは「柿本人猿」「山上憶良」が表れ、「
たゐに」からは「名を伏せよ」「名を直せ」と、「山上憶良」「稗田阿礼」が浮
かび出て来ると証明されています。
參考までに「あめつち」と「たゐに」を紹介して置きますが、これだけで、もし
「山上憶良」「稗田阿礼」を発見できたら、あなたは暗号の天才かもしれません。
「あめつち」
春 あめ つち ほし そら 天地星空
夏 やま かは みね たに 山川峰谷
秋 くも きり むろ こけ 雲霧室苔
冬 ひと いぬ うへ すゑ 人犬上末
思 ゆわ さる おふせよ 硫黄 猿 生ふせよ
恋 えのえを なれゐて 榎の枝を 馴れ居て
(解読への並べ方)ふたつのT字型、( )印「ひえたあれ」
(あ) め つ ち ほ
し そ 「ら」 や ま ← や ま
か は み ね (た)
に 「く」 も き り
む ろ こ け (ひ)
と い ぬ う へ ← う へ
す (ゑ) ゆ わ さ
る 「お」 ふ せ よ
(え) の (え) を な
(れ) ゐ て
「やま」と「うへ」と「もきり」の文字列の下に(た)と(ひ)を
入れて出来る「山」字、その「山」の上に「く」と「ら」がある
もう一つの(え)で囲まれたT字の中心に「のお」がある。
これで、「やまのうへ のお くら」が見える。
「たゐに」
た ゐ に い て 田居に出て
な つ む わ れ を そ 菜摘む我をぞ
き み め す と 君召すと
あ さ り お ひ ゆ く 求食り追ひ行く
や ま し ろ の 山城の
う ち ゑ へ る こ ら 打酔へる子ら
も は ほ せ よ 藻は干せよ
え ふ ね か け ぬ え舟繋けぬ
(解読への並べ方)
た い に い
て な つ む
わ れ を そ
き み め す
と あ さ り
(お) ひ ゆ (く)
(や)(ま) し ろ
(の)(う) ち ゑ
(へ) る こ (ら)
も は ほ せ
よ え ふ ね
か け ぬ
「口遊」は時代が下ると内容の意味が分からなくなってしまったようです。
「口遊」は、良く見る文献ですが、古い原本としては真福寺本しか伝わってい
ません。他に伝わらなかったのは、文学としての価値が低かったせいでしょう。
暗号本は分かって始めて意味がある書物です。
●暗号が狙ったものとは
最後に、読み解かれた結論を要約して置きます。
古事記の序文には、二十八歳で記憶力の良い稗田阿礼という人物が、古代から伝
えられた史書を口述し、 太安万呂がそれを記述したと書かれています。
しかし本当は、 一人の人物山上憶良が古事記を書き上げたのだと言います。
一度、 出家した僧弁基を還俗させ、憶良の名で再登場させたのだそうです。
彼が書き上げた日本史は、 それまであった倭国の国王史を、 改ざんし、 中国に
対抗する国家の風格を作ることにありました。
それが古事記であり、 これを下敷きに日本書紀が作られたと言います。
(以下、あくまで村上の解読した説です)
藤原氏の命令とは言え山上憶良は生涯、 この作業に従事したことを悔いてい
ました。
太安万呂も稗田阿礼も、 山上憶良の存在を隠すためにでっち上げた架空の人物
でした。
柿本人麻呂は、 実は三輪高市麻呂のことで、 またの名を高市黒人のことだと言
います。
持統6 年3 月3 日に伊勢行幸を諌め、 中納言の位を辞した三輪高市麻呂の行動と、
柿本人麻呂が、 この年以後、 天皇の行幸に同行していないこととが一致するの
が根拠として上げられています。
さて、源為憲は、 万葉集の中に暗号をはめ込み、 これら山上憶良の偽書作成の
苦痛や、 藤原不比等のライバルであった三輪高市麻呂の悲歌を、柿本という仮
名を使って、 堂々と載せることに成功しました。
そして仕上げとして、 いろは歌を用意し、 柿本人麻呂とはあの 「咎無くて死す
」の三輪高市麻呂のことなんですよ、と伝えたと言うのが本著『いろは歌の暗号』
の結論です。
「いろは歌」に、「咎無くて死す」と「柿本人麻呂」の二つの謎が組み込まれ
ていることは、ほぼ間違いないことでしょう。
それに先行する「あめつち」「たゐに」を整理すると、「名を伏せよ」と読め、「
山上憶良」「稗田阿礼」が浮かび出て来るとの証明にも無理がありません。
これらの情報から、平安中期に藤原一族の支配に悲憤をいだくパズル好きな貴族
がいて、「古事記」の作者は、稗田阿礼ではなく山上憶良だとする鍵をひそかに
埋め込んだように思えます。
そして、これに触発された誰か(源為憲?)が今度は「万葉集」の歌人「柿本人
麻呂」に注目し「咎無くて死す」と伝えられた良く知られた話を盛り込んで「い
ろは歌」を作りあげたのでしょう。本著では、「いろは歌」の暗号は、柿本人麻
呂こと三輪高市麻呂の無実の刑死への、隠された悲憤、怨念のメッセージである
と読み解いています。
さて、次は、篠原央憲『いろは歌の謎』より、隠された全く別の暗号=メッセ
ージと、人麻呂のその後を追う、歴史認識を脱構築する大胆な推理を見ていきま
しょう。
まず、篠原は「いろは歌」の特性を以下のように整理しています。
つまり「いろは歌」は、
(1) かな文字をすべて使用、無重複で、語呂のなめらかな歌にしあげ
(2) しかも、その歌には意味の深い仏教の教えをテーマにし、なお叙情性のあ
る格調高いものにしてある
(3) それを表面のテーマにし、わずか二字の読み分けによって、その意味が逆
転するすさまじい怨念の歌に変わる
(4) それに加えて、末尾に、自分の運命をひそかに伝えるための暗号「咎なく
て死す」をさりげなく組み入れ
(5) さらに最終目的としての重大な依頼をこめた、第二、第三の暗号をも、巧
妙な方法でひそめてある(後述)
●第三の暗号とは
最古の文献である「金光明最勝王経音義」記載の「いろはうた」は、全文が万葉
仮名で書かれてあるが、ただ一字だけ、くずされた草がなであるところの平かな
が入っている。それは第一行目の下から二段目の「へ」である。「とかなくてし
す」の最下段の暗号文のすぐ上に、全体が万葉かなのなかのただ一字だけの、ひ
らかな「へ」がある。この「へ」は上代においては「上」という意味をもってい
たのである。「うへ」という単語のウが母音に融合して消え「へ」となったもの
で、「上」「このあたり」「かかわるところ」などの意味がある。つまり、「上
を見よ」あるいは「上に注意せよ」ということの暗示、または指示であろう。「
あめつち」のばあいは「うへ」のすぐ上の段に、葉は落ち「散りぬるを」とあっ
た。「いろはうた」のばあいも同じように暗号文があるかもしれない。
い ろ は に ほ へ と
ち り ぬ る を わ か
よ た れ そ つ ね な
ら む う ゐ の お く
や ま け ふ こ え て
あ さ き ゆ め み し
ゑ ひ も せ す
それで、「へ」の上の段を横に読むと「ほ・を・つ・の・こ・め」となる。
万葉かなで「本・乎・津・能・己・女」である。このことばに何かの意味が
あるだろうか。こういうばあい、漢字かな混じり文で読むとわかりやすい。
すると「本を津の己女」となる。なんだか意味がありそうだ。普通「ほ」は
漢字では「保」と書く場合が多い。現在のひらかなの「ほ」は、いうまでも
なく、「保」をくずしたものである。ところが、最古のこの「以呂波」は、
わざわざ「本」にしてある。本とは、つまり文字通り本であり、また本にま
とめた原稿のことである。「古事記」や「万葉集」などの記事中には、しば
しば「ある本にいわく」とか「ただし古本この歌を云々」とかというふうに
でてくる。すると、この「本を津の己女」という意味は「本にまとめた大切
な原稿を津の里の私の女に預けてある」あるいは、「津の里にいる私の妻に
届けてほしい」ということのようである。つまり、う「へ」の上にならんだ
文字は、明らかにそのことを依頼する、重要な伝達の暗号文であったのだ。
これが「いろは歌」の第三の暗号文である。
●救出された人麻呂と万葉集
「いろは」や「あめつち」の暗号によって、「万葉集」も発見されたのであり、
人麻呂の居場所もわかったのである。居場所もわかって、妻や知人の死をいた
む歌などがそこに載っているわけであるが、しかしそれらの歌に出てくる地名、
たとえば鴨山、あるいは石川などもはっきりせず、状況も、岩根し枕ける、貝
に交じる、川の雲をしのぶ、波によりくる玉を枕に、荒野に置きて、とてんで
ばらばらの感じなのだ。
これらのことを勘案して、私は「原万葉集」は、柿本人麻呂の死そのものを
カムフラージュしたものであって、この時点では人麻呂はまだ死んでいなかっ
たと見るのである。「いろは」「あめつち」などの暗号解読により、人麻呂は
ひそかに救出されたと見る。
表面的には、和銅元年四月二十日、従四位下の柿本朝臣佐留卒す、と発表さ
れたのである。そして、人麻呂はいったん身を隠す。藤原不比等というやりて
の官僚(このときすでに右大臣に上りつめていた)の謀略によって追い落とされ
た人麻呂は、不比等の目の黒い間は身を隠すよりほかなかったのだ。その不比
等は養老四年(七二○)八月、六十二歳で死んだ。四年後の神亀元年、人麻呂は
山部赤人と改名して再び作歌をはじめたのである。この年、聖武天皇即位、山
部赤人は以来十二年間作歌活動をしたことが認められている。つまり天平八年
(七三六)年代の明らかな最後の歌が万葉集に記載されている。和銅元年(七○八)
人麻呂が鴨山の歌を読んでから二十八年が過ぎている。それで、人麻呂(山部赤
人)の年齢を考えてみると、持統三年(六八九)草壁皇子尊のもがり宮の時の歌を
詠んだときが最初とすると、そのとき二十四、五歳とする説は多く、それで考
えると、七十一、二歳ということになる。これは決して考えられぬほど高齢と
いうことはない。翌七三七年、天然痘によって不比等の息子の房前ら四兄弟が
次々に死に、人麻呂の崇拝者的実力者、橘諸兄が翌七三八年右大臣となる。そ
の頃人麻呂(山部赤人)が判者となって、「万葉集」の撰集がなされたのであろ
う。山部赤人、柿本人麻呂、橘諸兄が「万葉集」を撰したとの伝承は多くある。
特に「栄花物語」(平安後期の物語)の赤染衛門説は信頼性が高いものであった。
柿本人麻呂は、いったん死んだことになっていて、「原万葉集」などに辞世
を残したものの「いろは歌」や「あめつち詞」などをつくり、そこに巧妙に暗
号を組み入れ、それによってひそかに情報を知人らに伝え、救出されていたの
だ。そして藤原不比等の死を確認したのちは、山部赤人として名を変え、ふた
たび歌人として活躍し、「万葉集」撰集にも参加したのであった。
4.暗号はイエスキリストのメッセージ
いろは歌が古代暗号ブームを巻き起こした余波として、その中に、6世紀キリ
スト教の教えを暗号として埋め込み、説いたものである、との説まで出てきまし
た。本稿、最後にこの「イエスのメッセージ説」と、「いろは歌」英語版/独語
版をご紹介しましょう。
まずは、空海が中国で学んだ景教(ネトリウス派キリスト教)の暗号であるとす
る、中島尚彦著HP「いろは歌が語る古代日本の謎」より。
http://www.naritacity.com/journal/iroha/index.asp
●いろは歌は空海の景教のメッセージ
「いろは歌」の作者である弘法大師は中国の奥地でキリスト教の一派である景
教を学び、その聖書の教えに感銘し、その教理を暗号文として日本国民に教え
るべく「いろは歌」を書き上げ、その中に神の名であるヤーウェー、旧約聖書
に登場する偉大な預言者のモーセス、そして新約に登場する救世主イエス・キ
リストの名前を秘めたと察することが出来ます。そしてその信仰への情熱が後
の日の真言密教へと発展していったのではないでしょうか?
(え)あ や ら よ ち (い)
い さ ま む た り ろ
も き け う れ ぬ は
せ ゆ う い そ る に
(す)め こ の つ を ほ
み え お ね わ へ
(し)て く な か (と)
古代ロマンいっぱいの「いろは歌」。その真相を解き明かすにあたって、ま
ず「いろは歌」が書かれた目的を考えてみましょう。「いろは歌」が折句を多
用した暗号文書であるということは、その作者が当時何らかの理由で一般的に
受け入れられない大切なメッセージを歌の中に隠し入れて後世に残したかった、
という理由が考えられます。それ故に表面的なテーマとしては何ら差し障りの
無い格調高い仏教的教理を打ち出すことにより、当時のエリート層に容易に受
け入れられるようにしたのです。次の目的として、一般大衆もその暗号メッセ
ージをいつしか解き明かしできるように、ひらがなの全てを学ぶことのできる
最良の手習い歌として社会全般に普及させることを試みたと考えられます。こ
うして長い年月を経て多くの日本国民はいつの間にか「いろは歌」を日本語の
歌として誰もが覚えて語り継ぐようになりました。その暗号文の謎がやっと解
けてきたのです。
いろは歌」は表面的には七五調に見えますが、実際は空海弘法大師の時代に
おいて多用された五七五七七調で構成される折句に中心的メッセージが隠され
ています。「いろは歌」をごく自然に右上を始点として左上、斜め右下、左下、
右上と続けて読み、最後に一文字ずつ飛ばして右上から右下、そして左下に一
貫して読んでみましょう。
いちよらや あえさけいつわ とかなくて しすみこいれり いはほとなて
この歌の意味は「救いを与える良い神は、神隠し(八重桜)のごとく逸話と
なり、罪も無いのに、死んで神の御子となり、巌となった。」と解釈できます。
「いろは歌」の折句を正しく理解するためには、まず中心のテーマが角読みで
一目瞭然の「使徒イエス」であることを覚えておくことが大事です。また空海
が中国で学んできたギリシャ語(新約聖書)、及びヘブライ語(旧約聖書)の
影響を受けていることを理解するだけで、一気に視野が広がります。例えば「
いろは歌」の最後の句は「えひもせす」です。これは上段に含まれているヤア
エという言葉がモーセの神であるということをepi Mosesというギリシャ語で答
えているのです。モーセはギリシャ語でモセスと呼ばれ、エピという言葉は「
何から」とか「何の」という意味で使われるため、「ヤアエ、エピモセス」は
「モーセの神」と解釈できます。厳密には定冠詞が中間に入るのですが、日本
語では存在しないため省かれています。
最後に、日本語を学ぶ外国人の方向けに、「いろは歌」を英訳、独語訳した
HPから、ご紹介。
いろは歌日本のアルファベット・英語版日本文化の日本語訳
http://www.watanabesato.co.jp/jpculture/letters/irohaj.html
●英語訳版 いろは歌
(英訳用日本語)
美しい人も花のように散っていく。
この世で誰が永遠で有り得ようか?
今日も現実の世界の困難を乗り越えて、
僅かの良い目も見たがそれに酔ってはいられない。
(英語への直訳)
As colors smell but fall.
Who are eternal in our world?
Today、 I went through deep mountain of existing form、
and saw a shallow dream without being drunken.
色は詩の中では美とか魅惑をあらわすことがよくあります。今でも "彼女は
色気がある" といえば "She is sexy"だ、という意味ですが。最初の二行は比
較的分かりやすくて誰の解釈も似たものです。後半の二行は難しくて解釈が
分かれるところでしょう。有為は現実の世界と解釈しています。奥山を越える
は困難を乗り越えると解釈しています。夢は普通は幸せなものを期待します。
日本人は幸せに酔いしれることがありますが、外国の人はどうなんでしょう。
幸せはかなり酒と似てませんか?
(独語版)
Die Blüen duften zwar、 doch sind sie abgefallen.
Wer denn in unserer Welt wird unvergänglich sein?
Die Berge fernab von den Wechselfällen (des Lebens) heute überschreitend、
werde ich keine seichten Träme mehr trämen bin auch nicht berauscht.
(上の和訳)
花(栄光)は香るが、落ちて行く。
この世で誰が不死であり得ようか?
今日、奥山(浮沈の激しい人世)を越えて、
もはや浅い夢も見なくなり、酔うこともなくなった。
これは日本でも見られる解釈です。「ゆめをみし」を「夢見し」ではなく「夢
見じ」と否定形とするものです。奥山を越えるのは「悟りを開く」と解釈する
ようです。どちらかというと多数派でしょう。私は「悟りを開く」のが嫌いで
死ぬまで女性の色香には惑わされたい、と思っていますので敢えて別解釈をし
たわけです。ある意味、悟りを開いているのかも知れませんが。
〈前編〉〈後編〉二回に分けて、お届けしてきた「いろは歌」の謎、現時点
2006年度での諸説総集編をご紹介してきました。暗号やそれに基づいたユニー
クな推論も楽しいものですが、庵主の唯一の気がかりは、今、何歳くらいの子
供たちまでが、正確に「いろは歌」を唄えるのか…ということです。想像する
だに恐ろしいのですが、もしかして、三十代の人も、もはや「いろは歌」を知
らないのではないだろうか…。読者のみなさま、まわりの二十代、三十代にリ
サーチして教えていただけませんでしょうか。
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【2】名言・名句第九回 「伊達」と「ゆるし」
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No.17 我ガ僕落花に朝寝ゆるしけり
~宝井其角『虚栗』より
No.18 予が風雅は夏爈冬扇のごとし
~松尾芭蕉『柴門ノ辞』より
No.17 我ガ僕落花に朝寝ゆるしけり
[解説]
僕は「ヤッコ」と読む。下僕、使用人のこと。この句の前には、「花ヲ惜テ
地ヲ払ハズ」とあります。白楽天「花ヲ惜テ地ヲ掃カズ」(白氏文集)に因んだ
句趣。
花の季節には強風がつきものです。前夜の嵐に朝起きると庭一面、桜の花び
らが敷きつめられたよう。この風情を惜しみ、庭掃除を半刻なりとも遅らせる
べし、使用人の寝坊もせめるまい、とたたずむ主人の姿がみえます。
この句には、”伊達”と”ゆるし(慈悲)”が両立しています。
作者、其角の実家は藩医であり、住込みの書生・使用人などの飾らぬ日常を
見て育ち、こうした視点をもつにいたったのでしょう。其角は芭蕉の早い時期
からの門人で江戸蕉門の中心的俳人。ことに花やかで伊達な句作を得意としま
した。芭蕉晩年の門人、許六は、其角の俳風があまりに師のそれとかけ離れて
いることを不審に思う。
「先生は其角に何を教えられたのでしょうか」
と聞いてみた。芭蕉は、
「師が風、閑寂を好んでほそし。晋子(其角)が風、伊達を好んでほそし。この
細き所、師が流なり」
と答えたそうです。後世、子規に「其角が句、とるべきものなし」と切り捨
てられますが、芭蕉亡き後、ただひとり江戸蕉門を負って立ち、江戸俳壇の興
隆に大きく貢献します。師の俳風とは離れてしまっても、とにかくこの地に蕉
門俳諧の「伊達で細い」種は播かれたとみるべきでしょう。
“落花の伊達”を茶の世界でみると、あまりに美意識が研ぎ澄まされており、
そこには”ゆるし”の入り込む余地はありません。
さる方の朝茶の湯に、利休その外まいられたるが、朝嵐に椋の葉ちりつもりて、
露路の面、さながら山林の心ちす。休あとをかえりみ、
「何もおもしろく候。されど、亭主無功なれば、はき捨てるにぞあらん」
という。あんのごとく、後の入りに、一葉もなし。(茶話指月集)
宗易の庭に牽牛(あさがお)みごとにさきたるよし、太閤へ申し上ぐる人あり。
さらば御覧ぜんとて、朝の茶の湯に渡御ありしに、朝がお、庭に一枝もなし。
尤も無興におぼしめす。扨て、小座敷へ御入りあれば、色あざやかなる一輪、
床にいけたり。(同)
さらに、さる茶会で利休が客に、
「休がひぞうの花活け。ご覧じらるべきや」
という。床に、花入はなかった。不審に思う客を露地へ導くと、みごとな大輪
の椿一花、何と、塵穴に活けられてあったといいます。
“伊達のゆるし”、むしろ武家にあるかもしれません。古今伝授まで受けた風
雅大名、佐賀鍋島藩二代藩主、鍋島光茂にこんな話があります。
さる年、お雇いの身分にて堀田玄春という者が国元に滞在していた。月を詠む歌
会、との趣向で光茂公が、東屋敷へと運ぶ。次の間には、玄春、藤本宗吟、恩田
恕情らが列席していた。水ヶ江の方角に花火が上がったので、玄春は皆に伝えた。
これを聞いた公は立って次の間へ入ってくる。玄春へ、
「その方禁令のことを存ぜぬ。ご城下において火の取り扱いは重い法度となって
いる。今夜のことは絶対人にいってはならぬ。外に知れてしまえば、罰せずにす
むものではない。今この時から、花火を見たことは、忘れてくれ」
と注意した。玄春は感涙を流し、
「天下広しといえども、それがしが仕えたい主君は、光茂公をおいて他にはあり
ませぬ。ご家来の端にお加えください。禄などはご料簡次第」
と願い出、召し抱えとなった。この者は前々より公儀への仕官を望んでいたので、
光茂公は随身の希望を持っていたが、当人がご辞退していたのだ。さらばひとま
ず雇いの身分で、ということで国元に下って来ていた時のことだ。
(『葉隠』聞書五/一三 能文社2006.)
年々歳々世の中より、“伊達のゆるし”が消失しています。それが、今の日本
を身の置き所のない、息苦しいものにしてしまっている原因。ぼくたちひとりひ
とりが、何も考えずに、まず“ゆるし”を実行してみてはどうでしょう。それこ
そ、“伊達”だと思うのですが。
No.18 予が風雅は夏爈冬扇のごとし
[解説]
この句の後に、「衆にさかひて用る所なし」としています。後期門人、許六
を江戸にて約九ヶ月指導した後、国元へ帰すにあたって贈ったとされる、有名
な『柴門ノ辞』からの一節です。
「風雅」は、歌や俳諧。「夏爈冬扇」は夏の火鉢、冬の団扇。転じて、用の
ないものの比喩です。「衆にさかひて用る所なし」とは、民衆の求めに反して、
役に立たぬものの意。
下に全文を掲げましたが、才能あふれる新しい門人を称揚し、反面己の俳諧
を卑下していったもの。芭蕉お得意の人を喜ばせる挨拶文です。しかし、単に
己を貶めるだけではなく、後半では、気高い名文にて蕉門俳諧文芸の真髄を、
新しい門人にさらりと伝え、導いています。新人、許六を暖かく迎えると同時
に、
「俳諧を真摯に追い求めるなら、飯の種にしてはならぬ。一見役に立ちそうな
ものは、本当は何の役にも立たないものなのだよ」
と教え、しょせん「夏爈冬扇」に過ぎぬ古人の跡など求めてはならぬ、古人
の求めたものをこそ、探し求めるべし、といいたかったのでしょう。
しかし、実際当時の蕉門は、次々と俳壇に新風を巻き起こし、一世を風靡。
「夏爈冬扇」は芭蕉のゆるぎない自信から、思わずもれ出た自嘲のことばかも
しれません。
当時の最大のライバル、西鶴の遺稿集にすら、次のような一文があります。
又武州の桃青(芭蕉)は我が宿を出て諸国を修行、笠に、「よにふるはさらに宗
祇のやどりかな」と書き付け、何心なくみえける。これ又世の人の沙汰はかま
ふにもあらず、ただ俳諧に思ひ入りて心ざしふかし。
この文は西鶴門人の筆といわれています。芭蕉と面識のない、しかもライバ
ル門下の俳人にも、芭蕉の生き方、俳風は敬意を払われていたのです。
さて、「衆にさかひて用る所」のない「夏爈冬扇」。他の芸道分野では、ど
のように考えられていたのでしょうか。
武道・兵法は、そもそも芸道ではあっても、芸術・風雅ではありません。宮
本武蔵は、
「役に立たぬことは、やらぬこと」
と言い切ります。(『五輪書』PHP 2004.)
かたや能の世界では、
「この芸とは、衆人愛敬をもて、一座建立の壽福とせり」
「そもそも芸能とは、諸人の心を和げて、上下の感をなさん事、壽福増長の基、
仮齢・延年の法なるべし」(『風姿花伝』第五奥儀讃嘆云)
としています。「衆人愛敬」「上下の感をなさん」「壽福増長」「仮齢・延
年の法」。すなわち、大衆に愛され、上の人にも下の人にも感動を与える。幸せ
を押し広げ、長生きのもととなるものだ、と明言しているのです。衆には逆らわ
ず、幸せと長生きに役立つ、まるで「冬爈夏扇」のような芸能ではありませんか。
しかし。世阿弥が追い求めた、幽玄で深遠な世界が、すべての人に受け入れられ
るものではないことを、薄々予見していました。
「静かなりし夜、砧の謡を聞きしに、かようの能の味はひは末の世に知人あるま
じければ、書き置くも物くさきよし、物語せられし也」(『申楽談儀』)
世阿弥作『砧』の能は、完成度が高すぎ、将来目利きにも理解されないのでは、
と心配します。(世阿弥の予想は外れ、現在『砧』は名曲として一般的にも人気
曲)
結局あらゆる芸道・芸術も、時の因果からは逃れられません。「衆人愛敬」
も「衆にさかふ夏爈冬扇」も、ただ時により、選ばれるか、選ばれぬかの違い
のみ。許六よ、汝がすがるべきは、陽炎のような師の袂ではなく、師がようや
く見つけた、風雅へと続く、ひと筋の細い細い糸なのだよ、と芭蕉は諭してい
るのかもしれません。
No.18[本文]
去年の秋、かりそめに面をあはせ、今年五月の初め、深切に別れを惜しむ。
その別れにのぞみて、一日草扉をたたいて、終日閑談をなす。その器、画を好
む。風雅を愛す。予こころみに問ふことあり。「画は何のために好むや」、
「風雅のために好む」と言へり。「風雅は何のために愛すや」、「画のために
愛す」と言へり。その学ぶこと二つにして、用いること一なり。まことや、
「君子は多能を恥づ」といへれば、品二つにして用一なること、感ずべきにや。
画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精
神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。
予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。ただ、釈
阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あ
はれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも、「これらは歌に
まことありて、しかも悲しびを添ふる」と、のたまひはべりしとかや。されば、
この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、「古人
の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と、南山大師の筆の道にも見え
たり。「風雅もまたこれに同じ」と言ひて、燈火をかかげて、柴門の外に送り
て別るるのみ。
元禄六孟夏末 風羅坊芭蕉 印
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【3】イベント情報 11月秋の名作能と旧染井能舞台見学会
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芸術の秋。食欲の秋。名演で心も腹いっぱいにします。まず、銕仙会、柴田
稔師の『松風』。舞台に須磨の名月が冴え冴えとかかります。かたや、九皐会
ホープ、奥川恒治師の『弱法師』。西方へ祈る”日想観”の奇跡が、盲目の少
年に、ありありと難波津の夕景、極楽浄土を描いて見せてくれます。お見逃し
なく!!
おとぼけ庵主の能楽堂見学ツアー、11月はかつて数多の名演が繰り広げられた、
伝説の能舞台「旧染井能舞台」、横浜能楽堂をご案内いたします。展示の能面、
装束、楽器の秘密の由来もこっそり教えてしまいます。横浜開洋亭の豪華ラン
チにお腹も満足!!ゆこゆこ。
◆第五回青葉乃会
http://aobanokai.exblog.jp/
2006年11月18日(土)午後2時開演 於 喜多能楽堂
正面・8000円 / 脇正面・6000円 / 中正面・5000円
二階・3000円 / 学生・2000円
能「松風」 シテ 柴田稔
月光冴える歌枕、須磨の浦。在りし日、行平に愛された松風、村雨の美しい
海女の姉妹。行平形見の装束をまとい、潮と戯れ、恋慕の幻となって舞う。
「熊野、松風米の飯」といわれる永遠のスタンダード。
狂言「仏師」 シテ 野村万之介
能舞「相聞」 観世銕之丞
仕舞「景清」 観世栄夫
チケット申し込み
銕仙会 Tel.03-3401-2285 Fax.03—3401-2313
◆第一回能・狂言公演 奥川恒治の会
http://homepage3.nifty.com/noh-no-hana/okukawa06.htm
平成18年11月4日(土) 14時30分開演 於 矢来能楽堂
正面指定席・6000円 / 脇・中正面指定席・5000円
自由席・4000円 / 学生席・2000円
能 「弱法師」 シテ 奥川恒治
高安の里に住む佐衛門尉通俊は人の讒言を信じ、息子俊徳丸を追い出します。
俊徳丸は放浪のうちに盲目となり「弱法師[よろぼし]」と呼ばれる乞食に身
を落とす。道俊は自分の行いを悔い、天王寺で「施行」を7日間行います。こ
こで通俊は盲目となった我が子俊徳丸と偶然再会。弱法師は極楽浄土に向か
う天王寺の西門に沈む夕日を拝むうちにかつて見た難波の美景を嘆じます。
盲人が見る幻想的な極楽浄土を能の型で舞台に現出させる代表的な幽玄曲。
狂言「 秀句傘」 シテ 山本東次郎
仕舞「白楽天」 遠藤六郎
「梅枝」 観世喜之
チケット申し込み
奥川恒治の会 申し込みフォーム
http://homepage3.nifty.com/noh-no-hana/okukawa06ticket.htm
◆ゆこゆこ倶楽部11月能楽堂見学会
http://nobunsha.jp/img/yukoyuko10.jpg
2006年11月13(月)22(水)28(火) 午前10時15分 於 JR桜木町駅改札前集合
参加費 7、000円
食事代、講師代、往路送迎費含む
◇加賀百万石ゆかりの旧染井能舞台(横浜能楽堂)見学と昼食ツアー
関東地方現存最古の能舞台を、横浜掃部山に移築・再現した由緒正しい能楽堂
です。旧染井能舞台では、明治、大正、昭和の名人がたびたび名演を繰り広げ
ました。小津安二郎監督の名画の撮影が行われたことでも有名。今回は、鏡板
の松に梅が描かれた全国でも珍しい舞台を鑑賞・案内。常設展示場では、面・
装束・囃子の楽器など現物を見学しながら、わかりやすく解説します。ツアー
後は、眺望抜群のオリエントホテル横浜開洋亭にて、講師の逸話を聞きながら、
創作和食膳をお楽しみいただきます。
講師 水野聡 (古典翻訳家/能文社代表)
※今回のツアー参加者のみなさまだけに、完全予約制「ゆこゆこシークレット
特別能楽鑑賞会」のお知らせをご案内する予定です。2007年1、2月度、よりす
ぐった能の名曲を講師(水野)の解説・案内つきで鑑賞します。
ツアー申し込み
ゆこゆこ倶楽部事務局 Tel.03-5857-7784 Fax.03—3615-3424
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【4】言の葉通信・お知らせ 『葉隠』取扱書店増えました。
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書店店頭にて『葉隠』販売開始しています。ご購入くださいましたお客様に
はこの場を借りて深く御礼申し上げます。
さて、今月さらに『葉隠』取扱書店様が増えました。
http://nobunsha.jp/img/shotenlist0609.pdf
以下の各書店様店頭にても販売を開始しましたので、お近くの店舗にお立ち寄
りの際には、ぜひ「人文書コーナー」などでお手にとってご覧ください。
◆ 八重洲ブックセンター 本店
http://www.yaesu-book.co.jp/ybc-shops.html
〒104-8456 東京都中央区八重洲2-5-1
(株)八重洲ブックセンター (4F人文科学) Tel.03-3281-8204
◆ジュンク堂書店 (池袋本店)
http://www.junkudo.co.jp/shop2.html
〒171-0022 東京都豊島区南池袋2-15-5
(株)ジュンク堂書店 Tel.03-5956-6111
◆丸善 丸の内本店
http://www.maruzen.co.jp/home/tenpo/maruhon.html
〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-6-4
OAZO ショップ&レストラン 1F-4F
丸善(株) Tel. 03-5288-8881
……………《編集後記》………………………………………………………………
『松風』は名曲です。「熊野・松風米の飯」。毎日毎食何遍食べても食べ飽
きない…といわれるほど。今回NHKから出た新しいDVDの六枚セット「能楽名演
集」から、初世梅若万三郎の舞囃子を見ました。撮影は1939年。日独伊防共協
定が結ばれ、日本が太平洋戦争へと突入していった年。戦前です。万三郎師、
生まれは1868年、明治維新の年、ぎりぎり江戸時代ともいえる。撮影時は70歳。
とても、現在の老人とくらべその年齢には見えません。ほとんど五十台かと見
える、張りのある謡、水の流れのような運びです。現代人とは体のできが違う
のでしょうか。大名人の呼び名にふさわしく、とにかく芸が大きい。今の人が
真似をしたら「歌舞伎」といわれるでしょう。そうならないのは、ひとえに「
位」と「格」の差。謡の声量も70代のものではありません。おそらく声で舞台
板がびりびりと震動しています。以前テープで隅田川か三井寺の語りの部分を
はじめて聞いたのですが、大河の流れというか、一体どこまで声が小さく、ど
こまで大きくなるのかほとんど予測のつかないダイナミックレンジでした。今
の謡とは根本的に発想が違います。ともかく、NHKさんがこのマザーテープを
疎開させ、戦火から守ってくれた奇跡に感謝です。ついでにどなたか、初世宝
生九郎の音源もっていませんか。恐らく宝生家ゆかりの私家盤があるのでは、
と想像しているのですが。情報提供お願いいたします。
(昔はよかった、すでに耄碌モードの言)
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【言の葉庵】へのご意見、ご感想、お便り、ご質問など、ご自由に!
皆さんの声をお待ちしています。Good!の投稿は次号にてご紹介いたします。
http://nobunsha.jp/nobunsha.html
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■ 編集長 水野 聡 mizuno@nobunsha.jp
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2006年10月03日 23:25
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