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「もののあはれ」を知る 【言の葉庵】No.14

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┣┫OW┃O            「もののあはれ」を知る 2006.10.18
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 秋深し隣は何をする人ぞ。山路来てなにやらゆかしすみれ草―。和歌と俳諧、
方法論はまったく違いますが、「もののあはれ」なしには歌も句も詠めません。
「もの」がなければ、人も自然もないからです。ジャングルの新企画【日本文
化のキーワード】第一回は、この言葉「もののあはれ」。箪笥貯金は、高月最
終回。完全週休二日制から飛び降りると、現代人はすくわれる。イベントは、
もう「新春狂言」。少な少な…の千作、名人芸見ないと!また今号も少々長め
です、グラウンド10周。ピーッ。


…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】日本語ジャングル  【日本文化のキーワード】第一回 もののあはれ
【2】エディターの箪笥貯金        旧暦スト太陽と月の夢 最終回
【3】イベント情報                  新春天空狂言2007
【4】言の葉通信・お知らせ         『南方録』『宗二記』衣替え

…編集後記…
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【1】日本語ジャングル  【日本文化のキーワード】第一回 もののあはれ
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 日本語ジャングル、今回より【日本文化のキーワード】を企画。全4回のシリ
ーズでお届けしていきます。テーマは、第一回「もののあはれ」、第二回「幽
玄」、第三回「風狂」、第四回「侘び寂び」。
 平安から、安土桃山時代まで、日本人なら誰でも聞いたことのある、日本文
化のもっとも重要なキーワードを、ごいっしょに毎回クルーズしていこうと思
います。第一回目は、和歌・物語文学の根本を解き明かす、「もののあはれ」。


 有名な「もののあはれ」は、本居宣長が提唱した、平安時代の全文芸の基調
となる美的概念です。これは、まず、古書にみられる「あはれ」を考証した小
論『安波礼弁』(宝暦八年)により初めて唱えられ、物語論『紫文要領』(宝暦
十三年)、和歌論『石上私淑言』(?宝暦十三年以降)の両著を経て理論構築、完
成をみました。
 さて、「もののあはれ」とはいったい何なのでしょうか。宣長記念館HPから、
まずご紹介します。

「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用
例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」
を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわ
れを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長
が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と
言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在
価値があるとした。
 これは、宣長が、和歌や『源氏物語』から見つけた平安時代の文学、また貴
族の生活の底流を流れる美意識である。
 この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からそ
の美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。『安波礼弁』で、
「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとす
る。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く
感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの
人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説
かれた。

次に、『紫文要領』本文をみてみましょう。

本居宣長曰く、
「世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に
ふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが
心にわきまへしる、これ事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀れをしるな
り。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心事の心をしる
といふもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」


 「もののあはれ」は、ベストセラー『国家の品格』でも紹介され、今やブロ
グでも盛んに取りあげられていますね。

http://web.chokugen.jp/mikami/2006/05/post_ffc2.html
http://shelly-tomoko.at.webry.info/200606/article_8.html
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/akegarasu_sho/ronbun/1-10/H2-1honbun_3.jsp
http://blog.goo.ne.jp/mishimablues/e/74ed9fb2a53593b0c85428b8eb916e06
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/07/post_c02b.html

 これら、今世の中で話題になってる「もののあはれ」の捉え方も、間違いで
はありませんが、少しかたよっているのではないでしょうか。宣長が提唱した
のは「はかなく美しいものに、感動する心」だけではありません。

 そもそも「もの」とは何か? 「あはれ」とは何か?

 まず、「あはれ」。現代語では、ただ「哀れ」のみの意味となってしまいま
したが、近世までは、

「うれしいにつけ、悲しいにつけ、しみじみとした深い感動を受けた時に発す
る語。ああ。」(『古語辞典』角川書店)

 だったのです。宣長『石上私淑言』にも、

「ある時は喜しく、ある時は悲しく、又はらだたしく、又よろこばしく、或は
楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或は愛しく、或はにくましく、
或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれ
をしる」

 とあります。古語辞典で”あはれ”をひくと、「いとしい」「なつかしい」
「かわいそう」「悲しい」「情けない」「残念」「うれしい」「感心」「おも
しろい」…。書ききれないほど実に多様な意味があります。「あっぱれ」も元
は、”あはれ”から派生した語。


 さて、では「もの」とは何か。漢字で書くと「物」の方です。現代日本語で
は、生命のない対象物、英語のThingの意味のみに、おおむねなっていると思わ
れます。ところが近世まで、宣長や歌人、文芸作者のみていた「もの」には、
実に広範で豊潤な意味がありました。正直、すべてをみると何がなんだか、ワ
ケがわからなくなるほど雑多です。
 いきなり正解をいいますと、「もの=物」とは、「ワケのわからないもの」
なのです。わからないながらも、辞典によっては監修者の好みで、その定義に
は微妙な”ゆれ”がある。代表的な巨大辞典、『広辞苑』と『大辞林』を比較、
その”ゆれ”をみてみましょう。

「もの」の定義

A.広辞苑
●形のある物体をはじめとして、存在の感知できる対象。また対象を特定の言
葉で指し示さず漠然ととらえて表現するものにも用いる。
1.物体。物品。
2.仏・神・鬼・魂など、霊妙な作用をもたらす存在。妖怪・邪神・物の怪。
3.物事。
4.世間一般の事柄
…6.言語・言葉。

B.大辞林
●形のある物体を初めとして、広く人間が知覚し思考し得る対象の一切を意味
する。
「こと」が時間的に生起・消滅する現象を表すのに対して、「もの」はその現
象を担う不変な実体を想定して用いる語である。
1.物体。物品。
…3.対象を具体的に表現せず、漠然という語。何らかの対象。「―を言う」
「―を思う」
…5.物事の筋道、道理。
…6.鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語。「―に憑かれ
る」「―の怪」
二?〔哲〕イ 人格としては関係しない対象を「ひと」に対して「もの」とい
う。


二つの辞典の間の“ゆれ”
A.広辞苑 1.定義中に「言語」がある。 2.正体不明の霊的存在が語義の上位
にある。
B.大辞林 1.「こと」が時間的に生起・消滅する現象。「もの」がその現象を
担う不変な実体。
2.人格に関係しない対象。

 辞典の”ゆれ”を比較すると、言の葉庵としては、定義に「言語」をいれた
広辞苑に一票投じたいような気もしますが、ここで重要なのは「ものの怪」
「憑もの」「物忌み」などと使う、「仏・神・鬼・魂など、正体のとらえにく
い霊妙な存在」という定義。日本文化論者、栗田勇の著述に興味深い一文があ
ります。


日本人にとって、ものはもの以上である。もののけという言葉があるが、あの
「もの」は、じつは目に見えぬ精霊のことである。つまり、魂をものといって
いる。
『源氏物語』にしても、必ず舞台に小道具が出てくる。光源氏が女性と知り合
うときに、たとえば夕顔なら夕顔の花と釣瓶が出てくる。それから薄がなびき、
萩の花が庭を埋め、という舞台設定が行われる。つまり、ものによって、人と
人のドラマが始まる。
というのも、日本人にとってものというのは、西洋人のいういわゆる物質では
ない。ものは、広い天然宇宙の自然と人間との間のひとつのきっかけ、橋渡し
のようなものであり、ものが出てきてはじめて、その背景にあるドラマの舞台
に人間はすわることができると考えている。
それに対してキリスト教の場合、神が橋渡しとなって人間と人間がつながる。
したがってカトリック世界では、つい近ごろまで神を通じて結ばれた男女は離
婚できないというルールがあったわけだ。
日本人の場合、そういう絶対的なキリスト教の神に代わるものが、ものであっ
た。それはなぜかというと、絶対的な自然の象徴であり、ものを手がかりにし
て、人間の世界は目に見える真実界へと広がっていくからである。(『利休と日
本人』栗田勇 祥伝社)


 栗田氏のいう「もの」とは、天台宗本覚思想の「草木国土悉皆成仏」、すな
わちこの世のあらゆるもの、山、川、海や空気にいたるまでの、仏性が宿る霊
的な存在のことなのです。この存在が、人間界・現実界と霊界との”橋渡し”
を担うことをよくあらわしているのが、能の世界。

 演じる神や霊などが宿るといわれ、最も重要とされているのが、能の面。と
くに「もの」がつくものは、すべて霊界との媒介となります。「作りもの」
「採(と)りもの」「もの狂い」。
 「作りもの」は、竹の枠組みに白いさらし布を巻いただけのいたって簡素な
舞台装置です。これが、舟・鐘楼・井戸などをあらわす。前シテは、このシン
ボルにきっかけを与えられ、劇中のクライマックスに導かれます。
 「採りもの」は、狂女や巫女などが扇の代わりに手にもつ、小笹・桜枝・御
幣などの小物。シテは、この小物がアンテナ=神の依代(よりしろ)となって、
あの世からの託宣をキャッチし、舞い、謡います。
 「もの狂い」は辞典類には必ず「ふだん正気の人が、亡父・行方不明の子な
どを思い浮かべることで、たちまち狂気となって」と説明されていますが、違
います。舞台上の真実は、霊的なエネルギーを受けやすい状況にある人(亡き子
を思い出すなど)の感情があふれ出すさまを、舞や型に芸として止揚して演じる
ひとつの方法、舞台様式です。この場合、「狂う」は「演じる」の代名詞。
 以上のように、能は、まさに本覚思想を芸術化・舞台化したものですから、
霊的な正体不明の「もの」をベースに存在、成立しています。


 この正体不明で、霊的な「もの」は、古代日本人にはどのように呼ばれてい
たのでしょうか。

 日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの
との四つが、代表的なものであった。…鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的
なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したの
は、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいの
である。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝
に這つてから、勢力が現れたのである。(「鬼の話」折口信夫)

 つまり、古代人にとって「もの」は単なる物質ではなく、カミ・オニ・タマ
と同様、具体的な形をもたない霊的な存在だと考えられていました。また、概
念としては、これら四つを総合した包括的なものだったようです。

 モノとオニが古くは同義語だったことは専門家の常識だが、さらにオニとカ
ミも互換的であり、したがって存在物一般―ふつう哲学では「存在するもの」
(ギリシャ語のon、ラテン語のens、ドイツ語のSeiende)を「存在者」と訳して
いるが、人間についても物という(人物、大物の例)から、本書では人を含めて
「存在物」と表記する―および存在一般を指示するモノにカミもまた還元され
てしまうと、素人の筆者は考えるからである。折口の挙げた古代信仰の四概念
のうち三つまでが相互関連的であり、モノがその根底をなしている。残るのは
タマ(霊魂)だが、これはむしろケ(気)と関連づけて考察した方がよく、霊がカ
ミと、神がタマシヒと訓じられることもあった(例えば『日本書紀』欽明天皇
二年七月条)から、結局全称類概念としてのモノに内包されてしまうだろう。
(『もののけ?』山内昶 法政大学出版局)


 さて、海外では森羅万象に不可知な生命現象が潜むとする〈アニミズム〉と
いう概念があります。(『原始文化』タイラー 1981)さらに、〈アニミズム〉
をより根源的、普遍的に説明する〈マナ〉という新概念が、タイラーの弟子た
ちによって提唱されました。〈マナ〉はメラネシア人たちに信じられている、
超自然的な存在・力・霊性です。

 マナとはメラネシア語で「人間の平常の力を超え、自然の通常の過程の外に
あって、あらゆるものに効果を生じさせるもの」(『メラネシア人』コドリン
トン)にほかならない。メラネシアの人々は海上で暴風雨に遭うとその針路を
かえてくれるように嘆願するが、これは嵐の中にあるスピリトウスに訴えてい
るのではなく、嵐そのものを生きた存在としてそれに呼びかけていた。あるい
はカヌー競争で優勝できたのも、漕ぎ手が優れていたからではなく、舟にマナ
が宿っていたからである。戦士が敵を槍で倒せたのも、彼が強かったからでは
なく、槍にマナが憑いていたからである。

 コドリントンの定義によると、「メラネシア人はあらゆる物質的な力から、
絶対的に区別された力の生存を信じている。これは善にも悪にも、あらゆる種
類の仕方で作動し、かつまたこれを人間が掌中に収めて支配することが至高の
利益である。これがマナにほかならない。…それは力、非物質的で、ある意味
では超自然的な作用力である。けれどもこれが啓示されるのは自然力によって、
あるいはまた人間がもっているすべての種類の能力と卓越性によってである」
(『同前』)


 つまり〈マナ〉とは宇宙に遍く存在する、超自然的で神秘的な力であり、自
然界のあらゆるものの中に自由に出入りし、背後から動かし、エネルギーを与
える。それは人間・自然物・自然現象を通じてあらわれるものだというのです。

 調査によると〈マナ〉と類似の概念・信仰は、世界各地に偏在していること
がわかりました。

 アメリカ大陸 北米アルゴンキン語族〈マントウ〉、オセアニア レパース島
〈マナギ〉、マライタ島〈ママナア〉、ガダルカナル〈ナナマ〉、フィジー諸島
〈マヌ〉、東南アジア ボルネオ ダヤク族〈マナン〉、アフリカ ウガンダ 
ニヨロ族〈マハ〉、ドゴン族〈ニャマ〉、モシ族〈ナム〉。

 また、世界の古代語にも霊的エネルギーを指す、類似語が多く見られます。
 古代ヨーロッパでは〈マナ〉は「母なる月」をあらわす言葉。古代スカンジナ
ビアでは女神を〈マン〉〈マナ〉〈マナ・アンナ〉。古代ローマでは祖霊を〈マ
ネス〉と呼びました。『旧約聖書』出エジプト記によると、放浪するイスラエル
の民を、神が〈マナ〉という食物を天から降らせ、四十年間養ったとあります。


 〈マナ〉と類似の言葉・概念・信仰は、世界のいたるところでみられるもの
でしたが、日本語の〈モノ〉も〈マナ〉の転化ではないか、とする説がありま
す。

 「もの」は日本語のシステムにおいて、マナと全く同じ運動をしているよう
に思われる。Mono-mana。村山七郎氏の言うように日本語の基層がアウストロ
ネシア系であるとすれば、ここに単なる駄洒落を見るべきではないだろう。(
『マナと法』岩森栄樹)

 日本の「もの」とポリネシアの「マナ」とは変換可能な概念であり、その
役割は同一であるということになるであろう。(『憑霊信仰論』小松和彦)

 沖縄や八重山諸島の「まやの神」の「まや」は「マナ」の転であり、「モノ
」もまた同様であろう。(『鬼と天皇』大和岩雄)

 その他にも、昨今〈マナ〉と〈モノ〉の類縁性を考証する研究が種々提唱さ
れています。


 このようにみていくと、宣長の「もののあはれ」は、ただ日本人だけの美
的感性に限局されたものではなく、文化人類学、民俗学などの視点も交え、
捉えなおす必要があるようです。くわえて、「もの」を「言語」とするなら、
超自然的な想念(信仰といっていいかもしれません)が、言語表出化されるモ
デル、西欧の〈ロゴス〉や日本の〈言霊信仰〉とも関連付けて見てゆく方法
もあるかもしれません。が、今はその力もないので稿を改めたいと思います。


※〈マナ〉以降の段落の引用・出展は、主に『もののけ?』によりました。

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【2】エディターの箪笥貯金        旧暦スト太陽と月の夢 最終回
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 昔の暦には、さぞかしたくさんの行事日が掲載されていたのだろうと思う人
が多いのですが、当時は五節句を含め、行事日や祭日が記載されることはほと
んどありませんでした。盆と正月に会社を休むのと一緒で、生活に密着した行
事はあまりにも当たり前すぎて、わざわざ掲載する必要がなかったからです。
作家の石川英輔氏によれば、江戸時代までの特徴といえば、あくまでも「自然」
に添っていること。そしてもうひとつは「個々の事情」に添っていることなの
だそうです。旧暦を使っていた時代は、季節に応じたさまざまな行事や祭日が
人々の祝日であり、休息日となっていました。それは必ずしも全国的に統一さ
れたものではなく、個々の風土や環境の中から自然に育まれてきた「ハレ」や
「ケ」の日として存在していました。村や共同体によって、あるいは店や職業
によって、それぞれが個性的な休みをとっていたのです。

 暦だけでなく、時間の観念も今とは違っていました。日本独自の「不定時法」
は昼と夜を分けて六等分するので、夏至と冬至では一刻の長さに大きな違いが
あり、時間は決まったものではなく、季節によって自在に伸び縮みするもので
した。働く時間も夏は長く、冬は短かったのです。日の出とともに起きて、日
が暮れたら休むというシンプルな生活はまさに自然や、個々の生活事情に添っ
た、スローな暮らしだったのではないでしょうか。日本人はとにかく節目や結
び目、つなぎ目を大切にしてきました。四季の節々に設けられた民間行事の多
くは再生、再出発するためにあり、植物や水の力にあやかって穢れを祓い、禊
ぎをする「潔済」の意味合いが強いものです。そして滋養のあるものを食べて
鋭気を養ったり、作業の手を休めて「物忌み」をしたり、野歩きをしてのんび
りすごす「特別な日」が存在していました。生活の中の「けじめ」が、心身を
リフレッシュするための「ハレ」と「ケ」になっていたのです。定期的に休め
る週休制はきわめて合理的ですが、「けじめ」というには少々、規則的すぎる
のかもしれません。旧暦ベースの行事や習俗は、月曜から金曜まで働いて土日
は休むという「週休制」の普及によって、急速に衰退していきました。新暦に
なってからのもっとも大きな変化は、曜日の感覚が浸透したことでした。社会
が全体主義的になり、システマティックになればなるほど、季節感がなくなっ
てしまうのは当然のことでもあるのです。

 ところで着物を着ていた時代の日本には、腹を据えて軸を中心に動く独特の
身体技法がありました。着物は不自由なようですが、すっと踵(きびす)を返
したり、軸を中心にくるくるとこまめに動くにはむしろ適しています。腹が自
然に座り、肩の力が抜けてくることは着物を着たことがある人なら、誰でも実
感していることでしょう。俗に「小股の切れ上がった女」といいますが、機敏
に動けるスマートな身体性だけでなく、心意気があり、精神的に軸がぶれない
女性をさしていたと思われます。「尺貫法」も日本特有のニューマンスケール
で、一寸の長さは約三センチで人差し指の第二関節の長さが基準になっていま
す。親指と人差し指を広げた、いわば三角定規が咫(あた)で、人によって多少、
長さの違いはありますが、大体、咫(あた)の二倍が一尺(約三十センチ)に
なり、指を使って尺とり虫のように繰り返していけば、大抵のものの長さを計
ることができます。もっと長いものを計る場合は、両手を左右に広げたときの
長さである尋(ひろ)が使えます。私の場合は五尺(約百五十センチ)です。
どこでも自由に持ち歩けるものさしなので、自分の寸法を覚えておくと何かと
便利です。日本のお箸の長さやお椀、お膳などの大きさも、この身体尺から、
もっとも使いやすいサイズで作られています。使いやすいか使いにくいか、自
分に合っているのかいないのか。時には他人に決められたものさしではなく、
身体の感覚を信頼して自分自身のものさしを使ってみるのも楽しいかもしれま
せん。

 現代はどうしても自分の本音や、身体感覚からかけ離れた生活を余儀なくさ
れがちです。日頃、なんとなく感じていることを無視しないで生きるには、社
会が要求する時間のシステムから一瞬でも降りてみるといいようです。そうす
ると自分がどこに向かっているのか見えてきたり、本当は必要でないものがは
っきりしてくることもありそうです。五感のアンテナは伸びているけれども、
丹田は充実している。そんな日々の積み重ねがあれば、雨の日も風の日も日々
是好日と受け止めて生きていけるのかもしれません。今日の旧暦は公式に使わ
れることがなくなったからこそ、自分の尺度や軸を持って、物事と主体的な関
わりを持つためのセカンドツールとして案外、面白く利用できるのではないか
と思っています。宇宙のリズムと自分がずれているように感じたとき、何かを
直感的に判断する必要が生じたとき、ヒト・モノ・コトとの相性を確かめたい
とき、月を見上げ、大地のたゆみない循環に目をとめていただけたらと思いま
す。


■プロフィール■
高月美樹(たかつきみき)
1962年東京都生まれ。和文化エディター。和文化手帖「旧暦日々是好日」を発
行するLUNAWORKS代表。http://www.lunaworks.jp


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【3】イベント情報                  新春天空狂言2007
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2000年より毎年好評、正月恒例の「新春 天空狂言」。8回目を迎える今回は大
阪能楽会館から、人間国宝・茂山千作と千之丞の兄弟を筆頭に、絶大な人気を
誇る大蔵流・茂山千五郎家一門が勢揃いする、初笑い4公演をお届けいたしま
す。
「三番三」連続上演記録を更新中の千之丞が八十四歳にして踏む、迫力あふれ
る「三番三」、千作・千之丞兄弟のまさにゴールデンコンビが贈る古典狂言の
名作「素袍落」など、年の初めを飾るにふさわしい、いずれ劣らぬ多彩な演目
でお送りいたします。

新春天空狂言 2007 http://www.iijnet.or.jp/NOH-KYOGEN/New/tenku07/index.html


日時:2007年1月1日(月・祝)・1月2日(火)・1月3日(水)
会場:大阪能楽会館 大阪市北区中崎西2-3-17/tel. 06-6373-1726
発売日:2006年9月30日(土)午前10時~(下記電話番号・各種プレイガイドにて)

演目:
1月1日(月・祝) 13:30-
『三番叟』茂山千之丞 『清水』丸石やすし 『二人大名』茂山千三郎
1月1日(月・祝) 17:00-
『大黒連歌』茂山千之丞 『伯母ヶ酒』丸石やすし 『察化』茂山あきら

1月2日(火)14:00-
『昆布柿』茂山正邦 『縄綯』茂山千之丞 『禰宜山伏』茂山千五郎

1月3日(水) 17:00-
『文相撲』丸石やすし 『素襖落』茂山千作 『釣針』茂山あきら
※各回「お正月トーク」あり。

料金:
【各公演】
1階指定席・5,000円(ネットワーカークラブ会員→4,700円)
/2階自由席・3,500円
【元旦セット券(2公演)】
1階指定席・9,500円(ネットワーカークラブ会員→9,200円)
【全公演セット券(4公演)】
1階指定席・19,000円(ネットワーカークラブ会員→18,000円)

チケット販売:
【セクターエイティエイト】 tel. 06-6353-8988(10:00~18:00/第2
・4土、日、祝除く)
【電子チケットぴあ】 tel. 0570-02-9999〔Pコード 371-586〕
【イープラス】 URL. http://eplus.jp/
【ローソンチケット】 tel. 0570-000-407〔Lコード 54441〕

ご注意: ※ 当日券は各500円増
※ セット券は前売のみ、セクターエイティエイトのみで販売。2階自由席の
セット券はございません
※ セクターエイティエイトにてお求めのネットワーカークラブ会員の方は送
料無料です
※ セクターエイティエイトにてお求めの一般の方は送料として別途300円
をご負担いただきます
※ 未就学児童のご入場はご遠慮ください
※ 出演者は都合により一部変更する場合がございますので、予めご了承くだ
さい
お問い合わせ: 【セクターエイティエイト】 tel. 06-6353-8988(10:00~
18:00/第2・4土、日、祝除く)
主催:KENSYO(株式会社セクターエイティエイト)/企画制作:SECTOR88

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【4】言の葉通信・お知らせ        『南方録』『宗二記』衣替え
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 『葉隠』都内主要書店さん店頭にて、順調に販売しております。ありがとう
ございました。
さて、『南方録』『山上宗二記』、今回より、表紙カバーつきにて〔新装〕販
売開始となりました。


『南方録 現代語全文完訳』〔新装版〕
http://nobunsha.jp/book/post_8.html

『山上宗二記 現代語全文完訳』〔新装版〕
http://nobunsha.jp/book/post_26.html

(大きな画像は楽天のフリマ言の葉ショップにて↓)
http://furima.rakuten.co.jp/booth/s/21935/

お客様より「本のイメージがずいぶん伝わるようになった」とのお声をいた
だいております。
 本の中味は従来販売品とまったく変わりません。実験的に丸善 丸の内本
店さんのみにて、サンプル販売しています。新装版ブック、店頭にてお手に
とってご覧いただけます。


……………《編集後記》………………………………………………………………

 人が服を着ることの本当の意味は何だろう。人は外見がすべてといい切る人
も少ないと思いますが、初対面の相手を値踏みする大きなファクターであるこ
とは間違いない。こういった社会的な意味論から、全く自由に解き放たれ独自
の思いで20年以上、”ある服”をつくりつづけているアーティストがいます。
先週、銀座でそのギャラリーを訪れました。

柏原エリナ 身にまとう光のアート ――THE BODY ILLUMINANT http://www.pola-ma.jp/schedule/pop0610_01.html

“服”とはいっても、それはアート作品。”光を着る服”なのです。ジュエリ
ーのようにキラキラ光を放つ、無数の発光ダイオードを散りばめた、ワイヤー
だけのドレス、ケープ、スカート、バッグ、コサージュ…。
 半透明アクリルのフジツボ型LEDを半身にびっしりまとったドレスが、ため
息が出るように幻想的で美しい。作家、柏原はなんで、こんな”光の服”をつ
くり続けるのでしょうか。小さい頃に戻って、思い出してみるといい。小さな
子供の願いは、空を飛ぶ、どこにでも瞬時に移動する、など不思議な能力をも
つこと。そのひとつに「身体から光を発する」は、なかったでしょうか。男の
子なら、目から強烈なビームを放つ。女の子は、妖精のように全身から虹色の
光を放つ…。
 羽根と発光物質。はるか昔、進化の過程で人間が失ってしまったもの。人は
原初にさかのぼり、この力を激しく求めるのかも。なんのため、身体から光を
発するのか?生存競争などという、遺伝子のせせこましい目的なんかどうでも
いい。ただ、善いものは光を放ち、まとうのだ。そんな柏原のつぶやきが、青
や赤、グリーンの光となって、暗い会場一面にさざめき、呼吸を繰り返してい
ました。
(アートな気分 言)


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2006年10月24日 16:41

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