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心の師とはなれ、心を師とせざれ 【言の葉庵】No.21

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┣┫OW┃O        心の師とはなれ、心を師とせざれ 2007.8.30
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 現代の日本には、「師」というものがいなくなってしまったのでしょうか。
「親」もまた、いなくなってしまった。そもそも、全人的にすぐれ、全智全
能、神のごとき「親」や「師」を求めること自体無理な話。われわれの方で
「親」や「師」を仰ぐ心がなくなってしまったせいかもしれません。いつの
時代であれ、どこの国であれ、職場にも家庭にも、自分が求めさえすれば、
そこに必ず「師」も「親」も「友」もいる。それを見つける鍵は、他人を敬
う心と己を律する心にあるのでしょうか。
 さて今月の「おくのほそ道行脚」は、芭蕉念願の松島に到着。翁の筆に三
百年前の絶景がありありと蘇ります。新刊言の葉ブック、今回は「日本庭園」。
禅寺の庭や茶庭は、こんなに合理的、科学的に設計されていたのですね。言
の葉新講座、10月期より全国5講座同時開催です。ご興味ございましたら、
ぜひお近くの教室まで。


…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】名言・名句第十三回        心の師とはなれ、心を師とせざれ
【2】おくのほそ道メルマガ行脚           第三回 松島 象潟
【3】言の葉ブック新刊             『図解 庭造法』発刊!
【4】10月期新講座         中日文化『南方録を読む』スタート!
…編集後記…
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【1】名言・名句第十三回        心の師とはなれ、心を師とせざれ
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No.25 心の師とはなれ、心を師とせざれ。

No.26 和漢のさかいをまぎらかす。
~村田珠光 『珠光茶道秘伝書』

No.25 心の師とはなれ、心を師とせざれ。

[解説]
 茶の湯の開祖といわれる、村田珠光のことば。門弟古市播磨に相伝された
『珠光茶道秘伝書』中の一句です。究めれば、究めるほど己の心に縛られず、
躍らされず、厳しく己を律せねばならない…。この教えは、わび茶の根本
精神として、弟子の紹鴎、利休へと受け継がれていきます。

 「われに師というものはない」と言い切る、剣聖宮本武蔵。『五輪書』は
自己管理、自己客観視という点からみても、今日的に大変示唆に富む書です。
歴史上の偉人たちは、みな己を律する金言をもっています。武蔵のそれは、

 人は追い回し、従えるもの (五輪書)

 です。裏を返せば、自分の心に振り回されるな、それは他人にも振り回さ
れることとなる、という警告。『葉隠』の智将、鍋島直茂は、自己管理のヒ
ントを下のように言い表します。

 わが気に入らぬことが、わがためになることなり (葉隠)

 芸術や文芸の分野では、自己抑制は技芸の上達と切り離せないもの。自己
を客観視できないことを、よく「自分の芸に酔う」などといいますよね。
 俳聖とまでよばれた松尾芭蕉ですら、己を抑制し練磨し続けることの難し
さを痛感していました。

 一句のぬしとは成がたし (風之『俳諧耳底記』)

 新しい句風を切り拓き、その分野での第一人者と認められることは、まず
「成がたい」。さらに、その分野では誰それ、といわれるような確固とした
実績を築き、維持していくことは並大抵ではない。もうひとついえば、評価
と実績が大きければ大きいほど、その後のプレッシャーも大きくなり、やが
て大きな看板の重みに耐え切れず、安易に自分で自分の模倣をしてしまうこ
とにもなってしまう。
 単に新領域を開拓する困難だけではなく、達成→維持→相克までのプロセ
スを見越し、その「主」となることの難しさを克己の視点からとらえたこと
ばといえます。

 世阿弥は、「上手は下手の手本、下手は上手の手本」といい、教える者、
教わる者それぞれの立場から、慢心を戒めました。「これでよい」と安住す
る心、「こうあらねばならぬ」とあせる心、そのどちらの心も「師」として
はならない。盲従、依存しやすい己の心を一段上から厳しく律する「師」と
はなれ、としているのです。

No.26 和漢のさかいをまぎらかす。

[解説]
 上と同様、『珠光茶道秘伝書』中にあることば。異文化を咀嚼・吸収し、
独自性を獲得、展開していった、日本文化のあり方を象徴するものです。
前後の文は以下。

 此の道の一大事は、和漢のさかいをまぎらかす事、肝要々々。ようじん
あるべき事也。

 前代、東山文化の書院台子の茶では、高麗茶碗、唐茶入など、いわゆる唐
物・渡り物のみが、名物とされ珍重されてきました。「和漢のさかい」の
「漢」とは中国、つまり唐物の茶道具をさしたことば。「和」は日本の道具。
備前・信楽など国焼の茶器をさします。豪華で洗練された大陸の美に対し、
素朴で侘びた、日本の閑寂の美に着目したことが、珠光の功績のひとつ。そ
して、もうひとつ。最大の功績は、これら異質の美を組み合わせることで、
茶の湯にまったく新しい境地を切り拓き、「バランスの美」を創造したこと
です。

 それは、珠光を茶の湯の師匠として、風流将軍足利義政に推薦した同朋衆
能阿弥の手柄ともいえます。絵画・連歌をよくし、唐物奉行として将軍近辺
の「美の顧問」を任じた能阿弥の類まれなバランス感覚が、珠光に影響を与
えたのかもしれません。こうして儀礼的な遊びごとであった書院の茶は、
「侘び」を骨法とする日本の精神文化として開眼し深化するのです。異質な
ものの「取り合わせ」による、新しい美の創出は、珠光の

 わら屋に名馬つなぎたるがよし (山上宗二記)

 にもうかがえます。直系の弟子、利休にも「取り合わせ」「組み合わせ」
を示唆することばが多い。

 数寄に出だす道具は、栗に芥子をまぜたるように組み合はするが巧者なり
 (茶話指月集)

 大きく黒い栗の実と、けしつぶのように小さく黄色い芥子の種を取り合わ
せることによる、バランスの美を「巧者の仕事」とみています。また、和漢
のさかい、異質なものの融合にこそ、本当の価値が生じることを、能楽の世
阿弥は陰陽思想をひいて、以下のように指摘していました。

 一切のものは陰陽和するところのさかいに成就する (風姿花伝)

 プラスとプラス、マイナスとマイナスは、それぞれ反発しあう。プラスと
マイナスが出会ってはじめて意味が生成される。
 ハイブリッド思想による新価値創出は、舞台芸能、茶道具、物理現象だけ
ではなく、「ことば」においても大きな作用があることを、松尾芭蕉は自身
の俳諧理論で指摘しました。

 発句はとり合物也。二つとり合て、よくとりはやすを上手と云也 (許六
 『篇突』)

 「とりはやす」は、「取り生やす」または、「取り囃す」の意味が想像さ
れます。単に「取り合わせる」だけでなく、おそらく同列に並べては成立し
得ないと思わせるほど、隔たりの大きい異質なもの同士を、名人の手際で結
合することで、思いもよらぬ面白さ、美しさが立ち現れてくることを狙った
もの。
 異質を「まぎらせ」、おだやかな自然の美を導いた珠光の手法を、さらに
「作意」「創意」へと積極的に推し進めたのです。

 ただし茶の湯は、能や俳諧のような芸道ではありません。人の目を驚かす
こと、第一義ではない。聖徳太子の「和を以て貴しと為し、さかうこと無き
を旨とせよ」、またはのちの利休の「和敬清寂」が根本。人と人、人と物と
の静かな交わりをめざしたものなのです。技巧を楽しむものではなく、技巧
をむしろ隠すもの。珠光は、さかいをまぎらかす事を、「此の道の一大事」
「肝要々々」「ようじんあるべき事」と最大限推し進めようとしたのです。
目覚めたばかりの精神が、前代の遊びごとの茶や、闘茶などへと決して後戻
りせぬように。

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【2】おくのほそ道メルマガ行脚           第三回 松島 象潟
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第三回 松島 象潟

五月九日(新暦六月二十五日)、芭蕉一行は今回の旅の目的地のひとつである、
松島に到着。感極まった芭蕉は、ここでは句をよんでいない。代わりに、松
島賛美の文を堂々たる漢文調「賦の体」で記します。
平泉では奥州藤原三代のいにしえに涙し、「夏草やつわものどもが」の句を
得、盗賊の出る山刀伐峠を命からがらに越して、当初予定になかった山寺(立
石寺)へ五月二十七日(新暦七月十三日)巡行。巍巍たる禅刹の威容に「閑かさ
や岩にしみいる」の名句を得ます。
 かくて奥州の真中を横断し、行者姿となって羽黒山、出羽三山に登頂、祈念。
修験道最高の霊場にて生まれ変わり、新たな生を授かる。
一行は日本海側酒田にはじめて出、最上川の激流に翻弄されて下り、ついに
象潟へ棹を差します。日本第一とされたこの名勝は、江戸文化年間の大地震
で永遠に失われてしまいました。その面影を、ここでも芭蕉屈指の名文によ
り、彷彿とできる喜びをかみしめたいと思います。

●松島

【おくのほそ道】
松島

 そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、
およそ洞庭、西湖 に恥じぬ。東南より入り江となり湾の内は三里、浙江の
ごとき潮をたたえる。島という島がここに集まり尽くして、そばだつものは
天を指さし、伏すものは波に腹這う。あるものは二重にかさなり、三重に畳
んで、左に分かれ右に連なる。背負う形、抱く形あり。児孫をあやす かの
ように見える。松の緑こまやかに、枝葉は潮風に吹きたわめられ、自然が曲
げ、伸ばした作品のようである。その景色神秘的にして、美人の顔を粧う 。
ちはやぶる 神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふる
わず、言葉を尽くさぬものなどいようか。
 雄島の磯は、地続きで浜から海に出た島である。雲居禅師の別室跡、座禅
石などがある。また、松の木陰に世捨て人の住処もまばらに見えて、落穂・
松笠などの煙たなびく草庵にひっそりと住む。どこの誰とも知りはしないが、
まずなつかしく立ち寄れば、月が海に映り、昼の眺めとはまたあらたまる。
浜辺に戻り、宿を求めれば、窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこ
そ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの。


 松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良


鑑賞(古歌に、千鳥が借りたという鶴の毛衣。この松島の絶景に、ほととぎす
もその化粧を借り、美々しく鳴き渡ってくれればよいが)


 私はただ口を閉ざして眠ろうとするが、眠れるものではない。旧庵を別れ
るとき、素堂に松島の詩 を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。袋を
解いてこれを今宵の友とした。また、杉風、濁子の発句もある。


【曾良旅日記】
一 九日。快晴。辰の刻、塩竈明神参拝。戻って出帆する。千賀の浦・籬島
・都島 等諸所遊覧し、午の刻松島に着船。茶など飲んでから瑞岩寺詣で。残
らず見物した。開山は法身和尚(真壁平四良)である。中興は雲居。法体の北条
時頼がこもった岩窟あり。無相禅窟の額があった。これより雄島(御島と書く
ところもある)をあちこち見る(富山も見えた)。御島には、雲居の座禅堂あり。
その南に、一山一寧の碑文があった。北に庵あり。修行者が住むようだ。帰
った後、八幡社・五太堂 を見る。慈覚大師の作。松島に宿泊する。久之助方。
加衛門の案内状だ。

【奥細道菅菰抄】
そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ
洞庭、西湖に恥じるものではない。東南より入り江となり湾の内は三里、浙江
のごとき潮をたたえる

そもそも(抑)は、和文においては、さて(扨)、という言葉の重いものであり発
端に用いられる。漢語の抑とは意味が違う。

扶桑は、いにしえより日本の異名として使われてきたが、実は別の国の名であ
る。『准南子』の註に、「扶桑は東方の野なり」。『楚辞』の註に、「扶桑は
木の名である。その下より日がでる」。『和漢三才図会』に、「扶桑国は大漢
国の東にあり、その地には扶桑の木が多い。葉は桐に似て、実は梨のごとく」
という。これらである。ただし、ここ(奥の細道本文)では、俗言にしたがって
日本のこととみるべきである。

第一とは、松島はどの島にも松の木ばかりがあり、他の木はない。ゆえに、
第一と称えたのだ。

およそ(凡)は、『辞書』では、皆と註する。一般にいう総体と同じ。

洞庭は、中国で名高い山水の地である。洞庭湖あり(別名太湖)。半分は潭州に
属し、半分は岳州に属すという。

西湖は、鄂州にある。これらの風景は、王弇州の『四部稿』、および『熙朝
楽事』等にくわしく載る。

浙江は、中国三大江の一である。『字彙』にいう。
「浙江は銭搪にあり、歙県の玉山より出る。河水が逆流して激しく、湾口に
波を巻き上げることにより、浙江と呼ばれた」と。日本の九州の西に当たり、
日本へ往来する船舶の港。繁華の地であり、なおかつ景色無双であるという。
その潮を称えて『詩経』に、「廬山の烟雨、浙江の潮。いまだ到らざれば千
般すれども、恨み休ませず。到り得て帰り来たれば別事なし、廬山の烟雨、
浙江の潮」とある。
○一考すると、松島は日本第一の絶景の地であるため、特別にこれを称讃す
るべく、ここの段落はしばらく文法を変え、賦の体となした。ゆえに文頭に、
そもそも(抑)の字を置いて、稿を改めたのは、史記列伝の始め、伯夷の伝の
頭に、それ(夫)の字を置いたのと同様である。翁の文飾の巧みさを、これら
のことに目をつけて、よくよく考えてみるべきであろう。

そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う

この両句は、島と岩の形容である。そばだつの元の字、「欹」は、あるいは
「倚」と通ずるか。偏り、立つことである。腹這う(匍匐)は、両手をついて
腹ばうことをいう。『詩経』の大雅に、「誕にまことに、匍匐す」とある。

児孫をあやすかのように見える

杜甫の望獄の詩に、「諸峰羅立して、児孫に似たり」とある。

美人の顔を粧う。ちはやぶる神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の
造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか

美人の顔を粧う、とは、東坡の『西湖の詩』に、「西子に西湖を把えて比
せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」とする意味である。西子とは、
西施のことである。越王勾銭の臣、茫蠡が、呉王夫差に贈った美人の名で
ある。

淡粧濃抹は、薄化粧、または濃く化粧することをいう。

ちはやぶるとは、『百人一首季吟抄』に、「ちはやぶるとは、神を詠む時
の枕詞である」という。この他にも諸説あったが用いなかった、と定家卿
の説があることを伝える。考えみれば、この説には、埒がない。ある神書
では、ちはやぶるを千釼破(せんけんは)と書いて、素盞鳴尊を神々が攻め
た時、尊が埋め隠しておいた千の剣を踏み、破り捨て、ついに尊を屈服さ
せたなどといっているが、これまた様々な説がある。私にも管見がなくも
ないが、その家の者ではないので、しばらくこれを捨て置く。

大山祇は、大山祇の神をいう。山の神ゆえに、成せる業と申されたのであ
ろう。(この神の出生の話は日本書紀に見える。ここでは不要のためくわし
くは記さぬ)

雲居禅師の別室跡

雲居禅師は、真壁平四郎の家人、沢庵と同時代の人である、という。伝説
未詳。平四郎のことは以下にある。

窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる
心地となろうもの

この段は、『詩経』の「軒窓を月のため開くという。いずくんぞ似たる、
山中白雲に臥すことを」などという風情に着想を得たものである。文、簡
にして尽くした、と称えるべきであろう。
妙なるは、奇妙な、という意味。

松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良

この句の趣向は、古歌を踏むと見る。今、失念してしまった。
(訳者註 鴨長明『無名抄』で取り上げられている祐盛法師の歌をいったも
の。寒夜千鳥と云う題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」と詠んだ)

素堂に松島の詩を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。(中略)杉風、
濁子の発句もある

素堂は、隠者の山口氏。初めは信章、中頃来雪、晩年に素堂と称した。芭
蕉の親友である。(一説では、俳諧も翁と同門であったとする。最初、信章
と称していたことを考え合わせると、あるいは元、信徳の門人ではあるまい
か)
原安適は、医者で深川に住む。歌人であり、この人も翁の友である。その息
子は鈴木庄内といって、県令の小吏を勤めて死んだ。その息子、庄右衛門と
いう者も父親に先立ってしまい、今は跡がない。
杉風のことは最初に述べた。濁子も翁の門弟である。


●立石寺

【おくのほそ道】
 山形 領内に立石寺 という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに
清浄閑寂の地である。一見の価値ありと人々も勧めるので、尾花沢よりと
って返す。その間七里ばかりであった。日はいまだ暮れぬ。麓の坊に宿を
取っておき、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年を経、土石
老いて苔なめらかに、岩上の僧院はみな扉を閉じ、物音一つ聞こえず。崖
をめぐり 、岩を這って 仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかり
の心地がする。


 閑さや岩にしみ入蝉の声


鑑賞(人の気配も絶え、静寂無音の真夏の山寺。時間さえも止まり、ただ
蝉の声だけが苔むした岩にしみ透っていくようだ)


【曾良旅日記】
○二十七日。天気よし。辰の中刻、尾花沢を発ち、立石寺(りゅうしゃくじ)
へとおもむく。清風より馬で館岡 まで送られる。尾花沢から二里で本飯田 。
一里、館岡。一里、六田 。馬継ぎのところで内蔵 に会う。二里余、天童
(山形へ三里半)。一里半足らずで、山寺 。未の下刻に着く。参拝者用の
宿をとる。当日、山上・山下の巡礼が済む。ここから山形へ三里。
山形へ行こうとするが、中止。ここから仙台への道がある。関東道を九十
里余りとなる。


【奥細道菅菰抄】
山形領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに清浄
閑寂の地である

山形は、最上郡の城下で、町の長さは二里ばかりである。現在の最上郡は、
この山形のみであるとか。立石寺、俗に山寺という。村山郡最上川の東の
山だ。麓の里を、山寺村と呼ぶ。現在、官領の地。立石寺は、千五百石を
領し、武州東叡山に属す。慈覚大師入定の地という。山中にその跡あり。
坊舎多く、様々の奇岩があり、絶景の地である。

慈覚大師は、名を円仁という。『元享釈書』にいう。
「釈の円仁、姓は壬生氏。野の下州、都賀郡の人である。延暦十三年に生
まれる。九歳にして、同郡大慈寺、僧広智に仕え、十五歳で伝教を師とす
る。二十三歳、和州東大寺にて具足戒を受けた。承和五年、遣唐使藤原常
嗣に従って入唐。十四年帰朝。仁寿四年四月、叡山の座主に任ぜられる。
貞観六年正月十四日、入寂。享年七十二。八年、諡慈覚大師を賜った」。

○山寺の地元民に伝承がある。慈覚大師には悪運がついていたと。(俗に
いう剣難である)世人は伝える。この因縁を持つ者は、必ず刃傷沙汰を起
こすのだ。これを悟り、大師は常に恐れ慎んでいた。はたして大師が立石
寺にて入寂の後、叡山と葬所の争いが起こり、叡山より衆徒ども来たって、
ついに大師の首を斬り、叡山へ持ち帰ったと伝えている。

松栢年を経

 栢(はく)は、柏の俗字で(今一般に、柏をかしわと訓じているが、はな
はだしい誤りである。理由は下に述べる)中国の柏は種類が多い。『本草
綱目』に詳しい。(日本では、檜のこととも、あすなろの木のことともい
っており、はっきりしない)一説によると、栢の字をかや、と訓ずるのは
誤りであると。かえ、と訓ずるべきであろう。(すなわち柏の和訓)かえぬ
の木の略であり、この木は秋になっても黄葉しないからである。かやは、
かやりの木の略で、榧の字を用いる。この木を蚊遣りとするためという。

崖をめぐり、岩を這って仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかり
の心地がする

崖をめぐりとは、境内右の山に、胎内潜りという岩がある。岸壁の飛び出
した下を背をかがめてくぐるのだ。この岩へ行くには、はしごを登り、鉄
の鎖にすがる。胎内潜りを抜け出したら、しばしの間、岩の端をつたい歩
く。はなはだ危険な箇所である。これらをいう。
岩を這うとは、左の山の出先に、天狗岩と呼ぶ、恐ろしい大岩石が直立す
る。これへの道は、斜めになった磐石を十間ばかり登るのだ。石の表面は
滑らかで上を歩けるものではない。ただ腹ばいとなって(俗に四つんばいと
いう)やっと登ることができる。これをいう。
閣は、『正字通』に、「楼観である」としている。仏殿の巍巍たるを称し
た名であろう。寂寞は、二字ともに、さびし、しづかとも訓ずる。法華経、
法便品に、「寂寞として人声無し」とある。一般に、しんしんとする、と
いう意味。ものの静かな様子である。

閑さや岩にしみ入蝉の声

年忌の年であろうか、最上林崎駅の壺中という俳士が、この山中に翁の塚
を築き、この短冊を埋めて、蝉塚と名付けた。

●羽黒

【おくのほそ道】
 八日、月山に登る。木綿しめ を身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力と
いうものに導かれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏んで登ること八里。この
まま日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり、
息もあがり身も凍えて頂上に至れば、日は沈み月が現れる。笹を敷き、篠
を枕に伏して、夜明けを待つ。日が出て雲が消えたので、湯殿山へと下った。
 谷のかたわらに鍛治小屋 というものがある。この国の鍛治は、霊水を選
び、ここに潔斎沐浴して剣を打つ。最後に「月山」と銘を切り、世間に賞せ
られる名刀となる。かの竜泉に剣を鍛えると聞く、干将・莫耶の故事 にな
らうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い知らされる。岩に腰掛け
しばらく休んでいると、三尺ほどの桜のつぼみが半ば開いている。降り積も
る雪の下に埋もれても、春を忘れぬ遅桜の花の心がいじらしい。炎天の梅花 、
ここに香るようである。行尊僧正の歌 の哀れも思い出され、それにさえ勝
って感じられる。そもそもこの山中の詳細は、行者の法度として他言を禁じ
ている。よって筆をとどめ、記すわけにはまいらぬ。坊に帰れば、阿闍梨の
求めに応じて、三山巡礼の数句短冊に書く。


 涼しさやほの三か月の羽黒山


鑑賞(すっとした三日月が、黒々とした羽黒山にかかっている。里に下りて
もなお高山の冷気が思い起こされ清々しいものだ)


 雲の峰幾つ崩れて月の山


鑑賞(昼間は湧き上がる入道雲の峰に隠されていたが、夜となって冴え冴えと
月光が雲を割り、厳かな山の峰を顕した)


 語られぬ湯殿にぬらす袂かな


鑑賞(法度により語ってはならぬ湯殿山中の神々しさを、思うにつけてもあ
りがたく、袂もこうして濡れるのだ)


 湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良


鑑賞(山中の禁制に地に落ちたものは、拾ってはならぬという。道に落ちた
賽銭の上を無心に歩む道者の尊さに自ずと感涙をもよおすばかり)


【曾良旅日記】
○六日。天気よし。登山する。三里で強清水 。二里で平清水 。二里で高
清水に着く。ここまでは馬でも登れる道である(人家、小屋がけあり)。弥
陀原 に小屋あり。昼食をとる。(ここから、補陀落、にごり沢、御浜など
へかかるという)難所となる。御田がある。行者戻り には小屋がある。申
の上刻、月山頂上に至る。まず御室を拝して、角兵衛小屋に行く。雲が晴
れて、御来光は見えなかった。夕方には東に、明け方には西に見えるとい
う。

○七日。湯殿山へ行く。鍛冶屋敷に小屋あり。牛首 (これより本道寺へも、
岩根沢 へも行ける)に小屋あり。不浄垢離の場、ここで水浴びする。少し
行ったところで草鞋を履き替え、木綿締めをかけなどして湯殿山神社神前
に下る(神前よりすぐのところに注連掛口(しめかけ)の注連寺・大日坊 を
通って鶴が岡へ出る道がある)。ここから奥は、所持した金銀銭を持って
帰ることはできない。下に落としたものすべて、拾うことも禁じられる。
浄衣・法冠・木綿しめだけで行くのだ。昼時分、月山に帰る。昼食をとり、
下向。強清水まで光明坊から弁当を持たせ、逆迎えにくる。日暮れに及ん
で南谷に帰る。はなはだ疲れる。

△草鞋脱ぎ替え所より、志津 というところへ出て、最上へ行く。
△道者坊 に一泊。宿賃は、三人で一歩。月山では一夜宿。小屋
賃、二十文。あちこちの拝観料が二百文以内。賽銭も二百文以内。あれや
これやで、銭は一歩もあまらなかった。


【奥細道菅菰抄】
木綿しめを身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力というものに導かれて(中
略)日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり(中
略)日は沈み月が現れる

月山・湯殿に登るには、潔斎修行しなければ許されない。

木綿しめは、こよりで仕立てた修験袈裟のこと。当山へ登る人は、潔斎中よ
り下山まで、これを襟にかける。この木綿しめ、および旅硯・銭袋・蓑笠な
ど、後に翁の門人、惟然坊に伝わり、その弟子、播州姫路千山に帰属する。
千山の子、寒瓜が、同国増位山に風羅堂を造立し、これらの調度ならび、惟
然坊作の翁の木像を納めた。

宝冠は、白い布で頭を包むことをいう。

強力は、修験の弟子で、笈などを担がせ従わせた者。すなわち登山の案内先
達である。ゆえに、別名先達ともいう。

 日月の軌跡に乗り、雲関に入るとは、『詩経』に、「平歩雲霄に入る、
というがごとし」。高山に登るさまを、雲を凌ぐ、とたとえたのだ。雲関は、
道家の説に、天上の六関などという。(例が多いので他は記さず)

谷のかたわらに鍛治小屋というものがある(中略)かの竜泉に剣を鍛えると聞
く、干将・莫耶の故事にならうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い
知らされる

鍛治は、本字、鍛冶。たんやと読むべき。日本の俗字、瑕治と混同し、その
音にて誤って綴ったものであろう。月山の鍛冶小屋は現在後嗣が絶え、ただ
名のみ残って、道者の宿となっているばかり。

 竜泉に剣を鍛えるとは『史記』、荀卿の伝の註、晋の太康の地理記にいう。
「汝南の西、平原に、竜淵水あり。刀剣を用いて淬すべし」とある。淬すと
は、俗にいう水で刀を鍛えることである。

 干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)は、いにしえの鍛冶の名工の名。『呉越
春秋』にいう。「干将は呉の人である。欧冶子と同じ師につき、闔閭(こうり
ょ)より二本の剣を作るよう命ぜられる。その一を干将といいい、二を莫耶と
いう。莫耶は干将の妻の名である。金鉄を炉に入れたが、なかなか溶けぬ。
干将夫妻は、すなわち髪を断ち、指を切って、炉中に投じる。たちまち溶け、
ついに剣となった。陽剣には干将が亀紋を刻み、陰剣には莫耶が縵様を入れ
る。干将は陽剣を隠し、陰剣をもって闔閭に奉じた」。『太平広記』にいう。
「干将・莫耶の剣はすべて銅をもって鋳る。鉄ではない」と。

炎天の梅花、ここに香るようである

この句はきっと出典があるはずだ。いまだ判明せず。
(訳者注 『禅林句集』(坤巻)の中の「雪裏芭蕉摩詰画。炎天梅蘂簡斎詩」に
よる。「雪裏芭蕉摩詰画」は、雪の中の芭蕉の株は摩詰(唐代の詩人・画家)が
描いたもの、「炎天梅蘂簡斎詩」の、炎天の梅花は簡斎(宋代の詩人)が詩で
詠んだものといった意味である。「雪裏芭蕉」と「炎天梅蘂(花)」は、いずれ
も現実には見られないもの。ところが、禅宗ではこれを鍛錬によって心眼で見
えるものとし、一般には珍しいものの例えとされている)

行尊僧正の歌の哀れも思い出され

行尊は『元享釈書』にいう。「諫議大夫。行尊は源の基平の子である。十二
の年、三井寺の明行に預け、出家させられる。もとより托鉢修行を好む。十
七の年、ひそかに園城寺を出て、名山霊区を跋渉する。永久四年、園城寺の
長吏に補せられる。保安四年、延暦寺の座主を任じ、長承三年、勅を受け衆
僧の上座となる」と。

僧正は、日本の僧爵。(行基より始まることは前述)

歌の哀れとは、『金葉集』に、大峰にて思いがけず桜の咲く景色を見て詠む、
とある。
「もろともにあはれと思へ山ざくら花より外にしる人もなし」行尊。

湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良

この山中の掟で、下に落ちた物を拾うことはできない。ゆえに道者の投げ捨
てた金銀は、小石のごとく、銭は土砂に等しい。人は、その上を行き来する
のだ。

●象潟

【おくのほそ道】
 海山川陸の佳景を見尽くした上、今、心は象潟へとせきたてられている。
酒田の湊より東北方面へ、山を越え、磯を伝い、砂子を踏んでその距離十里。
日影やや傾くころ、潮風がふいに真砂を吹き上げ、雨朦朧として 鳥海山を隠
してしまう。暗中に莫索して「雨もまた奇なり 」とすれば、雨上がりの晴色、
また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて雨の止むのを待つ。
翌朝、天よく晴れ上がり、朝日はなやかに差し出でるころ、象潟に舟を浮か
べる。まず能因島に舟を寄せ、能因法師三年幽居の跡を訪ねた。

向かい岸に舟を上がれば、「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の
記念が残る。

水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。
寺の名は干満珠寺。ここに行幸されたこと、いまだ聞かぬ。いかなることで
あろうぞ。

この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば、風景一望の内に見渡され、南に
鳥海山、天をささえ、その影が映って水上にあり。西は、むやむやの関 ま
で道が続き、東には堤を築いて、秋田へ通う道遥か。海は北にかまえ、波が
江に入るところを汐こしという。入り江の縦横約一里。俤は松島に通じて、
また異なるもの。松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし。寂しさに悲し
みを加えて、この地は魂を悩ますかのようである。


 象潟や雨に西施がねぶの花


鑑賞(雨に煙る象潟は、西施が長いまつげを伏せて眠る凄艶な美しさ、合歓
の花を想わせる)


 汐越や鶴はぎぬれて海涼し


鑑賞(汐越の浅瀬をゆったり水遊びしている鶴。あの長い足なら着物も濡れ
ず、江の内一里の涼しさをひとり占めできようものを)


祭礼


 象潟や料理なにくふ神祭 曾良


鑑賞(汐越の熊野権現の祭礼には魚肉を食わぬそうな。せっかくの名所のお
祭にもったいないことよ)


美濃の国の商人
 蜑の家や戸板を敷て夕涼み 低耳(ていじ)


鑑賞(浜辺の海人の家では、今日も漁を終え、みなみな小屋の戸板をはずし、
敷き並べて涼んでいる)


岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる

 波こえぬ契ありてやみさごの巣


鑑賞(古人が「末の松山波も越えなむ」と固く契りを交わしたが、鳥類です
ら夫婦となればあのような高い巌(いわお)の上にさえ巣をかけ、波も越せぬ
一世の契りを誓うものか)

【曾良旅日記】
○十五日。象潟へおもむく。朝より小雨。吹浦に着く前より豪雨。昼頃、
吹浦に雨宿り。この間、六里。砂浜に船渡し場が二ヶ所ある。佐吉の添え
状が届く。晩方、番所へ書状に裏印をつき届ける。

○十六日。吹浦発。番所を過ぎると雨が降り出す。一里で女鹿。
これより難所である。馬では通れぬ。番所に手形を納める。大師崎とも、
三崎ともいう。一里半あった。小砂川 は直轄領。鶴が岡藩の預かり番所と
なる。入領に手形は不要。塩越まで三里。途中に関という村あり(これより
六郷庄之助殿 の領地である)。うやむやの関と呼ぶ。この間雨強く、はな
はだ濡れる。船小屋に雨宿りする。
○昼におよんで塩越に着く。佐々木孫左衛門をたずね休む。衣類を借り、
濡れ衣を干す。うどんを食う。地元の祭りで女客があるというので、向か
いの旅籠にうつり泊まる。まず、象潟橋へ行き、雨暮れの景色をみる。今
野加兵衛たびたび訪れる。

十七日。朝、小雨。昼より止んで日が照る。朝飯をとって、皇宮山蚶満寺
へ行く。道々の眺望を楽しむ。帰ると地元の祭り行列が出る。通り過ぎ、
熊野権現の社 へ行き、踊りを見る。夕飯が終わって、潟へ船を出した。
加兵衛が、茶・酒・菓子など持参してくれる。帰って夜に入り、今野又左
衛門 来訪。象潟の縁起などが絶えてしまったことを嘆く。翁も同感。弥
三良低耳、十六日にあとより追いつき、方々へ同行する。

【奥細道菅菰抄】
今、心は象潟へとせきたてられている

 象潟は羽州由利郡にある。日本十景のひとつであり、当国第一の名所、
佳景の地。八十八潟、九十九森あると言い伝える。江の形がきさに似てい
る。ゆえに、きさかたという、と。(きさとは、象の和名)また、蚶潟とも
いう。

蚶(かん)は小さな蝸牛(かたつむり)に似た貝。関東の子供がもてあそぶ、
きさごというのがこれである。(上方では、しただみという)この江はいた
って浅瀬であり、かろうじて蚶などが生育するのみ。それでこのように名
付けたものらしい。(この地の寺を、蚶満寺と名付けたところからおして、
蚶潟を正字とすべきであろうか。なお以下にくわしくある)江中の広さ、
松島になかなか劣るものではないが、舟を操るにはすべて棹を用いる。
艪を立てることはない。これまたかけ離れたところである。もろこしの西
湖も、大船を入れることはできない。ただ遊覧船のみという。この江と比
較して語るべきであろう。

雨朦朧として鳥海山を隠してしまった。暗中に莫索して「雨もまた奇なり」
とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて

「雨朦朧として」とは、『詩経』に、「楼閣朦朧たり細雨の中」という風情
をあらわし、朦朧は、『円機活法』に、「日いまだ明らかならざるなり」と
ある。物がおぼろげに見えることをいう。

鳥海山も由利郡すなわち象潟の上の山であり、高さは月山と拮抗する。年中
雪に覆われる。祭神は、羽黒山と同じ。大物忌太神と称す。当国一の宮であ
る。

「暗中に莫索して」とは、俗に暗がりで、探ってみてもわかる、というこ
とである。ここでは、ただ闇中に坐って、近辺を知りえぬことの形容と解
釈すべき。

「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、とは、
東坡の西湖の詩に、「水光斂灔として晴れ偏に好し。山色空濛として雨も
又奇なり。西湖を捉えて西子に比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」。
この詩に取材したものである。この詩は本朝では必ず象潟の形容となる。
ゆえに祖翁もまた象潟眺望の吟に、西施の寝顔を詠もうとして、まずかすか
にその意を予告する。これは漢文にも尊ぶところであり、文書にもこの修辞
法がある。またわが翁の文では、奇中の妙と呼ぶべきものである。

「海人の苫屋に膝を入れ」とは、小屋の狭苦しい中に、ようやく坐るさまを
いう。
もともと象潟には海人の苫屋を詠む歌が多い
『後拾遺集』、「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿に
して」、能因。
『新古今集』、「さすらふやわが身にしあればきさがたやあまの苫屋にあま
たたび寝ぬ」、藤原顕仲朝臣。『方角抄』、「象潟や蜑の苫屋にきぬる夜は
浦風寒みたづ鳴きわたる」
の類である。

「膝を入れる」は、陶潜の帰去来の辞に、「膝を容るるの之安じ易きをつま
びらかにす」という文を取ったものである。

三年幽居の跡を訪ねた

能因奥羽下向のことは、『袋草紙』に説がある。前述。能因幽居の句も右に
記した。

「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る

「花の上こぐ」と詠んだ桜は、干満寺(かんまんじ)の境内、地蔵堂の前の汀に、
水面へ伸び出して生えている。古木は枯れ、現在は若木である。西行の歌、
「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」。西行は、『和漢
三才図会』によると、俗名、佐藤兵衛の尉藤原の憲清。秀郷九世の子孫、武衛
校尉、藤原の康清の子である。弓馬に達し、管弦を習い、和歌をよくする。奥
州より出て、鳥羽法皇に仕え奉り、北面の武士となった。しかし、世を厭う心
が起こり、ついに出家。円位と号す。後に、西行と名乗った。建久四年二月十
五日入寂。

記念(かたみ)の解説は前述した。

○象潟遊覧船のこと。明和二年常州水戸の三日坊五峰という俳人が、この象
潟へ来た時、銭一貫文を奉納。永代この地にいたる風流の人へ、島々一見の
船賃として、長途行脚の費用を負担した。その風流心に感ずるべきである。
よって、今ここに贅し、世の中にその志を伝えるところである。

水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。寺の名は干満珠寺

 神功皇后は、人皇十四代仲哀天皇の妃、応神天皇の母君で、気長足姫と号
す。干満珠寺は、別名干満寺ともいう。または、蚶満寺とも書く。禅宗で、
千体仏を安置する。山門などあって、巍巍たる荘厳である。
○案ずるに、この寺は蚶潟のほとりにあるため、元は蚶満寺と号していたの
だが、いつの頃よりか、干満と書き改める。やがて好事家が、神功皇后が三
韓征伐の時、干珠満珠の二つの玉を携えたことを付会して、干満の下に珠の
字を書き加え寺号となし、また、この二つの玉をここに埋めたとも伝えたの
だ。(地元の説にいう)そして皇后の御陵をも造立したものであろうか。この
近く、汐越川の中に、烏帽子岩という石があり、蕉翁行脚の時、「むかし誰
岩に烏帽子をきせぬらんかたかたとしてよい男也」、という戯れ歌があった
ので、その後この石を蚶満寺の庭上に移し、親鸞上人の腰掛け石と名付けた、
とする地元の話を聞いたものだ。その石はいまなお寺庭にあり、傍らに標札
を立て、親鸞腰掛石と書いている。皇后の御陵もあるいはまた、この手の虚
構であろう。

この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば

方丈は、寺の勝手向きの間をいう。『釈氏要覧』にいう。「唐の顕慶二年、
王玄索を西域に遣わせた。比耶離城に到る。維摩居士の石室あり。手板(笏
のことである)でこの石室の縦横を測ってみると、笏の十の長さであった。
ゆえに、僧室を方丈と名付けた」と。

笏は(日本のしゃくのことである)元一尺を基準とした。(日本の手板を尺と
いうのも、すなわちここから来ている)十笏は、一丈である。石室の縦横一
丈ずつあったので、方丈という。(一丈四方)

 簾を巻くとは、王勃の滕王閣の詩に、「朱簾暮に捲く、西山の雨」とい
う形容である。

西は、むやむやの関まで道が続き

むやむやの関は、別名うやむやの関ともいう。その跡とされるところが二
ヶ所ある。いずれも名所、「武士の出さ入さにしをりするとやするとやど
りのむやむやの関」。

また、うやむやの関と名付けたのは、ある説に、「この山に鬼神が住んで
いた。折々出ては道を行く人を獲る。ここにうやむや(有や無や)と鳴く鳥
がいて、その鬼神の有無を報せる。通行人は、鳥の鳴き声を聞き分け、鬼
神の有無を判断して往き来した。ゆえに、うやむやの関という」と。この
関跡、一ヶ所は、象潟の南、小砂川という里と、汐越駅との間の海辺、関
村というところ。ここであるとする。もう一ヶ所は、『歌林良材』に『八
雲御抄』を引用していうところの以下の地点である。「むやむやの関は、
陸奥と出羽との間にある。ただし、関は出羽よりに位置する。草木茂り、
通行人は、枝折を目印に行くという。ここは、現在笹屋越えといって、出
羽より陸奥へ行く山路。すなわち奥羽の境であり、今も木が鬱蒼と茂り、
物さびしい場所である」。

○案ずるに、関の名を「むやむや」としたのは、元よりここに草木が、む
やむやと生え茂っていたからであろう。ゆえに、旅人も枝折したのである。
うやむやとは、音の聞き違いにより、有無の響きと結びつき、やがて鬼神
のことなどを取り合わせた作り話であろうか。右にいう、羽州、関村のあ
たりは、海沿いの平地であり、山にほど遠く、昔であっても林木茂り通行
人の迷うようなところではない。いわんや鬼神などの住む地であるはずも
なく、「出さ入さにしをりする」と詠むべきいわれがない。しかれば、
『良材集』の、陸奥と出羽の間、現在の笹屋越えなるものを、この関の正
しい場所としたい。汐越は、あら海より象潟へ、潮の行き来する川の名で、
橋がかかる。しほこし橋という。南北の人家を汐越町といい、秋田への街
道の宿駅である。

象潟や雨に西施がねぶの花

この句に、西施が立ち入ったいわれは、前にくわしく記した。また、『尺牘
無雙魚』に、「道の傍ら雨中の花を見る。湘娥、面上の啼跡彷彿たり」とあ
る。この句の面影に似ていようか。

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

この句、翁の自筆が現在汐越町庄官のもとに残り、五文字が「腰だけや」と
なっている。しほこし川の中ほどに、腰だけと呼ぶ浅瀬がある。そこに鶴が
舞い降りたのを見ての即興であると言い伝える。

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【3】言の葉ブック新刊             『図解 庭造法』発刊!
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今回は、日本庭園。言の葉古典翻訳シリーズ第六作目が、美術専門出版社マ
ール社より、8月20日発刊となりました。明治期の日本庭園ビジュアル解説書
の名作が、100年の時を超えて現代に復刻。詳細は下記をご覧ください。


●新刊情報
『図解庭造法―Landscape Gardening in Japan 』(単行本)
AMAZON URL: http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw/249-1236116-7927513?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&initialSearch=1&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%90%7D%89%F0%81@%92%EB%91%A2%96@&Go.x=13&Go.y=17

●本多 錦吉郎(著)/水野 聡(現代語訳)/ジョサイア・コンドル(英文解説)
●価格: ¥ 1,575 (税込)
●単行本: 153ページ
●出版社: マール社 (2007/08/20)
ISBN-10: 4837304338
ISBN-13: 978-4837304333

明治の洋画家、本多錦吉郎が豊富な図とともに著した日本庭園の手引書『図解 
庭造法』待望の復刻!

原本は明治二十三年に初版発行され、日本古来の庭造法を初めて科学的に研究
紹介した著書として注目を集めました。
本書は明治四十年の改定版発行時に彩色された一層鮮やかな図版を豊富に収録
し、改定時に付録として付け加えられた解説と図版7点も収録。さらに解説は
明解な現代語訳にさしかえ、鹿鳴館の建築家として名高いジョサイア・コン
ドルによる英文解説を付けました。
(本書カバー広告文より)


築山・平庭・茶庭から石組・燈籠・樹木・垣根まで…。著者による美しい石版
刷りオリジナル図版を現代の印刷技術により美しく再現。これを読めば、わが
家にも自分で日本庭園を作ることが出来る?!お近くの書店でぜひお手にとっ
てご覧ください。


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【4】10月期新講座         中日文化『南方録を読む』スタート!
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虫の音、風の音。秋の気配がそこかしこに。読書の秋、芸術の秋がやってき
ましたね。全く未知の分野に挑戦するもよし、忙しさにかまけて長年踏み込
めずにいた興味ある習い事をスタートするによし。新しいことにチャレンジ
するのに、とてもよい時候です。
 言の葉講座、秋から各地で装いも新たに各企画がスタートします。今回初
めて「週末枠(土曜日開講)」も設けましたので、忙しいお勤めの方も、ぜひ
のぞいてみてください。新講座、新教室含む、全5講座の概要を以下ご案内い
たしましょう。


NEW!
1.読売・日本テレビ文化センター〈北千住〉

講座名:『風姿花伝を読む』
http://ync.ne.jp:8080/cms/html/10201213475.html
日 時:10/20第一回スタート。毎月第3土曜日 13:00~14:30
受講料:6か月 6回 15,750円
設備費:945円
体 験:随時  2,782円 ※要予約
問合/申込:読売・日本テレビ文化センター〈北千住〉電話03-3870-2061

■はじめての週末枠講座(土曜日13:00より)。今回は世阿弥『風姿花伝』を
岩波原文にて読み進めて行きます。少し難解ですが世阿弥の名文をそのま
まを味わいながら、風姿花伝の深い意味をあますところなく受講生のみな
さまとともに汲み取っていこうと思います。その後も定期継続講座にて、
『風姿花伝』一冊すべてを完読する予定。能狂言ワンポイントアドバイス、
ビデオ学習も毎回あります。


NEW!
2.東急セミナーBE 渋谷校

講座名:能の名作を読む~源氏・平家物語の世界をたずねて~
http://www.tokyu-be.jp/seminar/1072654AC01901.html
日 時:10/2(火)第一回スタート。毎月第1火曜日 13:00~14:30
受講料:6か月 全6回 16,200円(会員コース)
申込、支払締切:3日前まで受付可
途中受講:可
問合:東急セミナーBE 渋谷校 電話03-3477-6277

■能の永遠の名作、「井筒」「敦盛」「葵上」「松風」「鵺」「俊寛」。
これらの名曲が何百年もの間、多くの人に愛され続けている理由は、源氏
・伊勢・平家物語など古典の名段落・エッセンスがふんだんに散りばめら
れているからです。講座では、毎回一つの作品を取り上げ、その世界を詳
しくやさしく解説・案内していきます。また出典である、古典原作の引用
段落もつき合わせて読解・音読。実際の能舞台、各シーンもビデオで随時
鑑賞しましょう。


NEW!
3.名古屋・栄 中日文化センター

講座名:武士道の聖典『葉隠』を読む
http://www.chunichi-culture.com/
日 時:10/4(木)第一回スタート。毎月第1木曜日(昼)1:00~2:30
受講料:6ヵ月分 11,340円
問合/申込:名古屋・栄 中日文化センター 電話 0120-53-8164
Mail sakae-cc@chunichi-culture.com

■「武士道というは死ぬことと見つけたり」。佐賀鍋島藩武士道書『葉隠』
から、興味深い逸話を毎回テーマに沿ってピックアップ。名言・名文をわ
かりやすく解説しながら、名段落を音読し鍋島武士の生きる智恵を学んでゆ
きます。岩波文庫の『葉隠』原文を読んでいきます。10月から始まる6ヵ月
講座。

NEW!
4.名古屋・栄 中日文化センター

講座名:千利休・わび茶の心『南方録』を読む
http://www.chunichi-culture.com/
日 時:10/4(木)第一回スタート。毎月第1木曜日(夕)3:30~5:00
受講料:6カ月分 13,230円
問合/申込:名古屋・栄 中日文化センター 電話 0120-53-8164
Mail sakae-cc@chunichi-culture.com

■利休茶書の中で、最も重要視されてきた茶道の聖典。利休の高弟、禅僧
南宗啓の聞書に、利休が奥書・印可を加えたといわれます。本編から、名文・
名段落を選んで音読。利休茶の骨法を当時の名茶人の逸話なども交えながら、
初級者向けにくわしくやさしく解説していきます。10月から始まる6ヵ月講
座です。


5.NPO法人 新現役ネット

講座名:武士道の真髄を読む。【葉隠 精読会】
http://www.shingeneki.com/cgi-bin/event/d.cgi?e=07092701
日 時:第八回 9月27日(木)18:00~19:30 (毎月第4木曜日開講)
受講料:正・家族会員1500円(準会員2500円)テキスト代含む(各一回)
問合/申込:NPO法人 新現役ネット 電話 03-5730-0161
Fax 03-5730-0162Mail 

■定期講座。武士道というは、死ぬことと見つけたり」。己れ(私) を捨て
去り、信ずるところに命を捨てる葉隠武士。日本文化の精髄、日本精神の
原型は今も武士道にあり。人として誇り高く、生をまっとうすることを説
く全千三百話の武士道の聖典、それが『葉隠』の真実の姿です。本講座で
は現代日本が失ってしまった、しかしむしろ、現代日本に最も必要と思わ
れるテーマを毎回設定して受講生の方とともに音読します。
今回のテーマは「義」。葉隠、主要人物鍋島直茂は、「親類や身内が死ん
でもさほどにも思えぬが、書物に見る、いにしえの古つわものが義に命を
捨てる行いにはいつも涙が落ちる」と語ります。今回より『葉隠と日本文
化』コーナーを講座内に新設。初回は葉隠に登場する『能狂言』の逸話を
紹介。関連する能の舞台ビデオを鑑賞します。

……………《編集後記》………………………………………………………………

今年の夏は短かった。8月なのに、はやばやと秋の気配です。暑かったのは8
月入ってからのほんの2週間ほどでしょうか。しかし猛烈に暑かった。数十年
ぶりに気象台は最高気温を更新し、ニュースでは「熱中症」がキーワードと
なったほど。日本の夏の傾向は「太く短く」といったところ。われわれ日本
人の好みからいうとなにごとも「細く長く」でしたが、「太く短く」も見直
されてもいいのかもしれません。パッと打ち上げて、パッと終わる。花火の
ように、その後の余韻が、人々の記憶に長くとどまるような生き方にもなん
となく憧れますね。武将やアスリートたちに「永遠のヒーロー」が多いのも、
「太く短く」にコンプレックスを感じる民族のサガなのかも。言の葉庵は細
く長くいきます…短く、だったりして(言)

……………………………………………………………………………………………
  
【言の葉庵】へのご意見、ご感想、お便り、ご質問など、ご自由に!
 皆さんの声をお待ちしています。Good!の投稿は次号にてご紹介いたします。
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■ 編集長 水野 聡 mizuno@nobunsha.jp 
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2007年09月13日 15:28

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