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芭蕉の句は「幽玄」とよばれていた? 【言の葉庵】No.19

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┣┫OW┃O       芭蕉の句は「幽玄」とよばれていた? 2007.5.23
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 ところで、うちのPCでかな変換すると「幽玄会社」と出て閉口している今日
この頃。さて、珍しく続いている連載「日本文化のキーワード」。今回は能楽
ファンには少々うんざりされている「幽玄」です。しかしそこには意外な新事
実が?!今回スタート、新コーナーは「おくのほそ道メルマガ行脚」。ヴァーチ
ャルな奥羽・北陸六百里の旅。ぜひ、ぜひ。ごいっしょに!イベントは、あら
ゆる演劇レパートリーの中で、白眉といわれる「道成寺」記念能。もしこの曲
で眠れたら、それはそれですごいことです。


…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】日本文化のキーワード                第三回 幽玄
【2】NEW!おくのほそ道メルマガ行脚           第一回 旅立ち
【3】イベント情報              7/7(土)独立記念能「道成寺」

…編集後記…
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【1】日本文化のキーワード                第三回 幽玄
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まこと、もののあはれ、わび、さび、ほそみ、しをり、たけ、かるみ…。上古
より、日本文化を象徴するキーワードが、歌論を中心にさまざまな人により、
さまざまな形で提唱されてきました。浄土思想・禅宗に基づくものがあり、和
歌にとどまらず、演劇・絵画・書・茶・花・庭など、あらゆる文化を規定し、
影響を与えるキーワードがあります。その展開分野のもっとも広範なキーワー
ドが、「幽玄」。今日、能楽の代名詞のごとく使用されている「幽玄」は、も
とは「もののあはれ」と同様、歌論から一般化、普及されてきた概念でした。
ちなみに今日、「わび」は茶道、「さび」は俳諧をそれぞれ代表するキーワー
ドのように取り扱われていますが、歴史的にそれぞれ必ずしも、これら一分野
の専門用語としてのみ発展してきたものではありません。上にあげたキーワー
ドは、現在すべて仮名で表記されることがほとんど。しかし、幽玄だけは「ゆ
うげん」ではなく、「幽玄」、漢字表記ですね。理由は、この言葉だけが中国
から直輸入され、表記・原義ともにそのまま用いられているキーワード・概念
だからです。

時代や分野により、さまざまな定義にて用いられ、発展をとげてきた幽玄。今
後も、時代とともに、成長・変容を続け日本文化にとどまらず、世界各国の文
化にその影響をおよぼし、広めていくものと思われます。
今、平成十九年時点での「幽玄」考を総ざらいし、整理しておくことも、日本
文化に興味をもつ人にとって、あながち無駄なことでもあるまい、と考えまし
た。


さて、今回は以下の構成で、幽玄について考察して行こうと思います。

1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連
2.和歌と幽玄
3.能、禅と幽玄
4.俳諧と幽玄
5.その他分野への展開と影響

1.幽玄の伝来と、他キーワードとの関連


数々の概念、知識とともに「幽玄」も中国から、わが国にわたり、輸入当初は
原義にて使用されていたといいます。古くは『古今集』にまずみられ、十二世
紀には管弦の風趣を表現する言葉として用いられました。


「〔幽玄〕という語の比較的古い用例は、後秦時代の釈肇が記した『宝蔵論』
〔離微体浄品〕にある〔故製離微之論、顕体幽玄、学者深思、可知虚実矣〕で
ある。西暦四百二十年頃成立したとされる『後漢書』にも用例がある。〔霊思
何皇后紀〕中に〔逝将去汝兮適幽玄〕とあるのがそれである。他に、唐代の詩
人、駱賓王(初唐の詩人)の『蛍火賦』に、〔委性命兮幽玄、任物理兮推遷〕と
あるなど、いずれもその境地が〔深遠で、微妙〕であることを意味している。
『日本語大事典』(小学館)には、〔古く中国では、幽冥の国をさし、のちには
老子・荘子などが説いた哲理や仏教の悟りの境地が深遠、微妙であることをさ
していった〕とある。『臨済録』(成立年未詳)にある、〔仏法幽玄。解得可可
地〕などが、その代表例である。
 わが国にも、原義のまま移入されたと見え、『古今集』(九百五年 延喜五 
序)真名序にある〔或事関神異、或興入幽玄〕という表現は、原義のまま用い
られている。伊藤博之によると、〔幽玄〕という言葉は、〔十二世紀の文献に
広く見られ、特に管弦の興を表現する際、『興入幽玄』といった慣用句が一般
化し、詩の作風の一つとして『余情幽玄体』(『作文大体』)とか『幽玄之体』
といった風体が立てられるに至った〕という。また、田中裕によると、藤原俊
成や藤原定家などが使用した〔幽玄〕という語も、〔すべてこの原義から説明
でき〕、彼らが使った〔幽玄〕という言葉は〔まだ審美論としては現れず、そ
れが優美・典雅などの意味で理解されるようになるのは鎌倉期も後半である〕
という」
(『幽玄』と象徴-『新古今集』の評価をめぐって 岩井茂樹)


さて、それでは、この「幽玄」は、他の日本文化キーワード「まこと」「あは
れ」「さび」などと、どのように関連し、どのような流れを描いてきたのでし
ょうか。

「一九二九年(昭和三)に久松真一は、『上代日本文学の研究』において、〔ま
こと〕、〔あはれ〕、〔幽玄〕が国文学を流れる三つの精神である、と説いた。
久松は一九三一年にも『岩波講座 日本文学概説』において古代の〔まこと〕
の理念が中古には〔もののあはれ〕へと発展し、それが中世に〔幽玄〕となっ
て、最終的には芭蕉の〔さび〕となるのだ、と主張した」
(能はいつから『幽玄』になったのか? 岩井茂樹)

歌論においては、この後見るように、藤原俊成が「幽玄」を歌の最奥の理念と
して打ち立てました。俊成の理念において「幽玄」が、あはれ、さび、ほそみ
などという概念とどのように、関わりながら発展、確立されたのでしょうか。
また、「幽玄」に至るまで、俊成は、古今集復帰を理想としながら、「たけ高し
」「遠白し」という独自のキーワードで歌に対し新しい境地を開拓しようと試
みたといいます。


「○俊成は古今集復帰を志しながら、古今に比して一歩異なる境地に進んでい
る。彼の歌に対する新しい開拓は以下。

○たけ高し
   率直な旦壮大なる感情のある歌。

○遠白し
   大きにゆたけき意(壮大)なり。

○心細し
○姿さび  
前の「たけ高し」「遠白し」に対して繊細な味を加えたもの。「心細し」が心
または気分情趣を主としたのに対し、「姿さび」は姿即表現を志向している。

◎幽玄の意義
以上の理念を統一して作られたものが幽玄であった。歌にあらわれる余情とし
ての幽玄。

○俊成に於いては、幽玄は、歌の素材に於いてのそれではなく、すがた、風体
等のそれであったと言われる。

○~こうして見ると、俊成の意味した幽玄は、相当に複雑した内容であり、心
細しや長高しというような繊細と壮大との何れをも含んだ境地をさしている。

夕されば野べの秋風身にしみてうづらなくなり深草の里(自讃歌)

○幽玄のもつ歌の感情が花やかであるよりは、沈欝であり深みのあるのは、時
代の宗教的感情に自ら影響されたものであろうか。

心なき実にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(西行)

西行と俊成の二首の歌は、幽玄の境地では一致しているようであるが、

*西行→自然を放浪してこの境地を得た。(体験的)
*俊成→静かな夜、桐火桶をかこんで沈思して得た。

違いが認められる。

◎俊成に於いて、「あはれ」という伝統的な境地をすすめて、「さび」や「細
み」という境地に至り、それに「たけ高し」、「遠白し」という観念を加えて、
歌の理想としての「幽玄」を完成した」
(HP ?『中世』」幽玄美の妖艶化と平淡化より 
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~kokikawa/culture3.html#§)

2.和歌と幽玄

「幽玄」を歌道における最高の様式概念として取り上げたのは藤原俊成でした。

「幽玄」=言葉で言い表された以上のある物を暗示する事=余情

その子、定家は「有心」という美的概念が「幽玄」をも統制・支配すべきとし、
「余情」の性格は、より「妖艶」を加味するようになります。
その後正徹・心敬等は俊成が強調した超感覚的な「余情」より一層実感的感覚
に重大な価値を置き、艶美・優雅などが「幽玄」の本質となっていきます。


  春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるゝ横雲のそら

 この藤原定家の歌は、一般的な意味での「幽玄」な歌の代表ではないでしょ
うか。室町時代の連歌師、心敬の歌論『ささめごと』にも、「幽玄体の古人自
讃歌」として取り上げられています。心敬は、古人の幽玄体とは「心を最用と
し、心の艶なるに入る道」としています。


さても此の道は幽玄體を中にも心にとめて修行し侍るべき事にや。

 古人語り侍りし。いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最用なる
べし。されども、昔の人の幽玄體と心得たると、大やうのともがらの思へると、
遥かに變はりたるやうに見え侍るとなむ。古人の幽玄體と取りおけるは、心を
最用とせしにや。大やうの人の心得たるは、姿の優ばみたる也。心の艶なるに
は入りがたき道なり。人も姿をかいつくろへるは諸人の事也。心ををさむるは
一人なるべし。されば、古人の最上の幽玄體と思へる歌ども、この比は分明に
や侍らざらむ。
『ささめごと』上巻~「幽玄体について」より


さて、同じく室町時代の歌人、正徹は自身の歌論書『正徹物語』にて、『源氏
物語』の光源氏と藤壺がやりとりした古歌より、「幽玄」の本質を抽出してい
ます。以下その概要をご紹介しましょう。


 幽玄とは、「心にあって言葉には言うことができないもの」。たとえば、「
月に薄雲がかかっている状態」であり、「山の紅葉に霧がかかっている状態」
です。風情のある素晴らしいものがはっきりそこにあるのだが、それがぼんや
りとしか見えない状態。だから、幽玄とは何かと問われても、幽玄であるがゆ
えにはっきり言うことができないものなのです。それがわからない人は、「空
が隅々まで晴れて月がキラキラと見えている状態」が素晴らしいと言うだろう。
幽玄とは、「どこが趣深いとも、どこが優れているとも言えないもの」。
幽玄を辞書で引けば、歌論用語で「奥深く神秘的で計り知れないもの」とあり
ます。

見てもまたあふよまれなる夢の中にやがて紛るる憂き身ともがな

 この源氏の歌こそ幽玄です。以前にも以後にも藤壺とは「あふよまれなる」
の状態が続いています。それが「夢の中」では逢うことができる。藤壺との逢
瀬の夢が夢のまま終わるということは、そのまま夢に紛れていつまでも逢瀬を
続けられることになるのでしょう。いつまでも夢の中にいて、そのまま人生を
終わってしまいたいと言うこと。夢の中での逢瀬、夢のままに終わってしまう
人生、いずれも奥深く計り知れないものがあります。

世語りに人や伝へむたぐひなき憂き身も覚めぬ夢になしても

 これが藤壺の返歌。藤壺は継母ですが、源氏と密通して、たとえつらい身は
夢のようにはかなく終わり跡形もなくなったとしても、つらい噂は後世まで語
り継がれるだろうとしています。源氏は夢を二人だけの逢瀬として夢に埋没す
ることに満足する。しかし、藤壺は夢の中の二人では終わらない世の中の現実
までをも考えています。ここに五歳しか離れていないにしても母と子の差が。
ともかく、夢の中での出来事を引き継いでいる点では、藤壺の歌も幽玄である、
といえるでしょう。

3.能、禅と幽玄

今日、能の代名詞のごとく扱われている「幽玄」。能への導入は、本歌取りの
手法により和歌より謡曲の詞章として取り入れられたことからはじまります。
世阿弥の定義は、

ただ美しく柔和な体、幽玄の本体なり

ここで、歌道の「幽玄」より現世的かつ表現的な概念と変容します。

 「幽玄」=上品さ、華やかさ

世阿弥の大和結崎座の得意とする芸風は、もともと「物まね」を主体とする写
実的なものでした。当時民衆の圧倒的な支持を得ていた猿楽の得意芸。しかし、
徐々に台頭してきたライバル、近江日吉座、犬王の歌舞を主体とする「幽玄」
な芸風を重視した世阿弥は、これを自身の芸に取り入れ、「幽玄」体を大和猿
楽の物まね=写実的な芸の上位に位置するものとして猿楽を再構築。今日の総
合歌舞劇、能へと昇華、大成したのです。

また、世阿弥の初期の能芸書において「幽玄」は、芸の表現面で「弱い」と対
照的に位置づけられていたようです。

「強い・弱いという事につき多くの人が誤解しているようだ。品のない能を強
いといい、弱いものを幽玄などと批評しているが、おかしな話である。いつど
こで見ても見弱りのしないシテがいる。これを強いという。またどの舞台にお
いても花やかな役者。これが幽玄だ」
(風姿花伝第三 問答條々より)

『風姿花伝』のもっとも重要な概念「花」が、時々刻々変化していくダイナミ
ックな美的表象として捉えられていることに対し、「幽玄」は、もともとその
ものに本質的に内包されている高貴で不変なものとして定義づけられています。
同じく中国より直輸入されたキーワードで、不変的な「幽玄」とよく似通った
ものに「妙」がある。

「どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる〔妙〕が存する。
これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点で
ある。真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。
 妙はときとして日本文学において〔幽玄〕と呼ばれる。ある批評家は、すべ
ての偉大な芸術作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは変化の世界に
おける永遠なる事物の瞥見、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。
すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしりでて、妙と幽玄とを呼吸
しつつ各種部門の芸術に自己を表現するのである」
(『禅と日本文化』鈴木大拙)

世阿弥は、後期著作において、芸の風体の最高位を「妙体」であると規定して
います。『花鏡』妙所之事に、

「しかれども是をよくよく工夫して見るに、ただこの妙所は、能を窮め、堪能
そのものになりて、蘭けたる位の安き所に入りふして、なすところの態に少し
もかかはらで、無心、無風の位に至る見風、妙所に近きところにてやあるべき、
およそ幽玄の風体の蘭けたらんは、この妙所に少し近き風にてやあるべき」

とあります。

4.俳諧と幽玄

 以上のように、和歌・連歌・能楽などを中心として中世の美的概念「幽玄」
は各分野で様々な発展をみせます。しかし、江戸以降「幽玄」は、日本文化
史上あまり見られなくなってきます。そんな中、もっとも多く用いられたの
は、俳諧の書物においてでした。とくに今日、一般に「わび、さび」の代表
ともされている、芭蕉の句がもっとも「幽玄」である、との評価を受けてい
たのです。


たとえば、上島鬼貫『独ごと』(享保三年)に、「幽玄の句」という叙述があ
ります。

作意をいひ立てる句は、心なき人の耳にもおもしろしとやおぼえ侍らん。又お
もしろきは句のやまひなりとぞ。修し得たる人の幽玄の句は、修行なき人の耳
にはおぼろげにもかよふ事かたかるべし。しかもその詞やすければ、いはば誰
もいふべき所なりやとおもひ侍らん。
 聞こえぬといふ句に幽玄と不首尾の差別有り。まことを弁へぬ人の、様々に
句を作りて、是にても未聞え過ぎておもしろからじ、とひたぬきに詞をぬきて、
後には何の事とも聞えぬ句になり侍れど、作者は初一念の趣向をこころに忘れ
侍らねば、我のみ独り聞ゆるにまかせていひひろむるもかた腹いたし。又幽玄
の句はつたなき心をもて、其の意味のおもしろきところを聞き得ぬなるべし。


また、其角の「日の春をさすがに鶴の歩みかな」の句を、「元朝の日の花やか
にさし出で、長閑に幽玄なるけしきを鶴の歩みに懸けて言列べける祝言、文外
に顕れ」(宝暦三年評)と評しています。芭蕉自身も、門人杉風の

  沢苣やくされ草鞋のちぎれより
  山寺の冬納豆に四手うつやあらし

 の句を評し、「まことに句々たをやかに、作新しく、見るに幽なり、思ふに
玄なり、是を今の風体といはんか」としています。

 そもそもこの時期、芭蕉の俳諧を「幽玄」と位置づけた理由は、前代の貞門・
談林俳諧の遊戯的な風体を、蕉門が「閑寂・幽玄」に改良したという評価の中
から生まれてきたものと思われます。以降、昭和も戦前にいたるまで、国文学、
文芸界では芭蕉の作風を「幽玄」とみなすことが一般的でした。江戸期から昭
和の戦前にいたるまで、主だった国文学文献を通覧したところ、芭蕉評価を
「幽玄」とした資料は、55部中、29部にもおよぶことがわかりました。(1817~
1953までの国文学文献資料調査。前出『幽玄と象徴』岩井茂樹より)

 同調査によると、戦前(1937年頃)まで芭蕉評価は「幽玄」と強力に結びつい
ていたとされています。しかし芭蕉研究が進むにつれ、芭蕉の句風も時代によ
り大きく変化しているため、すべてを「幽玄」の一言でかたづけるわけにはい
かなくなる。大正期頃からは、芭蕉俳諧は「さび」の文芸を大成したという見
方が優勢となり、昭和、戦後には「幽玄」は、芭蕉より完全に乖離していった
とされています。

 さて、上のように江戸時代の「幽玄」の意味は俳諧に関する書物において
「優雅・典雅」とする理解もありましたが、一般的に、原義「奥深く、神秘的
で幽か」とする用例も多かったといいます。

5.その他分野への展開と影響


以上、江戸期から近代まで、「幽玄」の各分野での流れをみてきました。最後
に、現代での「幽玄」がどのように位置づけられ、どのような展開が予見され
るかを確認しましょう。

 まず、ふたりの近代研究者、美学的見地からの「幽玄」定義を以下ご紹介し
ます。

 戦後活躍した竹内敏雄は、「幽玄は、今日では中世的な美学を代表する日本
文芸史上の基礎的類型概念を表するものとされている」とします。中世歌論の
優しさを意味する「艶」との結びつきを指摘。ドイツ美学の「気分象徴」を援
用し、中世歌論を「美的気分」そのものの構造をもつ、と論じます。世阿弥の
能楽論を「物真似」と「幽玄」との総合ととらえ、「半模倣半自由」の芸術論
とまとめる。「幽玄」とは、「具体的感情の混沌を律動的芸術形式」へと統一
する「情趣創造的形成の原理としての意義」をもつものと説きます。まとまら
ない感情の動きを、リズムをもつ形式に統一して示す、芸術創造の原理になっ
ている。また、世阿弥は「幽玄」から「わび」への方向をしめしていたとし、
中世芸術の幽玄美を発展、徹底させ、近世芸術の光彩の中に異常な「わび」の
世界を展開したのが、芭蕉その人である、としています。


 『風雅論-さびの研究』の著者、大西克礼の「幽玄」の七つの定義。

(一)何らかの形で隠され、蔽われていること
(二)仄暗く、朦朧で、薄明であること
(三)静寂であること
(四)深遠であること
(五)充実していること
(六)神秘性、または超自然的であること
(七)非合理的、不可説的、微妙であること


 「幽玄」が形容詞とされるもうひとつの日本文化に「庭」があります。
最後に、閑寂・枯淡を趣とし、海外の造園法にも大きな影響を与えている、
禅寺の平庭や茶庭など、日本庭園の研究家であり、実際の作庭家でもある、重
森三玲の「幽玄」論をご紹介しましょう。


「既に平安時代の詩歌には、幽玄という思想が表われていて、古今集という歌
集には幽玄と云うことを主張しているのである。幽玄と云うことは中々説明が
六ヶしいが、音楽に於ける余韻と云ったものである。もの静かな味とか、侘し
い味と云ったもので、目で見ただけの表面上の味ではなく、その内面に含まれ
た味である。
 この幽玄と云う思想が、日本の諸他の芸術には、何れも基本となっていたか
ら、支那から墨画が入って来ても直ちにこれを理解したのであり、又この墨画
から枯山水と云う石や砂や樹木ばかりの庭園が発達する様になったのである。
だからこの幽玄と云うことが解るためには、日本人でも相当な教養や洗練さを
必要とするのである。
 この傾向は、室町時代から茶と云うものが流行しかけて一層発達したのであ
って、多く室町時代の庭園がこの枯山水によって表現されたのは当然なことで
ある」


 三玲はさらに、中国を起源とする文化の日本化は「幽玄」を介して実現する、
と指摘しています。


 和歌や連歌・俳諧など、歌と句の文芸は、現在、短歌、俳句として伝えられ
ていますが、「幽玄」はすでに過去のもののようです。現在の日本文化をみる
と、世阿弥当初の姿をそのまま伝える能楽と、ほとんどその様式に崩れや乱れ
のない、日本庭園にもっとも色濃く「幽玄」が継承されているように思えます。
これらが、日本文化の「遺伝子」として次世代にどのように継承されていくの
か、とても興味深いテーマです。願わくば、能や枯山水の表面的な形式だけが
模倣されるのではなく、古人の「心を最用とし、心の艶なるに入る道」と精神
こそが伝承されるべき、と思われてなりません。

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【2】おくのほそ道メルマガ行脚              第一回 旅立ち
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今回スタートする新コーナー「奥のほそ道メルマガ行脚」は、三百年前芭蕉が、
おくのほそ道の旅でたどったコースを、ほぼ同じ日程でヴァーチャルに行脚し
ていこうとするものです。

具体的には、メルマガ発行の日付とほぼ同じ日程にて、おくのほそ道本文を、
『完読 おくのほそ道』(能文社)より、該当段落をご紹介。ともに読み進めて
きます。誌上の旅であっても、よりリアルにより深く、おくのほそ道を体感し
ていただくために、同著所収の『曾良旅日記』と『奥細道菅菰抄』も、該当段
落を併載します。

芭蕉と弟子の曾良は、元禄二年旧暦三月二十七日(新暦五月十六日)深川芭蕉庵
より旅立ちます。奥羽、北陸を巡遊する、所用全日数百五十五日、総行程六百
里の大旅行でした。旧暦九月六日(新暦十月十八日)、終着地の大垣を経て、伊
勢長島から伊勢神宮をめざし再出発する場面で、この紀行文は閉じられます。

江戸出発は五月十六日。ちょうど今頃ですね。今回は、日本文芸史上極めつけ
の名文といわれる、おくのほそ道の序、「月日は百代の過客にして…」を読み、
江戸深川より出発。「室の八島」から「日光」のふもとまで足をのばしましょ
う。そして、今年十月の連載最終回には「大垣」へと、約半年かけて到着する
予定です。ぜひ、ごいっしょに完走されんことを。

●序章

【おくのほそ道】
 月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮か
べるもの、馬のくつわを取って老いを迎えるものは、日々これ旅にあり、旅を住
みかとしているのだ。古人も多く旅に死んだという。私もいつ頃よりであろう、
ちぎれ雲のように風にさそわれては、漂泊の思いやまず、海辺をさすらったもの
である。去年の秋、江上の破れ小屋に蜘蛛の古巣を払い、ようよう年も暮れる。
春立つ霞の空に、白川の関を越えてみたいもの、とそぞろ神にとりつかれ心乱さ
れ、道祖神にも招かれては取るものも手につかぬありさま。股引きの破れをつく
ろい、笠の緒すげかえ、三里に灸をすえなどしているが、松島の月、いかがであ
ろうかとまず心にかかる。それゆえ住まいは人に譲り、杉風の別宅に引っ越すに
あたって、

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

鑑賞(古びたこの草庵も、住む人が変われば、代替わりするもの。愛らしい雛な
ど飾る若やいだ家にもなるのであろうか)

 これを発句に、表八句を庵の柱へと掛け置いた。


【奥細道菅菰抄】
・月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である

『古文後集』、春夜桃李園に宴する、の序に、「それ天地は万物の逆旅、光陰
は百代の過客」と、天地の運旋、日月の軌跡を旅にたとえている。逆旅は、旅
籠屋、光陰は太陽の移り行くこと。過客は旅人という意味である。

・舟の上に生涯を浮かべる

生涯は、俗に、一生というようなもの。『荘子』に、「わが生や涯り有りなり」
とある。

・古人も多く旅に死んだという

ここまでが序文の発端の詞にあたる。

・私もいつ頃よりであろう

ここから本序となる。

・ちぎれ雲のように風にさそわれては

『詩経』の、「一片の孤雲、吹を逐って飛ぶ」という風情である。

・漂泊の思いやまず

漂泊の二文字はすべてただよう、と訓じる。さまよい歩くこと。

・海辺をさすらったものである

吟行と書くべし。これも「さまよう」の意であり、文選の『漁父の辞』に見
える。左遷という意味ではない。

・江上の破れ小屋に

江上は、江都などというのと同じ。江戸をさす。
(訳者注 漢文、日本の古文ともに江上は、水面または、川のほとりという意
味である。深川芭蕉庵のことであろう)

・春立つ霞の空

『拾遺集』、「春立つといふばかりにやみよし野の山もかすみてけさは見ゆ
らん」、忠岑。

・白川の関を越えて

古歌の立ち入れである。以下の「白河」の項目にくわしい。

・そぞろ神にとりつかれ心乱され、道祖神にも招かれては

「坐」の字をそぞろと訓じてきた。が、ここでは「倉卒」の字を用いるべきだ。
心のあわただしい様で、神は比喩である。祖は門出の祭名といい、旅立ちの祭
りである。黄帝の妹、累祖という人は、遠出を好み、ついに途上にて亡くなっ
た。これにちなんで岐路の神として祀る。日本においては、猿田彦命を分かれ
道の神とする。神代に天津彦火瓊瓊杵尊、下界に降臨の時、迎え導いた神で、
『日本書紀』にくわしい。後世、仏教徒が青面金剛を伝来し、これを庚申と称
した。道路に庚申の像を置き、巷の神とするのはこれゆえである。

・松島の月、いかがであろうかとまず心にかかる

松島は奥州の名所であり、以下にくわしい。『新勅撰』、「心あるあまのもし
ほ火焼すてて月にぞあかす松が浦島」、祝部成茂。『新後撰』、「まつしまや
雄島の磯による波の月の氷に千鳥鳴也」、俊成。

・杉風の別宅に

 杉風(さんぷう)は、翁の門人、東都小田原に住む。本名、鯉屋藤左衛門とい
い、魚店を営む。


○ここまでが序文である。

  草の戸も住替わる代ぞひなの家

頃は二月末、上巳の節に近いため、雛を売る商人が、翁の空いた庵を借り、売
り物を入れて倉庫としたゆえ、この句があるという。もちろん雛の家箱には、
あるものは二つの人形を一緒に入れ、またあるものは大小に箱を入れ替え、と
毎年収蔵時に定めのないものなので、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じ
からず」の心にて人生の常ないさまを観想した句といえよう。


●旅立ち

【おくのほそ道】
 弥生も末の七日。あけぼのの空朧々として、月は有明、光も収まろうとする
中に富士の峰がかすかに見える。上野、谷中の花のこずえ、またいつ見られよ
うかと心細く思われる。親しいもののみ、宵より集い、舟に乗り込み送ってく
れた。千住という所で舟より上がれば、前途三千里の思い万感となって胸ふさ
がり、今は幻のようなちまたに離別の涙をそそぐ。


  行春や鳥啼魚の目は泪


鑑賞(今、遥か遠くへと旅立って行く。別れを惜しみ、また行く春を惜しむかの
ように鳥も泣き、魚すら涙を流しているように思われてならぬ)


 この句を旅の矢立はじめとしたものの、足取りはなかなかに進むものではない。
人々が途中に立ち並び、後姿の見える間は、と見送ってくれるからであろうか。


【曾良旅日記】
  巳三月二十日、芭蕉とともに発つ。深川で舟に乗る。巳の下刻、千住にて下
舟。
一 二十七日夜、粕壁に泊まる。江戸より九里余り。

一 二十八日、間々田(ままだ)に泊まる。春日部より九里。前夜より雨が降る。
 辰の上刻、雨が上がったので宿を出た。しかしまた降りだした。午の下刻にや
む。この日、栗橋の関所を通る。手形を願い出たが、不要であった。


【奥細道菅菰抄】
・弥生も末の七日

三月二十七日のこと。三月は草木が盛んに生長する時なので、「いやおい月」と
する。いよいよ生じる、と意味である。略して「やよい」という。

・月は有明、光も収まろうと

『源氏物語』箒木の巻の文章より。

・富士の峰がかすかに見える

駿河の国、富士郡にあり。孝謙天皇五年六月、一夜にして出現したという。祭神
は、木花開耶姫、浅間権現と称する。鳥居の額に、三国第一山、とあるゆえに
「不二山」とも書く。むろん名所であり、世人の知るところ。

・上野、谷中の花のこずえ

上野は東都の牛寅にあって、山を東叡、寺を寛永という。寛永年間、慈眼大師開
基の霊場であり、西都の比叡山を模すという。この地はもと、藤堂家の館地であ
り、地勢が伊賀の上野の城に似ているため、この名があるという。今、山口に車
坂・屏風坂などがあるが、みな伊賀上野の坂の名をもらったという。谷中は上野
の西。感応寺という天台宗の大伽藍があり、上野に隣接する。この二つの地域に
は、特に花木が多く、遊覧の地である。

・宵より集い

つどいは、「湊輳」の字を用いる。より集まることである。

・千住という所で

奥州往来の最初の宿駅。

・前途三千里の思い

この五文字は、古詩文中の一句であることは間違いない。出典は調査中。ある
いは、『古文前集』に、「此を去って三千里」という意味か。前は「すすむ」
と訓じる。途は「みち」で、前途は「行く先」ということである。

・幻のようなちまたに

『詩経』にも、「夢幻泡影の如く、露の如く、また電の如く」と説き、俗に夢
の世というように、人生のはかなさを喩える。

  行春や鳥啼魚の目は泪

 杜甫の春望の詩に、「時を感じては花も涙をそそぎ、別れを恨みては鳥も心
を驚かす」。『文選』の古詩に、「王鮪河岬をおもい、晨風(鷹のこと)北林を
思う」。『古楽府』に、「枯魚河を過ぎて泣く、いずれの時か還りてまた入ら
ん」。これらを趣向とした句であろう。


●室の八島

【おくのほそ道】
 室の八島に詣でる。同行の曾良が、
「ここの神さまは、木の花咲くや姫と申して、富士浅間神社と一体です。神話
では、お姫さまが無戸室(うつむろ)に入り火を放って誓を立てる。その最中に
お生まれになったのが火々出見の尊。これにちなんで室の八島と申します。ま
た八島に煙を付け合せて歌を詠むこともこのいわれによります」
 と語った。さらに、当社にはこのしろという魚を禁じる 縁起も伝わっている。


【曾良旅日記】
一 二十九日、辰の上刻、間々田を出る。
 一 小山まで一里半。小山の屋敷は右手にあった。
 一 小山より飯塚まで一里半。木沢というところより左へ曲がる。
 一 この間、姿川を越える。飯塚より壬生まで一里半。飯塚の宿外れより左
へ折れ、小倉川の河原を進み、川を越え、惣社河岸という船着場の上手にかかり、
室の八島へ行く(乾の方角へ五町ばかりである)。すぐに壬生へ着く(毛武という
村がある)。この間、三里とするが、実際は二里あまりである。
 一 壬生から楡木までは二里。壬生より半道ほど行くと、金売り吉次の墓が、
右手二十間ほどの畑の中にあった。
 一 楡木より鹿沼まで一里半。
一 昼過ぎより曇り。同夜、鹿沼(より文挟まで二里八丁)に泊まる。(文挟より
板橋まで二十八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里)


【奥細道菅菰抄】
・室の八島に詣でる

神社。下野の国、総社村にある。室の八島大明神と号す。祭神は、富士浅間の
祖神であるという。すなわち木花開耶姫のことで、以下に見る。

・同行の曾良

信州諏訪の生まれ。東武に遊学し、翁に随身する門人である。

・木の花咲くや姫と申して(中略)室の八島と申します

『日本書紀』にいう。「当時この国に美人がいた。名を鹿葦津姫(またの名を神
吾田津姫、または木花開耶姫)という。皇孫これを愛す。すなわち一夜にして子
を授かった。皇孫がこれを疑ったので、鹿葦津姫は怒り、恨んだ。無戸室をつ
くり、これに入って誓っていう。
『妾が身ごもったのが天孫の子でなければ、必ず焼け死ぬこととなるでしょう。
またもし、それがまことの天孫の胤であれば、火も妾を害することはできない
はず』
と。すなわち火を放ち無戸室を焼く。はじめに熾った煙のかげより生まれでた子
を、火闌降命(ほすせりのみこと)と名付ける。次に炎熱より避難した場所より生
まれでた子を、火火出見尊(ほほでみのみこと)と名付けた。(下略)」
無戸室は、俗に塗籠めというように、出入りの戸口のない家である。


・八島に煙を付け合せて歌を詠むこともこのいわれにより

『詩花集』、「いかでかは思ひありともしらすべきむろのやしまのけぶりなら
では」、藤原実方朝臣。このほかに、煙を詠んだ歌は、千載・新古今・続古今
集などに見える。一説には、「この野中に清水あり。その水蒸気が立ち昇って
煙のごとし」。これを室の八島の煙と呼んだという。

・さらに、当社にはこのしろという魚を禁じる

コノシロは、鱅・鰶の字を用いてきた。俗に、鮗と書いているが、鰶の誤りで
あり、鮗は辞書にはない。これらの類はほとんど、小野篁の歌字尽くしという
書物の過失から出ている。この書物は子供に与えてはならぬ。
○むかしあるところに住むものに可愛らしい娘があった。国主これを聞き、こ
の娘を召し出そうとするが、娘は拒んで行かぬ。父母もこれがただひとりの子
ゆえ、差し出すことを望まなかった。とかくする内に、召し出しの使いが数度に
およぶ。国主の怒りが激しいことを聞き、仕方なく、娘は死んだと偽って、鱅魚
をどっさり棺に入れて焼いた。鱅魚を焼くにおいは、人を焼くそれと似ているゆ
えである。この話により、この魚を、このしろと名付けたとか。
歌に、「あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん」
とある。この話は、『十訓抄』にあったように覚える。このしろは、子の代であ
り、子供の代わりという意味。ちなみに、この魚を上方では、つなじと呼ぶ。


●仏五左衛門

【おくのほそ道】
 三十日、日光山のふもとに泊まる。ここの主が、
「わが名、仏五左衛門と申します。なにごとも正直を旨といたしますゆえ、人
もこのように申しますもので。一夜の草枕、打ち解けてお休みなさいますよう」
 という。いかなる仏が、この濁世塵土に現れ出でて、このような桑門の乞食
巡礼ごときものをお助けくださるのかと、主のなすことに心をつけて見ている
と、ただ無知無分別にして馬鹿正直なるものであった。剛毅木訥は仁に近し、
というが、生まれついての清らかなこころ、もっとも尊ぶべきであろう。


【曾良旅日記】
一 四月一日、前夜より小雨降る。辰の上刻、宿を出る。やんでのち、時々小
雨となる。終日曇り。午の刻、日光に着。雨上がる。清水寺の書を養源院 へ届
ける。大楽院へ使いの僧をつけてくれた。折悪しく大楽院に別客あり。未の下
刻まで待って、お宮を拝見することができた。その夜は、日光上鉢石町の五左衛
門というものの方に泊まる。一五二四。


【奥細道菅菰抄】
・三十日、日光山のふもとに泊まる

日光山は、下野の国河内郡にある。祭神は、事代主の命。開山は、勝道上人で
ある。東都より北へ三十六里。

・濁世塵土に現れ出でて

 濁世は、『法華経』・『阿弥陀経』等にいう「五濁悪世」をさす。五濁とは、
業濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のこと。五塵は、眼・耳・鼻・口・心の塵
汚をいう。あるいは、色塵・声塵・香塵・味塵・触塵をいうとも。五濁五塵と
もに、娑婆世界の嫌悪すべきものすべてをさしている。

・このような桑門の

 桑門は、沙門の音便という。沙門は、僧の梵語である。

・剛毅朴訥は仁に近し

『論語』に、「剛毅木訥は仁に近し」とある。剛毅は気質のしっかりしたこと。
木は樸と通じ、つくろい飾らぬさまをいう。訥は言葉の不調法なことをいい、
いずれも律義者の形容である。

一行は室の八島を経由し、4月1日日光のふもとまでたどり着きました。芭蕉の
本文ではふもとの五左衛門宿に泊まったのは、3月晦日となっていますが、こ
れは物語構成上の潤色で、月がかわり気分も新たに、翌日4月1日に日光山拝観、
としたかったのでしょう。

序章の名文は、平家物語、方丈記の冒頭などと同様、原文で暗記されている方
も多いと思います。高校古文で必ず記憶させられるところですね。菅菰抄の解
説は非常に役に立ちます。
「仏五左衛門」は、おくのほそ道前半で、庵主の特にお気に入りのキャラクタ
ーです。熊の毛皮のちゃんちゃんこを着ていそうです。人物描写から、宿の土
間の間取りから、囲炉裏の具合、裏へと続く険しいけもの道のようすまで、生
々しく想像できますね。無愛想な主人と師匠を懸命に取りもつ、曾良の人のよ
さそうな困り顔も想い浮かびます。

さて、次回一行は尊い日光東照宮を拝観し、裏見の滝で禅僧たちの初夏を味わ
い、黒羽へと向かいます。

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【3】イベント情報             7/7(土)独立記念能「道成寺」
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きたる7/7(土)観世能楽堂にて、関根知孝二十五周年、関根祥人二十周年の
独立記念能(合同開催)を催しますので、ご案内いたします。


番組の主なものは、以下です。


能 「屋島」 大事 シテ関根祥人
能 「道成寺」 赤頭 中之段数躙 無躙之崩 シテ関根知孝

狂言 「伊文字」 山本則俊
舞囃子 「東方朔」 関根祥六 祥丸
舞囃子 「松浦佐用姫」 観世清和
仕舞 四番

平成十九年七月七日 土曜日
11:30開場 12:30開演
チケット A席\16,000 B席\13,000 C席\10,000(全席指定)

番組詳細はこちら↓
http://nobunsha.jp/img/dozyoji.jpg


関根知孝の「道成寺」は十数年来の再演となります。
満を持しての大曲挑戦ですので、気迫ある乱拍子が
みられることと思われます。
芸質が少し似ているともいわれているので、友枝昭世師のファンの方などには
おすすめです。
当日は、宗家観世清和以下、観世流直門の主だった能楽師は総出演で、
バックアップします。


お申し込みはチラシ記載の主催者、もしくは観世能楽堂まで。

それではどうぞ皆様お誘いあわせの上、ぜひお出かけくださいますよう
ご案内いたします。

……………《編集後記》………………………………………………………………

全開王子

 今日はさわやかな初夏の陽気。本当に気持ちのよい、開放的な一日でしたね。
あまりに気持ちがいいので、原宿のZARAビルの前あたりから、渋谷パルコまで
歩いていきました。ここでトイレに入って愕然。社会の窓がフルオープン!ひ
さびさにやっちまった。一体、どこから、どこまで…。ひさびさのお休みだっ
たので、気がゆるんだのかな。あるいは、もしや若年性××の兆候か。さて、
葉隠にこんな話があります。


同席の若い同僚があくびをした時、たしなめた。あくびは見苦しい。あくび・
くしゃみは、絶対しない、と思えば一生出ないもの。気が抜けるから出る。
(聞書二 五八)


「あくびは一生しない」はすさまじいです。もひとつ。


人目につかないところでたしなむことが、公の場でも顕れる。ひとりでいる暗
闇の中では、いやしい挙動をせず、人が覗き込めぬ心の中ではさもしいことを
考えないように心がけねば、公の場では清潔に見えない。にわかに取り繕って
も、垢が見えるものだ。(聞書二 三三)


人前でないところでは、人間本性があらわれるもの。以前ある人に「ひとりで
家で、ごはんを食べているときに、その人の本当の姿があらわれる」と聞き、
背筋が凍ったことも。

現代人が葉隠侍のように、365日24時間ぴりぴりはりつめていることは、とても
無理ですが、ひとりでいるときも、どんな場面でも悠然と構え、すがすがしく
ふるまいたいですね。はにかみ王子のように。

…そういえば、原宿駅前ですれちがった若い女性が「ハッ」とした顔してたな。
二人くらい。うちわネタですが、てっきりまた、「リリー」と間違われたか、
ヘン、と思っただけでしたが。


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2007年05月28日 10:51

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