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放てば手にみてり 【言の葉庵】No.22

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┣┫OW┃O               放てば手にみてり 2007.10.14
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 時には人を殺す刃となり、時には人を包む綿布団となり。言葉は本当に不思
議なものです。言の葉庵、よっこらしょと禅語の深山に一歩踏み入ります。
 今回の名言は、道元の「放てば手にみてり」。あなたが握りしめているのは、
本当に大切なものですか?おくのほそ道行脚、最終回は芭蕉、遊女と遊行上人
とのランデブーで大団円。11月、ひさびさに能楽堂見学会開催。お正月用に
「高砂」の謡が習えちゃう!盛会の『葉隠講座』産経新聞記事にて紹介され
ました。おいでませ。


…<今週のCONTENTS>…………………………………………………………………

【1】名言・名句第十四回               放てば手にみてり
【2】おくのほそ道メルマガ行脚           最終回 一振 大垣
【3】イベント情報             第二回能楽堂見学ツアー開催
【4】言の葉ニュース            『葉隠講座』産経新聞に掲載
…編集後記…
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【1】名言・名句第十四回              放てば手にみてり
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No.27 放てば手にみてり

No.28 其の知には及ぶ可くも、其の愚には及ぶ可からず

~道元『正法眼蔵』、『禅林句集』

No.27 放てば手にみてり
『正法眼蔵』(弁道話)道元

[解説]
 つくづくと感心するばかりです。名言は本当に人類の宝だなあ、と。
「放てば手にみてり」
一度手を放してごらん。そうすれば、もっと豊かで、本当の真実の宝が
両手にあふれるほど、やってくるから。これは、曹洞宗開祖、道元禅師の
ことば。名言とは、なにゆえ名言か。そのものさしを二つあげれば。

1.時代と国、民族を越え、すべての人に普遍的な真理を与える
2.死ぬほど苦しみ、悩み、悲しんでいる、すべての人に救いの光を投げかける

この句は、勉学、研究、仕事、事業、経営、人間関係、恋愛など、あらゆ
る人間の営みと、それが引き起こすあらゆる苦難に向けたもの。壁に行き
当たり、すべての手段、すべての努力を延々と続け、ついに力尽き、にっ
ちもさっちも行かなくなった人に、最後の手立て、「それ」を「手放す」
勇気を教えてくれます。

ただ、断念し、放棄するわけではありません。あきらめることは、もっと
根の深い「執着」を後々までも引きずること。自分にとって命の次に大切
な「それ」の存在そのものをからっ、と空白にすることです。

さて、名言の名言たるゆえんは、受け取る人それぞれにより応用がきくこ
と。何も人生の最重要局面においてばかりではなく、「放てば手にみてり」
は、小さな戦術としても、実によく役に立ちます。同種の発想は、武の道
において冷徹なリアリストであった、宮本武蔵『五輪書』にも見ることが
できます。

一 四手を離す
 四手を離すとは、敵も自分も同じ状況になり互いににらみ合って、戦いが
膠着してしまっている状態。このときにらみ合っているなと悟ったらその心
を捨て、別の方法で戦局を打開することをいう。集団の兵法でも四手の状態
になれば、戦線が膠着し兵力も損傷するものだ。一時も早く考え直し、敵の
意表をつくような方法で事態を打開することが最優先課題だ。また一対一の
兵法でも四手になっていると思ったら、即座に発想を転換し、敵の状況を見
極めて、全く別の手段で思い切って出ることが肝心だ。よくわきまえなさい。

一 生まれ変わる
生まれ変わるとは、自分と敵が戦い混戦模様に陥り決着が付かない時、それま
での経緯を忘れて物事が生まれ変わったように、新しく生まれたリズムで勝利
を得ることだ。生まれ変わるとは、常時敵と自分が不協和音を出していると感
じたとき即座に心を一新し、全く別の方策で勝つことだ。集団の兵法でも生ま
れ変わるという戦術を認識しておきたいものだ。兵法の方法論を応用すればす
ぐさま理解できるだろう。よく考えて見なさい。
(『強く生きる極意 五輪書』火の巻 2004.PHP)

ここで注意しておきたいのは、「手に満ちる」ものは、外からやってくるも
の、何もない空間からいきなり現れ出るものではない、ということ。両手の
ひらいっぱいに、キラキラ輝き、こぼれんばかりに満ち溢れる宝は、あなた
の中からやってくるものです。その宝の道筋を今までふさいでいたもの、長
年後生大事に握りしめていたもの、それを握りしていたため、他の何もつか
むことのできなかったもの。思い切って手を開き、つくづくと眺めてみまし
ょう。

「なんだ。こんなモノをつかんでいたのか」

[原文]
 諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術
あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受
用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。こ
の法は、人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるには
あらわれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきわ
ならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。
『正法眼蔵』第一巻「弁道話」

解題はこちら

No.28 其の知には及ぶ可くも、其の愚には及ぶ可からず
『禅林句集』、『論語』巻第三

[解説]
努力すれば貴殿も智者には何とか近づけよう。が、いくら努力しても愚者に
はなれまいよ。
禅の名句を集めた『禅林句集』にあることば。しかし、オリジナルは『論語』
巻第三公治長第五の一節にある。孔子の言葉です。

子の日わく、寧武子、邦に道あれば即ち知、邦に道なければ即ち愚。其の知
は及ぶ可きなり、其の愚は及ぶ可からざるなり

(子が云われた「衛の大夫、寧武子は国が治まっている時には智者となり、国
が乱れる時には愚者となって過ごしたという。賢者のまねはできようが、愚者
のまねはとてもできるものではない」と。)

禅の道では時として「愚」は「聖」と同等の意味をもつように思えます。たと
えば、一休宗純の後半生は、破戒であり「愚」そのものでした。(並の人の目
から見れば、ですが)良寛は自らを「大愚良寛」と称しました。また、禅宗外
では、伝教大師最澄は比叡山に天台宗を立てる「願文」として、

 是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄

と、自らを徹底的に罵倒し尽します。親鸞もおのれを「愚禿」と呼び、一刀両
断しました。
「知」は自己肯定。自らを高めるもの。「愚」は自己否定。われを貶め、低く
するもの。禅宗、仏教、キリスト教、原始宗教…。すべての宗教の共通目的は
衆生済度、つまり人間を救うことにあります。他者を救う時、自らを高みに置
き、下にいる人の髪を引っつかんで引き上げてやるのか?それとも、わが身を
人より一段と低くし、おのれの背、頭を踏み台として、溺れる人を持ち上げ救
うのか?
どちらが尊いか、いうまでもありませんね。禅宗三十八祖、洞山良价の『寶鏡
三昧』に、

 潜行密用は、愚の如く魯の如し、ただ能く相続するを主中の主と名づく

の句があります。良い行いはひそかに実行するもの。それはけだし、愚者のご
とく間抜けのごとく目に映ろう。しかし、ひたすらこれを守り続ける者こそ、
まことの禅の道を行く者であり、正しい人間のあり方なのだ、という意味。

『葉隠』に、典型的な曲者(剛勇と慈悲をあわせもつ、つわものの意)として
描かれる、志田吉之助。旧領主龍造寺家中一の切れ者として、主君亡き後、鍋
島家家老に随身を懇望されますが、時に「作り馬鹿」をよそおい、時に「欲深
」「臆病」を演じ、生涯鍋島家への雇従を拒み続けます。一生の間、目薬売り
をしてせっせと集めた財をすべて投げ出し、主君の菩提寺に山門を寄進。自身
は主君の霊廟のかたわらに小さな庵を結び、ついにここで朽ち果てます。「知
」も「勇」もからりと捨て去り、一筋に「愚」を貫き、旧主への忠を身をもっ
て新領主に伝えんとしたものでしょうか。

このように見ていくと「愚」はまさに成し難い。もとより何もない、からっぽ
の「愚」ではなく、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ一切合財をすべて放下した、
真空地帯こそここでいう「愚」なのです。
この「愚」には、目も鼻も口も耳もなく、ただ二本の足がついている。まっす
ぐに行くべき道を行き、やがて力尽きた地点で倒れるのみ。しかし、後を行く
者に、確かな道筋だけは作ってくれるのです。


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【2】おくのほそ道メルマガ行脚           最終回 一振 大垣
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最終回 一振 大垣

六月、象潟を発ち日本海沿いを下向する芭蕉一行の足取りはにわかに速度を増
します。序破急の位でいえば、旅も終わりに近づき、「急」の位を予感させる。
今回の行路は、いままでのような名所・旧跡にとぼしいためか、人と人との関
わりが大きくクローズアップされます。二人の俳友との再会。ひとりはすでに
黄泉の国の住人ですが。また、越後から伊勢詣へと下る遊女との相宿。悲しく
も、胸騒ぐ旅の風情がそこかしこと翁の発句に立ち上ります。
終着点大垣では、門人たちが大集合し旅人を迎え無事を喜び合う。しかし伊勢
遷宮を拝まんと、これら門人たちとも袖を分かち、長島にてふたたび舟に棹差
し、『おくのほそ道』は幕を閉じるのです。

●一振

【おくのほそ道】
一振(いちぶり)

 今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返し などという北国一の難所を越
えた。疲れ果て、枕を引き寄せ寝ていると、一間隔てた表の方から、若い女の
声二人ばかりが聞こえてくる。年老いた男の声もまじり、その話を聞くと、
越後の国新潟というところの遊女 らしい。伊勢参宮 に行くという。この関ま
で男が送り、明日戻るというのでふるさとに届ける文をしたためて、はかない
言伝をしているようだ。白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世を わび
しく落ち下るように、定めなき契りを結ぶこと。日々の業因はいかなる前世の
むくいによるのだろう、と物語るのを聞くともなく眠りに落ちた。翌朝、旅立
つわれわれに、
「行方も知れぬ旅路の辛さ、あまりに心細く悲しく思われます。見えつ隠れつ、
お坊さま方のお跡をおしたいさせていただけませんでしょうか。仏のお情けに、
大慈悲の恵をたまわり、仏道へ結縁させていただきとうございます」
 と涙を流す。不憫には思ったが、
「私どもは、所々立ち寄る先が多いのです。ただ、伊勢詣での人々の流れに
まかせ、ついていきなされ。神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運
びましょう 」
 と言い捨てて発ったものの、不憫な心はしばらく止むものではなかった。


 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月


鑑賞(ひとつ屋根の下奇しくも遊女と泊まり合わせる。庭の萩の花もおりから
の十五夜の月に冴え冴えと照らされている。仏縁に導かれ全く境涯の違う二
人が出遭い、また別れゆく運命の不思議さよ)

【曾良旅日記】
○十二日。天気快晴。能生を発つ。早川 で翁がつまずき、衣服が濡れてしま
った。河原でしばし干す。午の刻、糸魚川 に着く。新屋町、左五左衛門方で
休む。大聖寺のソセツ師より伝言あり。母親は無事に到着。当地は安全だとの
こと。申の中刻、市振(いちぶり)に着。泊まる。

○十三日。市振発。虹が立つ。玉木村 まで市振から十四、五丁ある。

【奥細道菅菰抄】
今日、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えた

親知らず・子知らずは、越後の国、歌という宿より一振までの街道で、山の下
という。一方は険山であり、その下の波打ち際を行き来する。そのため、波が
来る時は岩陰に隠れ、引く時に出て走る。つまり波の引く間、わずかの内に走
るため、「親をも顧みず、子をも思わず」という心でこの名がついた。
犬戻りは中屋敷というところより、長浜の宿までの間にあり、岩石の間を渡る。
駒返しは、遠海と歌との間、いずれも越中への街道にある海辺である。

越後の国新潟というところの遊女らしい。伊勢参宮に行くという

新潟は、越後の国、蒲原郡、海辺の町であり、信濃川(信州では筑摩川と呼ぶ
)、奥州会津の大河が合流し、運送の便よく、当国第一の大湊、繁華の地であ
る。

遊女を中国では、妓という。(日本で、清盛の時、妓王、妓女といった。白拍
子の名は、これによる通称である)『書言故事』に、「いにしえ未だ妓有らず。
漢武はじめて官妓を置き、軍士のこれ妻無き者に侍らす」という。遊女の名は、
『詩経』に、「漢に遊女あり」の詞より出たのであろうか。しかし、詩経の意
は、ただ漢水の辺を遊行する女である。芸妓のことではない。日本では、播州
室津の遊女を初めとする、と聞く。あるいは、周防(すおう)の国、室積の妓が
起こりとも。また、『朝野群載』には、「江口ではすなわち観音を祖と為し、
蜑島ではすなわち宮城を宗と為し、神埼ではすなわち河菰姫を長者と為す」と
ある。しかしこれらは、どの時代のことか不明。また、ある書では「わが朝の
妓は、いつの時代起こったものか知られていない。おおよそ鳥羽の院の御宇に
始まった」というが、『後拾遺和歌集』に、遊女宮城の歌を載せ、『源氏物語
』、関屋の巻では、光源氏が住吉へ詣でる装いを、江口・神埼の遊女が船を浮
かべ見物したと記す。ということは、後一条院の頃、すでに遊女がいたものか。
また『万葉集』に、遊行の婦女というものがあり、遊女のようにも思えるので、
孝謙の御宇にもあったのであろうか。また、「鳥羽院の御宇、永久三年、洛陽
に島の千歳・和歌の前という二人の女、盛んに教坊舞をなし、遊女の舞はこれ
より始まる」と『年代広記』に記す。『前太平記』には、藤原正澄の妓女、松
世というものを、兄澄友が奪ったことを記す。また一説では、鳥羽院の御宇、
通憲入道が、妾の磯禅師に、烏帽子水干を着せ、太刀を帯させ舞わせた。これ
を男舞と称する。すなわち遊女の舞のはじめである、と『源平盛衰記』にある
という。案ずるに、『新古今集』には、遊女、奥州という者の歌を載せていた
と覚える。いずれにしろ、その始まりは、ずいぶん古いことであろう。

また、傾城の号は、『前漢書』、外戚伝にいう。「李延年の妹は絶世の美女。
延年はこれを皇帝に侍らす。酒宴たけなわなる時、歌っていわく。北方に佳人
有り、絶世にして独り立す。ひとたびかえり見れば、人の城を傾け、ふたたび
かえりみれば、人の国を傾く。城と国とを惜しまざらん。佳人はふたたび得難
し、と。この歌より、美人を傾城・傾国といい、後ついに妓の通称となる」。

伊勢参宮は、太神へ参詣することをいう。内宮は、天照皇太神にて、宇治の郡
御裳濯川の上にまします。外宮は、豊受皇太神にて、度会の郡、山田原にまし
ます。いずれも鎮座は、垂仁天皇二十六年冬十月という。

白浪の寄せる汀に身をやつし、海人がこの世をわびしく落ち下るように(中略)
日々の業因はいかなる前世のむくいによるのだろう

白浪の寄せる汀とは、『新古今集』、「白なみのよする汀に世をすぐすあまの
子なれば宿もさだめず」、読み人知らず。この歌を取って、うかれ女の名に寄
せて書いたものであろう。
海人がこの世は、すなわち「あまが子」との掛詞である。業因は、前世でなし
た業を、今の世へ持ち来ることをいう。

神明のご加護によって、旅は必ずつつがなく運びましょう

加護は、「まもりをくわえる」と訓ずる。『法苑珠林』に、「この加護方便を
為すことを得る」とある。つつがなく、の解説は前述。


●金沢

【おくのほそ道】
 卯の花山 ・くりからが谷 をこえて、金沢に七月十五日につく。ここに大坂
より通う商人、何処というものがいる。これと旅宿をともにする。一笑という
もの、この道に打ち込み名が折々に聞こえ、世に知られた人であったが、去年
の冬早世してしまったゆえ、その兄が追善句会を催した。


 塚も動け我泣声は秋の風


鑑賞(早世を悼み私の慟哭する声が秋風となり粛々と吹きすさぶ。亡者の魂へと
届いて、塚をもゆり動かすことであろう)


ある草庵に招かれて
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子


鑑賞(秋風の涼しい季節となった。句を詠む口をしばしとめて、秋茄子・秋瓜を
めいめいの手でむいていただこうではないか。一笑に「手向け」の意もあり)


途中吟
 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風


鑑賞(残暑の陽は容赦なく照りつけるが、長い夏にあきあきしたものか、夕風は
そ知らぬ風に涼しくふいてくるものだ)

【曾良旅日記】
一 十五日。快晴。高岡を発つ。埴生八幡を拝す。源氏山 ・卯の花山がある。
倶利伽羅峠を見て、未の中刻、金沢に着。
京屋吉兵衛に宿を借りて、竹雀・一笑に連絡をとる。即座に竹雀・牧童 が連れ
立って参り事情を話す。一笑が去る十二月六日死去したという。

一 十六日。快晴。巳の刻。竹雀より籠にて迎えを寄越す。川原町、宮竹屋喜
左衛門方へ移る。徐々に門弟が集まり、一堂に会す。

一 十七日。快晴。翁ひとり源意庵へ遊ぶ。私は病気ゆえしたがわず。今夜、
丑のころより雨が強く降り、暁には止む。

一 十八日。快晴。

一 十九日。快晴。みなが来る。

一 二十日。快晴。松幻庵にて一泉がもてなす。俳諧、一折あって、夕方野端
山に遊ぶ。帰って夜食をしたため散会。子の刻となった。

一 二十一日。快晴。医師の高徹 に会い、薬をもらった。翁は北枝・一水と同
道し寺に遊ぶ。十徳二枚、十六四 。

一 二十二日。快晴。高徹が見舞う。また薬をもらう。この日は、一笑の追善
句会。□□寺 にて興行する。参加者は朝飯の後より集まった。私は病気のため、
未の刻より参会。暮れ過ぎ、みなに先立って帰る。亭主は丿松。

一 二十三日。快晴。翁は雲口 に連れられ宮の越 に遊ぶ。私は病気のため参
らず。江戸へ便りをしたためていた。鯉市・田平・川源 などへ出す。高徹より
薬が届く。以上六枚である。今宵、牧童・紅爾等が引き止めに来た。

一 二十四日。快晴。金沢を発った。

【奥細道菅菰抄】
卯の花山・くりからが谷をこえて

卯の花山は、くりから山と続いており、越中礪波郡、となみ山の東にある。
源氏が峰という人もいる。木曾義仲の陣所があったところ。義仲の妾、巴と
葵(山吹女)、二人の塚もこのあたりにある。(由緒は長くなるので略す)卯の
花山は名所である。『夫木抄』、「日かげさすうのはな山の小忌衣たれぬぎ
かけて神まつりてん」、小侍従。(この他古歌が多い)

くりからが谷は、くりから山の谷である。くりから山は、越中今石動の駅と
加賀竹の橋の宿との境にあって、峰に倶利伽羅不動の堂あり。これによって
山の名とした。現在は、またの名、栗柄山とも書いている。平家・義仲の合
戦の地。「一騎打ち」と呼ぶ、岩間のいたって狭い道がある。この山の麓、
越中に羽生村の八幡宮がある。木曾義仲が大夫房覚明に平家追討の願書を書
かせ奉納した神社で、これは現存している。


●等栽

【おくのほそ道】
等栽(とうさい)

 福井 まで三里ほどというので、夕飯をしたためて宿を出たものの黄昏の路
に足元はおぼつかぬ。ここに等栽 という古なじみの隠士がいる。いつの年で
あったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。かれこれ十年以上も前のこと。い
かに老いさらばえて しまったものか、はたまた亡くなってしまったのでは、
と人に尋ねれば、まだ生きており、どこそこにいると教える。市中ひそかに
引き込んで、みすぼらしい小家に、夕顔、へちまが茂ってかかり、鶏頭、箒
木が戸口を覆い隠す。さてはこの家にこそと門を叩くと、わびしげな女が出
てきて、
「どちらからいらっしゃった道心のお坊さんでしょうか 。あるじは近所のな
にがしというもののところに出かけています。ご用がございましたら直接お訪
ねになってください」
 という。等栽の妻とわかる。まるでいにしえの物語のような風情かな、とす
ぐに訪ねあてる。その家に二晩泊まって、名月 は敦賀の湊に、と旅立った。
等栽、ごいっしょにお送りしましょう、と着物の裾奇妙にからげ、これぞ旅路
の枝折とうかれ立つ。


【奥細道菅菰抄】
福井まで三里ほどというので(中略)黄昏の路に足元はおぼつかぬ

福井は、越前の城下で都会の地である。
黄昏は日の暮れかかる時をいう。和訓の意味は、日の暮れかかる時、物の影確
かに見えず、人を見ても「たれか」、「かれか」、とわからぬおぼろげなさま
をいう。

ここに等栽という古なじみの隠士がいる(中略)いかに老いさらばえてしまった
ものか

 等栽は、もと連歌師。福井の桜井元輔という者の弟子で、等栽は連歌名であ
る。俳名は、茄景というとか。元輔は宗祇の門人で、「さてはあの月が啼たか
ほととぎす」という句を詠んだ者と言い伝える。
隠士は隠者というのと同じ。士は『玉篇』に、「古今に通じ、然らざるを弁ず
る。これを士という。数は一に始まり、十に終わる。孔子のいわく。一を推し
て十に合わするを士という」とある。つまり、才芸などのある者を、あまねく
士といったものと思う。(日本で俗に、士の字をさぶらひと訓じて、武士に限る
ように見なすのは、和訓の偏った読み方による誤りである)

老いさらばえては、『徒然草』に、「むく犬の老さらぼひて」とある。註に荘
子を引用し、髐の字を「さらぼひ」と読ませている。痩せて縮んだ様子である、
という。俊成の歌に、「山陰に老さらぼえる犬ざくら追はなたれてとふ人もな
し」と詠む。

道心のお坊さんでしょうか

道心は、元は心に道徳のあることをいった。出家には限らぬ。後世には、ただ
賤しい僧をさす名のみとされた。むろん、これも仏道執心の意味では、根拠の
ない話ではない。

坊は、防と同じ。つつみ、と訓ず。(土手のこと)ゆえに、これを借りて、長く
続いた家居の名とする。(長屋などの類)僧の坊号は、衆寮より来ている。(こ
れもまた、長く建ち並んだ家のことで、一の坊二の坊などという)中国で市井
を坊と呼ぶのも、また店が長く建て続いているためである。○現在、隠者など
の別号に、坊の字を用いるのは、ひどい誤りである。せめて房の字を使っても
らいたい。房は、閨房と連用して、閨(ねや)などの形態なので、庵号の意味に
用いてもあながち間違いとはいえぬ。坊号は、何町、何長屋というようなもの。
独居一屋の称には使えない。

名月は敦賀の湊に、と旅立った(中略)旅路の枝折とうかれ立つ

名月は、林道春徒然草の註に、「八月十五夜の月を賞玩すること、おおよそ李
氏唐朝より盛んとなった。古楽府の孀娥怨曲は、漢人が中秋の月が出ぬゆえ作
る、とあるので、漢の世にも楽しんだのであろうか」という。また、欧陽?、
翫月詩の序文に、「八月十五夜のことをいう」とある。(長文ゆえここに記さ
ず)古今、月を愛でる詩歌は枚挙にいとまがない。

つるがは、元角鹿(つぬか)と書いた。以下、言い伝え。「崇神天皇六十五年、
任那(みまな)の人来る。その人、額に角あり。越前笥飯の浦にいたって居るこ
と三年。ゆえにその処を角鹿と名づく」という。今は、敦賀と書く。笥飯も今
気比とする。海を気比の海と呼ぶ。(敦賀はすなわち敦賀郡の浦で、けいは、
つるがの古名である。古歌が多い)越前の大湊で、若州小浜侯の領地である。
『方角抄』、「我をのみ思ひつるがの浦ならば帰る野山はまどはざらまし」。
『万葉集』、「気比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
舟」。(気比の名のことは下にくわしい)

枝折は、刊・栞等の文字を用いる。『尚書』の益稷に、「山に随って木を刮
す。禹貢、山に随って木を栞す。周伯温がいわく、行うところの材木に、そ
の枝を斫り、道の識しと為すという也」と。これは、迷いそうな道の傍らの
木を押し削り、あるいは枝を折って、地面に立てるなどして、後から来た人
の道しるべとすることで、日本では普通、これをしをりとも(しをりは枝折り
)、たつきともいい(たつきは立木)、歌に、たつきもしらぬ、と詠んでいるも
のである。現在、通行人の迷いそうな道の傍らの木の枝に、紙などを結び付
けておくのが、この遺風。しをりの歌は、前段むやむやの関の解説にある。
また、「みよしのの去年のしをりの道かえてまだ見ぬかたの花をたづねん」
西行。


●敦賀

【おくのほそ道】
 ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづ の橋を渡り、
みれば玉江の蘆には穂が出る。鶯の関 を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城
、かえる山に初雁を聞き、十四日の夕暮れ敦賀の津に宿を求めた。
 その夜よく晴れ月が見えた。
「あすの夜も晴れましょうか」
 というと、
「越路の常、明くる夜の陰晴測りがたし 、と申します」
 と、あるじに酒をすすめられて、今宵気比の明神へ夜参することとなる。
仲哀天皇の御廟がある。社殿は神(かみ)寂びて 、松の木の間より月光漏れ来
たり、神前の白砂、霜を敷きつめるがごとし。その昔、遊行二世の上人 が大
願をかけ、自ら草を刈り、土石を運び、泥沼を乾かしたので、参道往来のわず
らいがなくなったということである。この故実により、今も代々の上人が神前
に真砂を運ぶという。
「これを遊行の砂持ち と申します」
 と亭主が語った。


 月清し遊行のもてる砂の上


鑑賞(尊く清らかな月光が、今宵も神前の白砂を照らす。何十代もの遊行上人
がお運びになったありがたい砂である)


 十五夜。亭主の言葉に違わず雨降り。

 名月や北国日和定めなき


鑑賞(せっかくの十五夜に雨となってしまったが、名月よ、北国の変わりやす
い天候を恨まず、遊行上人のように来年も忘れずに来ておくれ)

【曾良旅日記】
一 九日。快晴。日の出過ぎに発つ。今庄の宿はずれ、板橋のたもとより右へ
曲がり、木の芽峠 におもむく。谷間に入る。右は燧が城、十丁ほど行って左に
かえる山があった。下の村では、「かえる」と言っている。未の刻、敦賀 着。
まず、気比明神に参詣し、宿を借る。唐人が橋 の大和屋久兵衛方。食事が済ん
で、金ヶ崎 にいたる。山上まで二十四、五丁。夕べに帰った。河野 への舟を
借りて、色の浜へとおもむく。海上四里。戌の刻、出船(陸路は難所である)。
夜半に色の浜に着く。塩焼きの男に導かれ、本隆寺へ行き、泊まる。

【奥細道菅菰抄】
ようやく白根が嶽が隠れ、比奈が嵩があらわれる。あさむづの橋を渡り、みれば
玉江の蘆には穂が出る。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、かえる山
に初雁を聞き

白根が嶽のことは前述。比奈が嵩は、「雛が嶽」、「日永だけ」とも書く。越前
府中の上の山で、祭神、飯綱権現。あさむづは、「浅生津」とも、「浅水」とも
書く。現在は「麻生津」という。福井の南、往還の駅で、宿の中ほどに板橋あり。
あさふづの橋と呼ぶ。清少納言『枕草子』に、「橋はあさむつの橋」と書かれた
名所である。また「黒戸の橋」ともいうと、歌書にある。『方角抄』、「朝むづ
の橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」。また、「たれそこ
のね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす」。

玉江のはしは、この道順で見れば、あさむづより前に書くべき。福井と麻生津と
の間にある。福井の町を上の方に抜け、二町ほど行けば赤坂というところがある。
ここを過ぎた街道に石橋が三つかかる。その真中の橋、高欄のついたものを、
玉江の橋の跡とし、この川をいにしえの玉江としている。『後拾遺集』、「夏
かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」、重之。ある人がい
った。「三国の湊に近いあたりに、たうのへ村というものがある。字に書くと、
玉江。この村に橋あり。これがまことの玉江の旧跡である」と。村名を重視す
るなら、ありえる説か。

鶯の関は、関の原という名所である。『方角抄』、「鶯の啼つる声にしきられ
て行もやられぬ関の原哉」。現在、民間に誤って関が鼻といっている。府中と
湯の尾の間で、茶店がある。湯尾峠は小さな山で、嶺に茶店三、四軒あり。い
ずれにも「孫嫡子御茶屋」と暖簾にしるしを出し、疱瘡のお守りを置く。いに
しえ、この茶店の主が疱瘡神と約束し、その子孫には、もがさの心配がない、
と言い伝える。孫嫡子とは、その子孫の直系という意味。

 燧が城は、湯尾の向いの山で、木曾義仲の城跡である。かえる山は、かえる
村という在所の上の山をさすとか。本名は、珻珞山(ばいらくやま)。これを海
路の字と見誤り(鍛冶を瑕治と誤るように)、やがて音が訛って、帰る山と称し
た。名所。『続拾遺集』、「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春の
かりがね」、入道二品親王性助。『方角抄』、「雁がねの花飛びこえてかへる
山霞もみねにのぼるもの哉」。これらの歌を踏んで、「初雁を聞く」と書いた
のである。

明くる夜の陰晴測りがたし

孫明復の八月十四日夜の詩に、「銀漢声無くして、露暗に垂る。玉蟾初めて上
って円ならんと欲する時、清樽素瑟よくまず賞すべし、明夜の陰晴いまだ知る
べからず」とある。この句による。

気比の明神へ夜参する

 気比または、笥飯と書く。(笥飯を正字とすべき。理由は下記に。気比は当て
字である)人皇十四代仲哀天皇、行宮の遺跡で(行宮は、巡守などの時の仮の皇
居をさす)、すなわち天皇の霊を祀っている。当国の一の宮である。『古事記』
にいう。「かの建内の宿禰命、皇太子(仲哀天皇)をお連れして、禊をするため、
歴の淡海および若狭国を経過する時、高志の前、角鹿に仮宮を造営し滞在願っ
た」。
『旧事紀』にいう。「二月、角鹿に行幸しすなわち行宮を興して、これに居ら
しむ。これを笥飯の宮という」と。これらのことである。鎮座については、神
功皇后十三年、「初めて笥飯の神を祭る」とある。笥飯の表記を用いるのは、
この地にて天皇が昼食(飯)の弁当箱(笥)をおつかいになったゆえの名であろう。

社殿は神寂びて

寂びては、物静かでさびしいさまである。また、社中の僧、車来の説では、風
の字を用いるという。俗にいう、男ぶり、などの意味で、神寂びては、神振り
ということになる。『日本書紀』、神代の巻には、進の字を用いている。『伊
勢物語』に、「翁さび人なとがめそ」と詠んだのも、翁へと成った、という意
味。また、躬恒の『秘蔵抄』には、上久と書いて、訓読みでさび、と読ませ、
昔を慕う意味もある、と註するという。

遊行二世の上人(中略)泥沼を乾かしたので(中略)これを遊行の砂持ちと申します

遊行宗は、本号、時宗という。一遍上人を元祖とする。熊野権現のお告げに従
い、諸国を遊行。決定往生六十万人の札を衆人に与えた。それゆえ、一般に遊
行宗と称する。本寺は、相州藤沢駅にあり、藤沢山清浄光寺と号し、百石を領
する。この宗義では、諸国を巡教する者を住職とし、本山藤沢の上人は隠居と
している。二世の上人は、一遍の弟子で、他阿弥陀仏という。(伝記、いまだ
確かではない)その後、代々遊行宗では、住職の僧を他阿上人と呼んでいる。
上人とは、『釈氏要覧』によると、「古い師伝では、心に智と徳があり、外見
に勝り進むさまがあり、人の上に立つ者を上人と名付ける」とある。また車来
の説では、「日本では僧綱を賜る場合、法印・法眼・法橋の三つの位がある。
この内、初めの位、法橋の僧を上人と称する。遊行は、禁裏に於いて、ただ遊
行大道心との口宣を受けるのみで、位階の沙汰はない。今、上人と呼ぶのは、
この一派の称号だけである。しかし、参内の式では、はなはだ厳重な称号とな
る」とあった。

遊行の砂持ちは、その後代々の上人が廻国の際、かならずこの地に来たり、砂
石を運び、社頭の前後左右に敷く行事で、今に至るも途絶えたことがない。そ
うして、この社の楼門の外に木履を多く並べ置き、参詣人は履物をこの木履へ
と履き変えて楼門内に入る。遊行の敷いた砂石を踏むゆえ、外の履物の穢れを
憚るのだ。


●大垣

【おくのほそ道】
 露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、
大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行
の家に入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、
まるで死者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。
旅疲れいまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に
乗り、


 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


鑑賞(はまぐりの蓋と身が別れるというが、ここで皆と別れ、二見が浦を見に
行こうとする。ふたたび相見える時もあるものか、と心細い秋である。「行
秋ぞ」は、冒頭の「行春や」と合わせ、紀行文を閉じる)

【曾良旅日記】
○三日。辰の刻、発つ。途中、春老方に寄る。夕方におよんで、大垣着。天気
よし。
この夜、木因 が会おうと、息子弥兵衛を呼びに遣わせたが行けず。予より先に
越人が到着していたので、これと会う予定があったためだ。

 四日。天気よし。源兵衛 へ会いに行く。

 五日。同。

 六日。同。辰の刻、出船。木因が馳走する。越人は船場まで見送る。如行とも
うひとりが、三里のところまで送ってくれた。餞別あり。申の上刻、杉江 へ着く。
長禅寺で舟を下り、陸路すぐの大智院へいたる。舟は半刻近く遅れた。七左 ・
玄忠由軒も来て、翁に会う。

【奥細道菅菰抄】
露通もこの湊まで迎えに来て、ともに美濃国に向かう。駒の助けを借り、大垣
の庄に入れば、曾良も伊勢より来たる。越人も馬を飛ばして、みな如行の家に
入り集う。前川子、荊口父子、その他親しい人々が昼夜訪ねてきて、まるで死
者が蘇生したとでもいうように、ともに悦び、かついたわってくれる。旅疲れ
いまだ癒えぬ内、長月六日になれば、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗り

露通は俳諧に多く路通と書いている。美濃の生まれ。ある時、乞食の境地に陥
っていたが、翁が取り立て僧となし、門人とした。越人・如行・荊口・前川も、
みな大垣に住む。大垣は中山道の往還、戸田侯の城下町である。蘇生は、本字
「甦生」と書き、よみがえる、と訓ずる。いたわるは、労の字。古訓ではねぎ
らう、と読む。長月は九月のこと。『奥義抄』に、「夜ようよう長き故に、夜
長月、というところを略して、長月という」とある。

伊勢太神宮の遷宮は、二十一年目にあり、九月晦日の夜。○この一章は、一篇
の終章ゆえ、文勢は自然に健やかで急なものとなる。これまた、和漢、文章作
成の一つの格で、翁の筆法、隙のないことを知るべきであろう。

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

『金葉集』、大中臣輔広の歌に、「玉くしげ二見の浦の貝しげみまき絵に似た
る松のむら立」と詠まれたものから貝を蛤に転じ、ふたみ、を掛詞としたもの。


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【3】イベント情報             第二回能楽堂見学ツアー開催
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前回も40名近くのお客様に参加いただいた、人気イベント「矢来能楽堂見学ツ
アー」。秋たけなわの11月、第二回を実施することとなりました。今回は、
『風姿花伝』のミニ講座、観世九皐会能楽師の方による謡・仕舞の実演。さら
にご来場者の皆様で謡う「高砂や~」のミニワークショップもあります。能楽
堂にまだいったことのない方はこの機会にぜひご参加ください!


第二回【神楽坂 矢来能楽堂】秋の貸切特別見学会
~能楽堂のすべて見せます。謡も習ってみよう!~
講師:水野 聡 (古典翻訳家/能文社代表)

●申込・問合先:NPO法人新現役ネット 
電話 03-5730-0161  Fax 03-5730-0162

今、全国的に古典芸能がブームとなっています。とりわけ舞台芸能の代表格
「能」には、老若かかわらず、熱い注目が。今回、関東地方ではもっとも古
く由緒正しい、神楽坂矢来能楽堂を当会で借り切って、能楽堂のすべてを見
学する催しの第二回を実施いたします。能舞台と能の鑑賞のとてもわかりや
すい解説、能楽師による実演、参加者全員で謡う「高砂」体験コーナー等が
あります。

●見学メニュー●
1.講師による能舞台の秘密と”眠くならない”能の鑑賞法一口講座。
2.「秘すれば花」。世阿弥、風姿花伝の名言解説。
3.能の実技。観世流能楽師、奥川恒治師による謡と仕舞の実演と解説。
4.みんなで謡おう「高砂」ミニレッスン。お正月に家族に目出度い謡を披露
できます!
5.能役者になった気分で舞台を歩く!能楽堂舞台裏探検。一般非公開です。

江戸のエスプリ漂う神楽坂で、存分に古式ゆかしい能狂言の風情にひたってく
ださい。
【日時】11月12日(月)午前10時集合~12時頃解散
【集合場所】矢来能楽堂(東京都新宿区矢来町60 Tel:03-3268-7311)
      *地下鉄東西線神楽坂駅下車矢来町口より徒歩3分
大江戸線牛込神楽坂駅下車 A1出口より徒歩5分
【参加費】3,000円(準会員4,000円)見学と講師料
※2007年2月の第一回見学会と一部重複するメニュー(楽屋裏見学)がございま
す。あらかじめご了承ください。


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【4】言の葉ニュース            『葉隠講座』産経新聞に掲載
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 回を重ねるごとに、ますます武士道の真髄に深く踏み入ります。新現役ネッ
ト『葉隠 精読会』も今月で通算10回目の講座となりました。今回、当講座が
産経新聞に記事として掲載されましたので、お知らせいたします。

掲載記事はこちら


●講座名:武士道の真髄を読む。【葉隠 精読会】
日 時:第九回 10月25日(木)18:00~19:30 (毎月第4木曜日開講)
受講料:正・家族会員1500円(準会員2500円)テキスト代含む(各一回)
問合/申込:NPO法人 新現役ネット 電話 03-5730-0161
Fax 03-5730-0162Mail 

■定期講座。武士道というは、死ぬことと見つけたり」。己れ(私) を捨て
去り、信ずるところに命を捨てる葉隠武士。日本文化の精髄、日本精神の
原型は今も武士道にあり。人として誇り高く、生をまっとうすることを説
く全千三百話の武士道の聖典、それが『葉隠』の真実の姿です。本講座で
は現代日本が失ってしまった、しかしむしろ、現代日本に最も必要と思わ
れるテーマを毎回設定して受講生の方とともに音読します。
今回のテーマは「死」。ある意味、『葉隠』の書名よりも有名な「武士道
というは死ぬこととみつけたり」の真意を解読します。


★10月開講の中日文化センター新講座『南方録を読む』『葉隠を読む』も、
ともに大勢の受講生の方にご参加いただき、快調にスタート!
当講座も、紹介記事が10月4日付「中日新聞」に掲載されます。関東地方の
皆様には、のちほど【言の葉庵】HPにてご披露いたします。

……………《編集後記》………………………………………………………………

庵主は今、「ぐるっとパス」で毎週末美術館三昧の日々。
ぐるっとパスは、都内56の美術館、博物館、動物園などの施設の入場券・割引
券が一冊になったクーポンブックレットです。2ヶ月使えて2000円。だいたい2
つ入場無料の展示を見ればもとはとれます。先週はミッドタウン、サントリー
美術[BIOMBO(ビオンボ)/屏風 日本の美]、その前の週はオペラシティICC
[LIFE - fluid, invisible, inaudible ...坂本龍一+高谷史郎]を鑑賞。ICC
のLIFEは坂本の映像作品を再構成して、水を張りスモークをたいた水槽に投影
するというもの。見学者はその水槽の下に仰向けに寝転がって鑑賞します。
かなり美しく、ヤバイです。上映は1クール大体40分程度。睡眠する人もいます。
音楽はミニマル+ミュージックコンクレート。これは見たほうがいいと思うよ
(言)

……………………………………………………………………………………………
  
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 皆さんの声をお待ちしています。Good!の投稿は次号にてご紹介いたします。
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2007年10月14日 11:40

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