言の葉庵 |能文社 |お問合せ

名文の「圧縮美」を解凍する。 【言の葉庵】No.20

言の葉庵メルマガ ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ 名言名句Howto便
┓┏ ┏┳┓
┣┫OW┃O         名文の「圧縮美」を解凍する。 2007.6.17
┛┗━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 例年になく遅い入梅です。世界には梅雨のない国も多いので、じめじめした
この季節を多いにエンジョイしたいと思います。①雨に濡れると花や緑はとて
も色鮮やかに美しくなる ②傘に落ちる雨粒のメロディーを楽しむ ③偶然を
よそおい相合傘のチャンスをゲットする…。
 さて、ひさびさの原典読解教室。おくのほそ道の超有名な冒頭文を読んでみ
ましょう。芭蕉の「圧縮癖」が日本文芸に与えた影響の大きさをひしひしと感
じることができるはず。芭蕉続き。今月のおくのほそ道メルマガ行脚は、日光
~黒羽~白川の関を経由し、ついに奥州の地へと踏み入ります。ホットニュー
スは、言の葉ライター(?)の新刊情報と今月の能の名舞台情報をお届けします。
いざいざ。


…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】原典読解教室         第五回 名文の「圧縮美」を解凍する
【2】おくのほそ道メルマガ行脚            第二回 白川の関
【3】新刊・イベント情報       「mixi徹底活用術」と能「自然居士」

…編集後記…
……………………………………………………………………………………………

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【1】原典読解教室         第五回 名文の「圧縮美」を解凍する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆原文
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の
口とらへて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死
せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、
海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮、春
立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心くるはせ、道祖神
のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付かへて、
三里に灸すうるより、松島の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別
墅に移るに、

  草の戸も住替る代ぞひなの家

 面八句を庵の柱に懸置。

岩波文庫『芭蕉 おくのほそ道』序章より


◆読解
 今回は、日本文芸史上屈指の名文と評される『おくのほそ道』序文を読み解き
ます。残念ながら当段落は、これまでのように、特定の語句、用法を知ることで、
すんなり意味が通る<読解裏技>はありません。あくまで正攻法<読解表技>のみに
て、丁寧に読み進めたいと思います。表技は以下の三つ。


読解表技>
① 時制をよむ。基本
② 出典を知る。中級
③ 構成を味わう。上級

まず、古文読解の基本中の基本、① 時制をよむ。そもそも、この物語はいつの
話なのか。過去どのような経緯があり、これからどのような展開があるのだろう
か…。これらが、作品理解の骨格となります。どのような詩的で、芸術的な文章
であろうと、時制を知らずには鑑賞はありえません。前提として、松尾芭蕉と『
おくのほそ道』の最低限の知識はもっている(芭蕉は俳聖。おくのほそ道は、北陸
・東北地方への紀行文、程度)読者を想定して進めましょう。

 まず、この序文の時制は、いつか。段落末に、

草の戸も住替る代ぞひなの家

 の発句があり、「面八句を庵の柱に懸置」とあります。ご存知のとおり、俳句
には必ず季語があります。ここでは「ひな」。つまりこの句が詠まれたのは三月
です。まず現在が、確定。ただし、「住る方は人に譲り、杉風が別墅に移る」と
ありますので、現在、引越しの最中のようです。

 次に、過去に何があったのでしょうか。段落中ほどに「去年の秋江上の破屋に
蜘の古巣をはらひ」とあります。江上は、「川のほとり」、深川芭蕉庵のこと。
「蜘の古巣をはらひ」とありますので、去年の秋に、長い不在ののち庵に戻った
ことがわかります。其の前に「海浜にさすらへ」とあり、この不在は、いずれか
の海岸方面を旅行していたということがわかります。(岩波文庫の注によれば、
前年『笈の小文』紀行にて、鳴海・伊良湖崎・和歌の浦・須磨・明石を巡遊した
こと)
 その後、「やや年も暮」とあることから、芭蕉庵にて年を越したことになりま
す。ここまでが過去の時制。

 次に未来。すなわちこの旅行の行く先です。

1.「やや年も暮」のあとの「春立る霞の空に、白川の関こえん」
 2.「住る方は人に譲り」の前の「松島の月先心にかかり」

 この二つの文により、目的地は白川と松島であることがわかりました。しかし、
どうもそれぞれ訪れる時期の間に微妙な齟齬がありますね。長い一文中にたち入
れられた言葉なので、まぎれてしまいそうですが、よく気をつけて見ると、「春
立る白川の関」、「松島の月」。つまり白川には春、松島には秋に訪れる予定だ
ったようです。白川の関から、松島までどう考えても半年はかかりません。計画
の途中で日程が変更になったのです。「やや年も暮」から「道祖神のまねきにあ
ひて取もの手につかず」までが、おそらく年末あたりの予定。「もも引の破をつ
づり」から「杉風が別墅に移るに」までが、出発直前おそらく二月ごろの予定で
しょう。時間の経過とともにどんどん変更されていく旅の予定を一文中に入れ込
んだため、起きたものと思われます。実際には、白川へ四月二十日(新暦六月七日
)頃、松島へ五月九日(新暦六月二十五日)に訪れています。いずれにしても、芭蕉
が旅の日程に無頓着だったわけではなく、自身の最大の紀行文の序に「春霞とと
もに奥州への関を立ち越え」「松島の絶景に名月を配する」二つの景を是非とも
描く必要があったためでしょう。

 序の時制を整理すると、「昨年海岸方面の旅行から、深川芭蕉庵に秋、ひさし
ぶりに帰着」、「芭蕉庵にて年越し。年末あたりから白川~奥州への『おくのほ
そ道』紀行を計画」、「正月頃より具体的な旅行計画を立案。松島へは秋頃訪問
予定。旅行準備のため三月に、芭蕉庵を引き払い、杉風の別宅に引っ越した」、
となります。


② 出典を知る

 俳句は世界最小にして、最奥の”短詩型文芸”。五七五、たった十七文字の中
に自然と人が織り成す無限のドラマを最高度に圧縮して表します。芭蕉が得意と
する俳文、紀行文にもこの”圧縮”の技法は常套的に用いられている。日本の歌
や句などの、短詩型文芸のもっともポピュラーな圧縮技法が「本歌取り」。漢詩
・和歌・連歌・謡曲など先行文芸から、古歌の一部分を引用することで、「本歌」
の歌風・背景・情緒・宗教感情・哲学概念までをも句の意味に付加し、最小の文
字数にして、無限の外延をもつ豊潤な意味世界を創造することを可能とします。

 おくのほそ道の江戸期の代表的注釈書『奥細道菅菰抄』に、本編を評して、

 比細道の一篇など、打見には安らかにして、七歳のわらべの耳にも入ながら、
其意の微妙に至ては、八十の老翁も是をよく得ること難し

 とあります。たしかに『おくのほそ道』の文章は非常に平易で、一見現代語訳
も注釈も必要ないかとも感じられます。人名、地名さえわかれば通読に何の障害
もないことでしょう。でも、出典と引用を知ることで、芭蕉がその語句の裏と行
間で本当は何を伝えようとしたのか、が二重写しに見えてくるのです。注は単な
る知識です。また、注釈者の色眼鏡で作品を見ることともなります。しかし、七
歳のわらべと八十歳の老翁のもっとも大きな違いは、知識と経験。何よりも人生
経験に基づく深い洞察力と智恵こそが、一を聞き十を知る先達の徳といえるので
はないでしょうか。
 以下、先達の智恵を借り「ほそ道」序文に一歩踏み込んでみたいと思います。

・月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
『古文真宝後集』「春夜桃李園に宴する」の序に「それ天地は万物の逆旅、光陰
は百代の過客」とあります。逆旅は宿、過客は旅人のこと。(奥細道菅菰抄)

・古人も多く旅に死せるあり
芭蕉の敬慕する古の詩人たちは、みな旅の途上で亡くなりました。西行は河内弘
川寺で、宗祇は箱根湯元で、李白は当塗で、杜甫は湖南省湘江の舟上でそれぞれ
亡くなっている。芭蕉その人もまた旅先、大坂の地で帰らぬ人となっています。
(岩波文庫版)

・海浜にさすらへ
前年元禄元年の『笈の小文』紀行のこと(前述)。

・江上の破屋
江上は、海・川のほとり。すみだ川を臨む深川芭蕉庵をさします。

・春立る霞の空に、白川の関こえん
芭蕉書簡によれば、三月中に白川に到着する予定であった。(岩波文庫注)
『拾遺集』、「春立つといふばかりにやみよし野の山もかすみてけさは見ゆらん
」忠岑(菅菰抄)

・そぞろ神
この後の「道祖神」と韻を踏むために創作した芭蕉の造語。白川の関で春霞を見
るためには日も迫っていたため、気がせきたてられ「そぞろ」となったことにち
なみます。

・道祖神のまねきにあひて
祖は門出の祭名であり、旅立ちの祭りです。黄帝の妹、累祖は、遠出を好み、つ
いに途上にて亡くなった。これにちなんで岐路の神として祀ります。日本におい
ては、猿田彦命が分かれ道の神。神代に天津彦火瓊瓊杵尊、下界に降臨の時、迎
え導いた神で、『日本書紀』にくわしくみられます。後世、仏教徒が青面金剛を
伝来し、これを庚申と称しました。道路に庚申の像を置き、巷の神とするのはこ
のためです。(菅菰抄)

・三里に灸
灸孔の名。膝頭のした、外側のくぼみをさす。ここに灸をすえると健脚になると
いう。(岩波文庫)

・松島
奥州の名所。『新勅撰』、「心あるあまのもしほ火焼すてて月にぞあかす松が浦
島」、祝部成茂。『新後撰』、「まつしまや雄島の磯による波の月の氷に千鳥鳴
也」、藤原俊成。(菅菰抄)

・杉風が別墅
杉風は江戸蕉門高弟、杉山市兵衛。富裕な幕府御用魚商であり、芭蕉の有力なパ
トロンでもあります。別墅は別宅。(言の葉庵)

・草の戸も住替る代ぞひなの家

《鑑賞》
古びたこの草庵も、住む人が変われば、代替わりするもの。愛らしい雛など飾る
若やいだ家にもなるのであろうか。(言の葉庵)

頃は二月末、上巳の節(桃の節句)に近いため、雛を売る商人が、芭蕉の空いた庵
を借り、売り物を入れて倉庫としたため、この句があるといいます。もちろん雛
の家箱には、あるものは二つの人形を一緒に入れ、またあるものは大小に箱を入
れ替え、と毎年収蔵時に定めのないものなので、「年々歳々花相似たり、歳々年
々人同じからず」の心にて人生の常ないさまを観想した句といえましょう。
(菅菰抄)

・表八句
百韻連句は四枚の懐紙に書きました。はじめの懐紙の表に記す八句をさします。
(岩波文庫)
実際には、この八句の存在は確認されていません。


③構成を味わう

 名文の条件は、論理の確かさや詞章の美しさよりも、むしろ”リズム”にある
と考えます。
 名文は、文の長短・漢字と仮名の比率・字切れ、区切れが目で見て美しい姿を
しているもの。そして、それを口に出して音読した場合、非常に美しく心地よい
リズムをもつものなのです。日本語のリズムの典型は、五七調。しかし実はこれ、
間に休符を補った四拍子体系であることは、以前言の葉庵メルマガでも解明しま
した。
 五七調は、和歌や俳句などの短詩型には非常に有効ですが、散文・長文には適
しません。あまり長く続くと単調に感じるからです。それでは長文のリズムとは、
一体何でしょう。文章全体の構成を考える場合、一般に「起承転結」というもの
がある。しかし、これはリズムではありません。日本人の構成全体を支配するリ
ズムは古来より「序破急」とよばれます。序破急の中の各単位で、リズムを担当
するパートが、ひとつは「五七調」であり、もうひとつが「対句・対比」です。
 漢詩文は韻を踏みます。これが中国の言語のリズム。日本語には中国音の「声」
がないため、厳密に韻は踏めません。その代用品として発明されたのが、「対句」
であり「対比」という手法。句と語をそれぞれ対応させて、「音」ではなく「意
味」で協調あるいは反発の息遣いを与え、ここにリズムを発生させました。長い
息→安定した継続的な息→急速調の息。これが「序破急」、すなわち文章のリズ
ムです。『おくのほそ道』を日本文芸史上屈指の名文にしているのは、この伝統
的な日本人の息遣い、ことばの神様のリズム体系である、と思います。序文の序
破急は以下の通り。

 「月日は百代の過客~旅を栖とす」→序
 「古人も多く旅に死せる~松島の月先心にかかりて」→破
 「住る方は人に譲り~庵の柱に懸置」→急

 この三つの息の単位、長さを意識して、音読してみてください。序はゆったり
と、破はきっちりと、急はたたみこむように。ただし、「草の戸も」の句の前後
には一呼吸いれます。

 「対句・対比」については、おくのほそ道序文すべてが、それで構成されてい
るといっても過言ではありません。『平家物語』『方丈記』『徒然草』などの古
典名作の序文も同様です。
 「月日は百代の過客→行かふ年も又旅人」などのように、対句・対比を意識し
て音読してみてください。意味と意味、音と音同士が、それぞれギュッと手を握
り、パッと手を離し、ダイナミックな緩急と調子が各文節に波のように立ち上が
り、本編へといやおうなく読み手を運び去る、リズムの効果を実感できるはずで
す。


◆訳文
 月日は百代の過客であり、行き交う年もまた旅人である。舟の上に生涯を浮か
べるもの、馬のくつわを取って老いを迎えるものは、日々これ旅にあり、旅を住
みかとしているのだ。古人も多く旅に死んだという。私もいつ頃よりであろう、
ちぎれ雲のように風にさそわれては、漂泊の思いやまず、海辺をさすらったもの
である。去年の秋、江上の破れ小屋に蜘蛛の古巣を払い、ようよう年も暮れる。
春立つ霞の空に、白川の関を越えてみたいもの、とそぞろ神にとりつかれ心乱さ
れ、道祖神にも招かれては取るものも手につかぬありさま。股引きの破れをつく
ろい、笠の緒すげかえ、三里に灸をすえなどしているが、松島の月、いかがであ
ろうかとまず心にかかる。それゆえ住まいは人に譲り、杉風の別宅に引っ越すに
あたって、

 草の戸も住替わる代ぞひなの家

 これを発句に、表八句を庵の柱へと掛け置いた。

『完読 おくのほそ道』序章より
http://nobunsha.jp/book/post_7.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【2】おくのほそ道メルマガ行脚            第二回 白川の関
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第二回 白川の関

四月一日、みずみずしい青葉、まぶしい陽光に迎えられ、芭蕉一行は日光山を
参詣します。道に迷った那須黒羽の野で、たまたま愛らしい姫二人と邂逅。芭
蕉の乗る馬のあとを無邪気に慕う小さな姫の名は、「かさね」。八重なでしこ
にもらった名であろう、と曾良が句を即興に詠みました。殺生石・遊行柳の旧
跡を経、当初の目的地「白川の関」へ。古人の歌に思いをはせ、古い俳友と旧
交を温めながら旅を続けます。しかし、しのぶの里、飯坂(飯塚)の宿では旅の
感興をそぐ小さな「とげ」に悩まされる。芭蕉はめげずに気力をふるいおこし、
力強い足取りで、ついに奥羽への入り口、伊達の大木戸を踏み越えるのです。

●日光

【おくのほそ道】
 卯月一日、お山に参詣した。その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空
海大師開基の時、日光と改められた 。千年の未来を悟られたものか、今この御
光は一天に輝き、恩沢八荒にあふれ、四民安堵にして住みか穏やかである。これ
よりは多言憚りあって、筆を置くとしよう。


 あらたうと青葉若葉の日の光


鑑賞(青葉、若葉にこぼれる日の光。み仏の恵みが聖山にあまねくあふれ行き渡
り、自ずと手を合わせられるありがたさ、尊さである)


 黒髪山には霞がかかり、雪がいまだ白く見える。

 剃捨てて黒髪山に衣更え 曾良


鑑賞(髪を剃り出家の体で旅立ったものだが、この黒髪山にて奇しくも四月の衣
替えとなった。装いも新たに長旅への誓いもいっそう強められるようだ)


 曾良は、氏は河合、名を惣五郎という。芭蕉の葉の下に軒を並べ、私の薪をと
り、水を汲む労を助けてくれる。このたび松島・象潟の眺めをともにすることを
悦び、かつ羈旅の難をいたわろうとするもの。旅立ちの暁に髪を剃り、墨染め衣
に姿を変え、惣五改め宗悟とする。これにより、黒髪山の句がなった。「衣更」
のふた文字、力がこもって聞こえる。

 二十余丁山を登って滝あり。岩洞のいただきより飛流すること百尺。千岩の碧
潭にどうと落ちる。岩窟に身をひそめて入り、滝の裏よりみるゆえ、これを「う
らみ」の滝と申し伝えるとか。


 暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初


鑑賞(初夏、清冽な滝の裏ふところに観じ入れば、その轟音と涼気でもって世俗
妄念を吹き払い、しばし夏安居の修行僧となったようだ)

【曾良旅日記】
一 同二日、天気快晴。辰の中刻、宿を出る。裏見の滝(一里ほど西北に位置す
る)、含満が淵をめぐり、ようやく昼となる。鉢石を発ち、那須、太田原へ向か
う。通常は今市へ戻って大渡というところから行くのだが、五左衛門が近道を教
えてくれた。日光から二十丁ほど下り、左へ曲がる。川を越え、瀬の尾、川室
という村へかかり、大渡という馬次に着いた。三里にやや届かないほどの距離。


【奥細道菅菰抄】
その昔、このお山を二荒山と書いていたが、空海大師開基の時、日光と改められた

空海は、弘法大師のこと。『元享釈書』に、
「釈の空海は、俗姓佐伯氏、讃州多度郡の人。父は田公、母は阿刀氏。母は、
梵僧が懐に入る夢を見た。そうして身ごもり、胎内にあること十二ヶ月、宝亀
五年に生まれ出る。母はその夢のお告げにちなんで、幼名を貴物と名付けた。
成人後、沙門勒操につき、法を受け、落髪。最初の名は教海。後に自ら改め、
如空と称した。延暦十四年、東大寺の壇に昇り、具足戒を受け、さらに空海と
改めた。二十三年、遣唐使に従って入唐。元和元年秋八月に帰る。大同太上皇、
空海を壇に入れて灌頂。帝者の密灌が、これより始まる。弘仁七年、紀州の相
勝の地に遊説し、高野山に上り、金剛寺を創建。承和二年三月二十一日、空海
はこの地で、結跏趺坐し入定する。延喜二十五年冬十月、弘法大師の謚を賜っ
た(大師・国師の号は、みな帝王の師たる称号である。よってほとんど死後の謚
として賜るのだ)」
とある。
空海を日光山の開基とし、さらに山名を改めたということは、日光山の記および、
他の書にもいまだ見えない。

恩沢八荒にあふれ

恩沢は俗に、「おかげ」ということで、慈恩のうるおいをいう。八荒の文字は、
『山海経』・『神異経』・『准南子』等にあり、荒は遠方をさす。八荒は四方
四隅の(俗に八方という)遠い場所である。

四民安堵にして住みか穏やかである

四民は、「士農工商」をいう。『前漢書 食貨志』に見える。安堵は、通常
「案堵」と書き、歴史書中に散在している。安居と同じ。落ち着いて居ること。

黒髪山には霞がかかり

黒髪山は、上野国の名所で、上野・下野の境となる。
『続古今集』、「むば玉のくろかみ山を朝こえて木の下露にぬれにける哉(か
な)」、人丸。
『方角抄』、「旅びとの真(ま)菅(すが)の笠やくちぬらむ黒髪やまのさみだれ
の比(ころ)」。

薪をとり、水を汲む労を助け

『晋書』陶淵明の伝記にいう。「陶潜が彭沢の令となった。一人の力を息子に
送っていう。このものを従え、自ら雑用をするな。この力を遺(のこ)し、汝の
薪水の労を助く」と。
力とは、下僕のこと。薪水とは、朝夕の炊事のことである。また、釈尊が、檀
特山にて、阿羅羅仙人に師事した時、採果汲水の業をなしたことなどとの取り
合わせであろう。

かつ羈旅の難をいたわろうと

羈は、本字は「覉」であり、よる、と訓じる。羈は仮音である。覉旅は、旅に
居ることをいう。『左伝』に見える。

岩洞のいただきより飛流する

洞は、「峒」と通じる。岩峒は、岩屋のことである。

碧潭にどうと落ちる

碧は、みどりと和訓する。瑠璃色をいう。潭は、淵である。水の深いところは、
瑠璃色に見えるため、このように名付ける。

岩窟に身をひそめて

岩窟も岩屋をさす。


 暫時は滝に籠るや夏の初
 夏(げ)は、もと結夏(ゆげ)といい、略して夏とした。僧が家にこもって修行
する時の名である。
『五雑組』にいう。「四月十五日、国中の僧と尼が禅刹に行き塔に滞留する。こ
れを結夏、または結制(ゆせい)という。また、安居(あんご)と名付けた」と。
『釈氏要覧』にいう。「心身が静謐なことを安、と申す。一定時期住むことを居、
という」と。安居は、寂然(じゃくねん)として過ごすことをいう。
○友人の僧、懶庵の説である。
「天竺の一年は、春夏冬の三季のみにて、秋がない。ゆえに一季は中国の四个月
に相当する。中国の当月十五日より、翌月十四日までを一月として、上旬の十五
日間を黒月と呼ぶ。下旬の十五日を白月とする。中夏に、上弦下弦とするような
ものである。一夏九十日とは、夏一季の内、結制する日をいう。九十日が一季の
すべてではない」。


●那須

【おくのほそ道】
 那須の黒羽というところに 知人がある。これより野を横切って、近道を行こ
うとした。遥かに一村落を見、たどり着くと雨が降り日も暮れる。農夫の家に一
夜の宿をかり、明ければまた野中を行く。放し飼いの馬あり。草刈男に嘆きよれ
ば、野夫とはいうものの さすが情けを知らぬものではない。
「さて、どうしたものか。馬をお貸ししたとて、この野は縦横無尽の分かれ道。
不案内な旅人では道に迷うかもしれない。迷いそうになったら、この馬に任せば
自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」
 と貸してくれた。幼いもの二人、馬のあとをしたい、駆けてくる。一人は小さ
な姫で、名を「かさね」という。聞きなれぬ名が優美に思え、


 かさねとは八重撫子の名成べし 曾良


鑑賞(人里はなれた野にも可憐な花が咲くもの。小さな姫の名はかさね。花びら
を重ねる、八重撫子に名をもらったのであろうよ)


 やがて人里に出たので、駄賃を鞍つぼに結びつけ馬を返した。


【奥細道菅菰抄】
那須の黒羽というところに

黒羽根は、那須七騎の内、大関家の領地で、館がある。

これより野を横切って

この野は、那須野をさす。名所である。『夫木抄』、「道多きなすの御狩の矢
さけびにのがれぬ鹿のこえぞ聞こゆる」、真実。

野夫とはいうものの

野は、いやし、と訓じる。野夫は、礼儀をわきまえない軽輩の称であり、今民
間に「やぼ」というのも、ここから出た。

この野は縦横無尽の分かれ道

那須野の道が多いこと。前の古歌にも見える。

「この馬に任せば自然と進み、止まる。それより馬をお返しください」と貸して
くれた

馬は道を知るものである。韓非子にいう。「斉の桓公が狐狩りに出かけた。春に
出発。冬帰還。道に迷い方向を失う。管仲が、老馬の知恵を借りましょう、とい
う。そこで老馬を放って、これについていったところ、ついに進むべき道がわか
った」と。

名を「かさね」という

調べてみると、世間で、祐天上人が教化した、鬼怒川の与右衛門の妻、かさねと
いうものは、もしかすると、この小姫が成長したものではあるまいか。おおむね
時代も一致するし、鬼怒川もこのあたりに近い。

●白川の関

【おくのほそ道】
 こころもとなく日数を重ねるままに、白川の関 にかかり旅心が定まった。古
人が「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である。中でもこの関は、奥羽三
関の一で、風騒の人は心ひかれるところ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、
青葉の梢なおあわれである。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそえて、雪の中を
こえるような心地がする。古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔
の筆にもとどめ置かれたと聞く。


 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良


鑑賞(古人が正装して越えた関という。われら風狂の旅人であれば、今を盛りに
咲き誇る卯の花をかんざしに差し、これを晴着にこの関越えるがふさわしかろう)


【曾良旅日記】
○白河の古関跡は、簱の宿の下へ一里ほど下野にある。追分というところに関の
明神があるという。相楽乍憚より聞く。以下、丸印の文は乍憚よりの聞書き。
○忘れず山は、今は新地山という。但馬村というところより半道ほど東に行く。
阿武隈河の側。
○二方の山は、今は二子塚村という。右、忘れず山より阿武隈河を渡って行く。
二ヶ所とも関山より白河方面にあり、旧道となる。二方の山を詠んだ古歌がある。

 みちのくの阿武隈河のわたり江に
人(妹とも)忘れずの山は有りけり

○うたたねの森は、白河からも近く、鹿島神社からも近い。今は木が一、二本
残るのみ。

 かしま成うたたねの森橋たえて
いなをふせどりも通はざりけり
(八雲御抄にあるという)

○宗祇(そうぎ)戻し橋は、白河の町より右手(石山からの入口である)、鹿島へ行
く道のえた町にある。その片側に、なるほどそれらしき橋があった。むかし、結
城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行
を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗
祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗
祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
 と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
 と答えて消えた。

月日の下に独りこそすめ

 付句
 かきおくる文のをくには名をとめて

 と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。


【奥細道菅菰抄】
白川の関にかかり

この関は、奥州の入口、宮城郡の名所で古歌も多い。
○調べてみると、白河の手前、白坂という駅の南に、下野と陸奥との境がある。
境の明神といって、ここに二社が立ち並ぶ。南を下野、北を陸奥の社であると
いう。ここが、あるいは昔の関跡ではなかろうか。今、白河といっているのは
榊原家の城下にある宿駅のことである。

「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である

『拾遺集』、「便りあらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」、
平兼盛。

三関の一で

旧説によると、逢坂・鈴鹿・不破を三関という。白川の関を三関の一とするこ
と、いまだ聞かず。

風騒の人

本字は「風繰」と書き、風雅に遊ぶことをいう。あるいは、通称にて、風藻、
風操とも書いている。

秋風を耳に残し

『後拾遺集』、「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」、能因
法師。
清輔の『袋草子』にいう。
「能因、実際奥州に下向してはいなかった。この歌を詠むために、ひそかに篭
居(ろうきょ)。それで人々に能因は奥州にいった、と風聞をたてさせたとか。
二度下向しているともいう。一度くらいは行ったのであろうか。八十島記を書
いた」と。
『古今著聞集』にいう。
「能因は際立った数寄者で、この歌を都に居ながらにして出したのでは能がな
い、と考えた。人に知られず久しく籠って、自宅で日に当たり日焼けした後、
陸奥の方へ修行に出かけた途路に詠んだもの、と披露した」。

紅葉を俤にして

『千載集』、「もみぢ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白川の関」、
左大弁親宗。

青葉の梢なおあわれである

「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」、頼政。
ただし、本文のあわれは、「頼政の身のなれはてはあわれなりけり」、と詠ん
だあわれのごとく、天晴れという意味である。

卯の花の白妙に

『千載集』、「見て過ぐる人しなければうの花の咲(さく)る垣根やしら河の関
」、藤原季通朝臣。

茨の花の咲きそえて

読み解くと、この句前後の言葉はすべて、古歌故事を折りはさんだ、ひたすら
優美のみで、いわば歌人の文に似ているが、この一句をはさむことにより、す
べてが俳文となったのだ。文章を学ぼうとする人、これを亀鑑(きかん)とすべ
きであろう。

雪の中をこえるような心地がする

『千載集』、「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」、僧都印
性。

古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと
聞く

清輔の『袋草子』にいう。
「竹田の大夫国行という者、陸奥下向の時、白川の関を越える日は、ことさら装
束を飾りつくろい、向かったと伝える。ある人が、その理由を聞いたところ、答
えて、古曾部の入道が、『秋風ぞふく白川の関』と詠まれたところを、なぜ普段
着などで通れようか、といった。殊勝なことである」。(古曾部の入道は能因のこ
と。伝来は以下にある)

●しのぶの里

【おくのほそ道】
 明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く。遥か山陰の小村に石が
なかば埋もれて出ている。里の童が来て教える、
「昔はこの山の上にありました。往来の人が、畑の麦の葉を荒らしては、この石
で摺って試すので、これを憎みこの谷に突き落としたのです。それで石の表面が
下となってこのように埋まってしまいました」。
 そういうこともあるのだろうか。


 早苗とる手もとや昔しのぶ摺


鑑賞(早苗をとる早乙女たちの手もとをみれば、昔この石で文字摺りをしたゆか
しい習慣がしのばれるのではあるが)


【曾良旅日記】
 二日。快晴。福島を出る。町外れを十町ほど行くと、五十辺村の外れに川があ
る。この川は越えず右手へ七、八丁行って阿武隈川を船で渡る。岡部の渡しとい
う。ここから十七、八丁山の方へ行くと谷間に文字摺りの石があった。古い柵が
ある。草葺観音堂あり。杉、檜六、七本。虎の清水という小さく浅い泉がある。
福島の東方。このあたりを山口村という。ここから瀬上へ行くには、岡部の渡し
下流の月の輪の渡しより越えることになる。ここを渡れば十四、五丁で瀬上に着
く。山口村から瀬上までは二里ほどである。


【奥細道菅菰抄】
福島に泊まる…
しのぶの里…
明けて、しのぶ文字摺りの石を尋ね、忍ぶの里に行く

福島は、往来の駅で板倉家の館下である。絹を産する。世に福島絹と呼ぶ。
ここから、しのぶの里にいたるまで、すべて信夫郡となる。
文字摺りは、『古今集』、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおも
ふ我ならなくに」、河原左大臣。
『後拾遺集』、「君にかくおもひみだるとしらせばやこころの奥のしのぶもぢず
り」、後法性寺関白。などという、証歌が残り、名物である。(今、福島よりも
ぢずりという染め絹を産出する。模様は石目、または紅縞でしのぶ草の葉で染め
る)
『童蒙抄』にいう。「もぢずりとは、陸奥信夫郡で摺りだす、摺染めの名。摺り
重ね、乱れ紋様を打ち出す」。
栄雅の説によると、信夫郡に大石が二つあったという。石の表面は平らで、捩れ
た紋様がある。これに押し当て藍で染め出した布を、むかし年貢に奉った。天智
天皇の御代のことである。
『八雲御抄』では、忍ぶ草を紋様にした摺り染めであるという。

●飯塚

【おくのほそ道】
 その夜は飯塚泊。温泉があるので湯に入り宿を借りると、土間に莚を敷いた卑
しい貧家であった。灯火もなければ、囲炉裏の火陰に寝床をもうけて伏す。夜に
入って、雷鳴雨しきりに降る。伏せる上から雨漏りはする、蚤、蚊に責められて
は眠れず。持病さえ起こってしまい、気も失せるばかりとなった。
短夜の空、ようよう明ければ、また旅立つ。なお夜の苦痛が尾を引き、心進まず。
馬を借り桑折の駅に出た。遥かな行く末をかかえて、このような病ではおぼつか
なしとはいえど、覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念。道端に死のうと、これ天命
なりと気力いささか取り直し、道縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。


【曾良旅日記】
一 瀬上より佐場野に行く。佐藤庄司の寺がある。寺門からは入れぬ。西へ回る
。堂がある。堂の後方には庄司夫婦の石塔。堂の北はずれに兄弟の石塔。そのか
たわらに竹が生えている。兄弟の旗棹を差したので、はた出しと呼ばれている。
毎年、二本ずつ同じように生えてくるという。寺には判官殿の笈、弁慶の書いた
経典などがある由。系図も残るという。福島より二里。桑折よりも二里。瀬上よ
り一里半。川を越え、十町ほど東に飯坂 というところがある。湯が出る。村の
上には庄司の館跡。下りは、福島より、佐波野・飯坂・桑折と行くべし。上りは、
桑折・飯坂・佐場野・福島と出たという。昼より雲って夕方より雨となる。夜に
入り、強くなる。飯坂に泊まり、湯に入る。

一 三日。雨降り。巳の上刻に止む。飯坂を発つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。時
折小雨。
 一 桑折と貝田の間に伊達の大木戸は位置する(国見峠という山あり)。越河と
貝田との間に福島領(今、桑折より北は代官の地)との国境がある。左手に重ねた
岩あり。大仏石というそうである。斎川より十町ほど手前に馬牛沼・万牛山あり。
その下の道に鐙毀(あぶみこわし)という岩あり。二町ほど下って右手に継信・忠
信の妻の御影堂 がある。同夜、白石宿。一二三五。


【奥細道菅菰抄】
馬を借り桑折の駅に出た

 桑折は往還の宿。名所にあらず。

覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念

覉旅および行脚は、前掲。辺土は、片田舎の土地である。捨身は、道のため身
命を顧みぬことをいう。無常は、定めのないことをさし、いずれも儒仏家の用
いる語。観は、心眼で見ること、念は心に絶えず思い続けることである。

伊達の大木戸を越す

伊達郡の入口。要塞の地、領主の封関(ほうかん)をもうける。

次回、七月に芭蕉一行は、壺の碑に千年の歴史をまざまざと見、旅の前半の
お目当て「松島」に到着予定。奥州藤原三代の栄華の夢を平泉でたどりつつ、
「閑かさや岩にしみいる」の句を得た、立石寺から、羽黒山で魂の巡礼へと
向かいます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【3】新刊・イベント情報       「mixi徹底活用術」と能「自然居士」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


●新刊情報

『使える!mixi徹底活用術』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569667856/ref=pe_pe_2102_5027592_pe_snp_856
山崎 修 著 ¥ 500(税込)
出版社: PHP研究所 (2007/06)

 読者のみなさんは、mixiを活用されているのでしょうか。はまると抜けられ
ない、と世間ではいいますね。ぼくもIDばかり3つももっているのだけれども、
まったく使っていません。実はmixi、IDを複数もつのは×だそうな…。
以前、言の葉メルマガ「エディターの箪笥貯金」に執筆いただいた、山崎修の
新作『使える!mixi徹底活用術』が6月PHPより発売となりました。AMAZONで立
ち読みもできます。文庫で価格も手ごろ、内容はぐぐっと充実しています。ぜ
ひ買ってくださいね。


・出版社/著者からの内容紹介
「mixi(ミクシィ)」----会員数が一千万人を突破した日本最大
のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。なぜmixiだけが、
飛躍的に会員数が増えるのだろうか? その理由は、人と人とが簡単につながれ
る「日記・コミュニティー機能」と信頼のおける「招待制」にある。
本書では、mixiって何? という人から、最大の魅力「日記・コミュニティー
機能」をまだ充分に使いこなせていない人まで、すぐに使えるワザの数々を実際
の画面を使って解説。
「親しい人の誕生日は必ずチェック」「どの日記も最後は自分のレスで締めくく
る」「名刺にmixiのニックネームを印刷する」「不審な人へはアクセスブロック
を使う」など、初心者から上級者まで納得の情報満載。
「システムがよくわからない」「トラブルが怖い」と会員になることを躊躇して
いる人も必見である。この一冊でmixiがもっと楽しく、便利になる!
文庫書き下ろし。

(AMAZON商品ページより)


●イベント情報

第6回青葉乃会
能「自然居士」
http://aobanokai.exblog.jp/i21

平成19年6月30日 午後4時初め  於・銕仙会能楽研修所(表参道)

第一部 

仕舞 隅田川 観世銕之丞
花筐クセ 観世榮夫(代役?)

能 自然居士
シテ 柴田 稔  子方 柴田理沙  間狂言 茂山千之丞
ワキ 工藤和哉  ワキツレ 則久英志    
笛 藤田次郎  小鼓 大倉源次郎  大鼓 原岡一之
後見  観世銕之丞  岡田麗史
地謡  山本順之 浅井文義 西村高夫 小早川修 泉雅一郎 安藤貴康

観阿弥の作品・「自然居士」、その白昼劇の特性を生かすため、今回銕仙会
の舞台で外光を取りいれて上演する試みを行います。 
「自然居士」は禅寺の喝食(かっしき)で、半俗半僧の稚児が、さまざまな
芸を見せて人商人から少女を救い出すという唱導劇です。
※喝食・・・禅寺で食事の世話をする少年


第二部 

座談会 テーマ 「稚児の世界と能面」
児姿は幽玄の本風なり(二曲三体人形図より)
出席者  松岡心平(東京大学教授)
石塚しげみ(能面作家)
柴田 稔(能役者)

チケット/一般4千円、学生2千円  全席自由席  200席限定
申し込み/青山・銕仙会
電話 03‐3401‐2285 (平日10時~17時)
銕仙会ホームページ http://www.jade.dti.ne.jp/~tessen/

※チケット残部僅少!急げや急げ(言)

●書店情報

言の葉ブック、神田神保町の書泉グランデ様にて
新規取り扱い開始となりました。
取扱書店リスト↓
http://nobunsha.jp/img/shotenlist0609.pdf

『葉隠』『南方録』『山上宗二記』をお求めいただけます。

◆書泉グランデ
http://www.shosen.co.jp/
〒101-0051
東京都千代田区神田神保町1-3-2
TEL 03-3295-0011  FAX. 03-3295-0019
2F「武士道書」「茶道書」コーナーにあります。
近くにお越しの折には、ぜひお立ち寄りください。


……………《編集後記》………………………………………………………………

6月8日朝、観世流能楽師 観世榮夫師が逝去されました。享年79。合掌。
これで能楽界から、最後のひとりだった「能役者」がいなくなってしまいまし
た。能狂言というがんじがらめの古い世界。その枠を軽々と飛び越え、自由に、
しかし命がけでひとつひとつの舞台をつとめてこられました。初対面の人は眼
光の鋭さに「おっかない」という印象をもつらしいけれど、実は繊細で本当に
心のきれいなやさしい人だったといいます。偉大な兄弟二人の陰にかくれ、能
の世界内外からもとかくいろいろいわれてきました。いうやつにはいわしとけ
ばいい、でも俺の舞台をみてから何でもいってくれ、とばかり、本当に気迫の
こもった、他の役者には追従できない世界でただひとつ、素晴らしい舞台をみ
せてくれました。ここに、心からご冥福をお祈りします。(言)

愛弟子、柴田稔師のブログに追悼と密葬の記事があります。
http://aobanokai.exblog.jp/


……………………………………………………………………………………………


……………………………………………………………………………………………
  
【言の葉庵】へのご意見、ご感想、お便り、ご質問など、ご自由に!
 皆さんの声をお待ちしています。Good!の投稿は次号にてご紹介いたします。
 http://nobunsha.jp/nobunsha.html
 
……………………………………………………………………………………………

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  ◆【言の葉庵】メルマガをお送りしたみなさまへ◆
 このメルマガがご不要の場合は、大変お手数ですが、下の▽登録▽配信
 停止のページより、配信停止のお手続きをお取りいただけますようお願い
 いたします。「お名前」の欄にはみなさまの個人名の姓(例:田中、鈴木…)
 「メールアドレス」の欄には、このメルマガが届いたメールアドレスを入
 力してください。ご自身で登録された方は、登録されたお名前とメールア
 ドレスにてお手続き願います。
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


●お問い合わせ先
┣▽登録▽配信停止
 http://nobunsha.jp/anshu.html#melma

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 編 集 言の葉庵
■ 発 行 能文社 http://nobunsha.jp/
■ 編集長 水野 聡 mizuno@nobunsha.jp 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(C)2005 Nobunsha

2007年06月21日 10:03

>>トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://nobunsha.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/75

 

Copyright(c)2005.NOBUNSHA.All Rights Reseved

Support by 茅ヶ崎プランニングオフィス