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漢字の祖先は、監獄で生まれた 【言の葉庵】No.24

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┣┫OW┃O               「漢字」は誰が発明したのか? 2007.12.10
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 今号は、しばらくお休みしていた「日本語ジャングル」がひさびさに復活!
テーマはズバリ「漢字は誰が発明した?」です。漢字の歴史、成立など堅苦
しいお勉強はともかくとして、4000年前、生まれたばかりの漢字の姿の何と
美しいこと!ぜひ文中リンク画像で「甲骨文字」「金文文字」「小篆」をご
覧ください。連載葉隠、テーマ「恥」第二回。鍋島武士の強悍さは、すべて
「恥」を忘れぬ心が原動力であることを、いくつかの名段落で確認します。
イベント情報は、2008年新春能のご紹介。怪僧一休作ともされる、問題作
「山姥」を、この機会に一度ご鑑賞いただきたい。あ、今号も長いです…


…<今週のCONTENTS>………………………………………………………………

【1】日本語ジャングル                   「漢字」は誰が発明したのか?
【2】連載葉隠 No.2                               「恥」第二回
【3】イベント情報                        新春能 研究会別会「山姥」
…編集後記…
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【1】日本語ジャングル          「漢字」は誰が発明したのか?
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 四方を海でかこまれながらも、建国以来多くの海外の文物が日本に伝来され
ました。学問、宗教、法律、芸術、医療、料理から茶法にいたるまで…。ぼく
たちの日本文化は実に多くの恩恵を隣国あるいは、遠国から受けている。数あ
る伝来物から「文化」という視点で見た場合、その貢献度、影響力からみて
ダントツ ナンバー・ワンなのは、お隣中国から渡った「漢字」ではないでし
ょうか。

 今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年
にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思いま
す。


漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」

 さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、
たった四民族のみです。

1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)

 1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現
存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけな
のです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字か
ら生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。
いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。

 言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高
次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発
明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕
生の瞬間に立ち会いましょう。

漢字の起源伝説

 漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認
できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも
3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い
伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介
しましょう。

【伝説1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつ
くった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。
たとえば、坎の卦(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本
でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が
長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と
呼んだ。

【伝説2】
 上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、
黄河から出現した、という説。

【伝説3】
 伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足
跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじま
りである、とする。

 これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭で
あったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実
に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、
おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えら
れていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティック
ではありますが。


なぜ、「漢字」と呼ばれるのか

 中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
 しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字
)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。

 時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。
「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文
字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
 秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単
に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。

 この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」
に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
 欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意
文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なの
です。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、
それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。
発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面か
ら見ていきましょう。


最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」

 現存する最古の文字は「甲骨文字」(画像はこちら)と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨
に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のも
の。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が
発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
 殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、
軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼
きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文
字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み
付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きさ
れたものも少数ながら見つかっています。

 甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。
同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要
素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認めら
れません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の
文字であることの傍証ともなっています。


骨の次は、金属に文字は刻まれた

 殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、
周(西周/BC11~7、東周/BC7~2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるよ
うになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文
字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました(画像はこちら)。
 鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
 などの数文字から、3~40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王
の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文
のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったの
に対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録
としての銅器金文のみが継承されていったのです。
 この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にも
バラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使
える文字を作ったのでしょうか。


中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?

 万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のこ
とでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制
定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」

「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推
進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代に
は書の「八体」と呼ばれるものがありました。

1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字

 これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書
が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています。
小篆の画像はこちら隷書の画像はこちら

今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。

 始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。
当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体であ
る、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨
大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄
介な代物だったのです。
 そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線
化し、
簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役
人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました。
画像はこちら 複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆
を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちな
みに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書か
れるようになっていきます。


楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!

 一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、
草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、
その発生順にいえば、

1.草書 → 秦末~前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末

 とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありま
せん。

【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわ
れますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということか
らきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐には
じまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全
土に普及、流通していきました。

【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、
草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は
一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、
現代のような草書に発展していきました。

【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は
隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど
連綿とはならない、中間的な書体です。

 この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。


「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。

 最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から

その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。

【仁 ジン】画像はこちら「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人
の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文
字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす

二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とす
る説があります。

【民 ミン】画像はこちら金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異
民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは
目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異
民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者を
さす言葉だったのです。

【税 ゼイ】画像はこちら
「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り
立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせるこ
とを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませ
んが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源で
す。

〔参考資料〕
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店

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【2】連載葉隠 No.2                   「恥」第二回
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 毎号、葉隠全千三百話の中から、日本精神を象徴する任意のテーマを設定。
珠玉の名段落をピックアップしてご紹介する連載コーナー。今回は、テーマ
「恥」の第二回です。
 


聞書第二 八一  
廣言を云ひて、事に臨みて
違却する人あるべし。

 唐に龍の絵を好む人がいた。衣服や道具にも龍の模様ばかりを入れている。
その愛着深きところ龍神に感通し、ある時窓の外に本物の龍が現れた。その人
はあまりに驚いたので、事切れてしまったという。内々広言している割に、い
ざ事に臨んで違却する人がいるものだ。


聞書第八 三
死ぬる命は同じ事なれば、
人を切りたる科にて死にたく候。

 木塚久左衛門、家来の話。さる年、川上実相院での法会に、紺屋町、田代近
辺の者、五、六人が集まって参詣した。帰り道で酒を飲み、店に長居していた。
久左衛門の家来は、宿元へ早く帰らねばならぬ用事があったので、連れにこと
わり日のあるうちに帰った。この後、連れの者たちは、何者かと喧嘩になり、
相手を斬り殺すこととなる。夜が更けてから、これを聞いた久左衛門家来は、
すぐさま連れの所へ駆けつけ、様子を聞き、
「これからきっとお究めを受けることになろう。かくなる上は、現場にそれがし
もいて、一緒に相手を殺した、と言ってはくれまいか。これから帰って、主人と
も口裏を合わせておく。喧嘩は一蓮托生のものだから、そなた同様にそれがしも
罰せられるはず。それが本望なのだ。理由をいうと、自分だけ先に帰ったと主人
に言ったところで、全く信じてはくれまい。主人の久左衛門は厳格な人ゆえ、た
とえお上が許してくれようとも、この臆病者めが、と自分を手討ちにするのは目
に見えている。されば、怖くて逃げたと悪名を着せられたまま死ぬことになる。
これは、何とも無念だ。どうせ死ぬのなら、人を斬ったという罪で潔く死にたい
から、お願いする。もし、その方が納得できないのなら、今この場で腹を切るべ
し」
 といったので、連れは仕方なくその通りに申告した。その後、家来は評定所に
て取り調べられたが、以上のように申し出た。しかし、真実は明らかとなる。こ
れには、お上も深く心を動かされ、この家来は褒美を賜った。
 以上は、大筋を伝え聞いたもの。委細は追って問いただそう。牛島新五から聞
いた。


聞書第八 八六
曲者は死場平生と替らざるもの。

 石井甚左衛門の申し分。甚左衛門が江戸の留守詰を勤めていた時、屋敷の中で
博打を開き、相手、石井杢之助の大小をカタに取った。これが明るみに出て、両
人ともに切腹。屋敷の御居門番、松野喜兵衛は江戸にて死罪を仰せ付けられた。
親の十郎太夫へは浪人を仰せ付けられる。十郎太夫は江戸詰で、この時倅を召し
連れて江戸に来ていた。
さて、甚左衛門は国元へ召還され、詮議の後、留置所へ入れられた。家老立会い
のお究めでは、甚左衛門は博打の一部始終を詳細に陳述した上で
「すべて私のしでかした悪事が原因。今、留置所に入れられて、追々処刑される
のを待つだけのことですから、何も思い残すことなどありません。しかし、たっ
たひとつだけ残念に思うことがあり、そのことで昼夜悔しく思っております。そ
れは、留置所の樋の穴に金網が張られていること。侍もこのようなざまと成り果
てては、樋の穴をもくぐり抜けて逃げようとするものか。金網を見るたびに、ほ
ぞを噛む思いがいたします」
 といった。
さて、お仕置きの当日、友の藤井嘉平次が寺へ暇乞いに訪れる。別れの盃を交わ
し、甚左衛門、肴の小芋を半分噛み切って、小声でいうには
「これは、出るまいか」。
 嘉平次が聞く、
「何が出るのだ」。
 甚左衛門、
「いや。その。胸ふさがって、なかなかに呑み込めぬ。小芋が、首の切り口から
のぞくと見苦しいことであろうな」
 といって、吐き捨ててしまった。続けて嘉平次にひそかに頼む、
「それがしこれまで、いっぱしの口を利いてきたが、実は臆病者であった。死に
場で、もし見苦しく這い回るようなことになれば、これまでの仲、さっさと始末
をつけてくれるようにお願いする。理由は、曲者は、死に場も普段と変わらぬも
のと聞いていた。昨夜までは変わらなかった。それが、寺に着いた途端、変わっ
てしまった。無念である」
 と。介錯は、大塚貞助。特に死に場は、見事であったと聞く。嘉平次から直に
聞いた話である。

■鑑賞

聞書第二 八一
「廣言を云ひて、事に臨みて」は、自身の身の回りでもよく見聞きする話では
ないでしょうか。自己啓発本などでよく喧伝される「ピグマリオン効果」とい
うものがあります。「自分は絶対○○する」と心の中で強く思い込み、まわり
にも宣言し、事あるごとに繰り返しいう。そうすることで、将来必ず、目標を
達成することができる…とされる手法。「龍」などという途方もないものを信
奉したため、いざ夢が叶った瞬間、あまりのことに驚き、絶命してしまった人。
 不可能を可能にしていくことが夢ですが、実現した場合の具体的な設計もも
たずに、ただ大騒ぎすることの「恥」を戒めたものです。

聞書第八 三
 どんな場合も人は、本能的には罪を逃れようとするのではないでしょうか。
不名誉であり、命も惜しい。にもかかわらず、無実の罪をつくり、自ら死を
求めんとする。この話には現代人からみて『葉隠』の思想の理解しがたい部
分が象徴的にあらわれています。自分だけたまたま早く帰り、災難を逃れえ
た。これを幸運と喜ばず、深く恥を思う久左衛門家来。加えて、二の足を踏
む友人にもお構いなく偽証を強要します。「死は一瞬」「名は末代」の戦国
武士の価値観が、葉隠成立の江戸元禄期、すでに多くの侍どもから抜け落ち
つつあったことが見て取れる。常朝の嘆きが聞こえてきそうな一話です。

聞書第八 八六
 上は「われひとり、死を恐れ先に逃げた」とされることに、「恥」を感じた
例。この話で、甚左衛門が感じた恥は二つです。
 ひとつは、「侍も罪人となって落ちぶれた時、死を恐れ恥も外聞も捨てて小
さな金網すら潜り抜けてでも逃れようとする、と思われた」こと。
 もうひとつは、「曲者というものは切腹の場に臨んでも、普段と変わらず沈
着冷静な態度を変えぬ。しかし自分はその日を迎え図らずも気が動転してしま
った」こと。

 葉隠の重要な思想に、禅の「只今の一念」があります。これは「武士道とい
うは死ぬことと見つけたり」の精神的基盤。今この一瞬、一瞬の時間を気を抜
かず、充実した生を生き、これを生涯貫くこと。生と死を「別物」として考え
ないことをあらわしている。その結果、死は特別なものではなくなり、これを
恐れることもなく、いついかなる時も心は「変わらなくなる」。死場に臨んで
「変わってしまった」ことを深く恥じたこの話は、むしろ最初の聞書第二 八
一「廣言を云ひて」の話に近いニュアンスがあります。
 鍋島武士にとって、死の恐怖や苦痛は死んでしまえばそれで終わる。それよ
りも孫子の代まで、己の名に「べっとり」と塗りつけられる「恥」をこそ心底
恐れたことが、これらの逸話からよく理解できるのではないでしょうか。


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【3】イベント情報              新春能 研究会別会「山姥」
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 新春能といえば、「翁」「高砂」や狂言「末広がり」などが思い浮かべられ
ますが、言の葉庵ではあえてこの曲をおすすめしてみたいと思います。

 山姥といえば、山奥に住む、人を喰らう恐ろしい鬼女。能の「山姥」は一般
的な山姥のイメージとは大きくかけ離れています。何千丈もの山を縦横無尽に
駆け巡り、天候をも自由に操ることのできる、超自然的な存在。しかしながら、
道に迷う旅人をわが宿に誘い、まことの山姥の名が都で語られぬことを恨んだ
後、旅人に謡を所望し、自ら「まことの山姥の舞」を山また山を駆け巡って、
舞って見せます。山の精霊、自然そのものとされる山姥の、恨み、舞う、人間
臭い一面を感じさせるところが、この能の面白さ。

 世阿弥作、または金春禅竹作ともされるこの曲は、哲学的で難解な詞章と思
想が特徴です。不立文字を伝法の基本的スタンスとする看話禅からみれば、自
然そのものであるスケールの大きな山姥をなまじいの言葉や理屈で理解しよう
とすることは、片腹痛いことかもしれません。一休禅に親炙した禅竹、または
世阿弥は、人と自然の太古の融和を、言葉ではなく、恐ろしい山姥に舞を舞わ
せることで、観客自から感得すべし、と作曲したものかもしれません。

 新春にわれわれ祖先が尊んだ、山の神を迎え入れてみてはいかがでしょうか。


研究会別会
2008年 1月 20日 (日曜日) 11時00分開演
場所 観世能楽堂

能「屋島」大事・語那須
 武田 宗和

狂言「箕被」
 山本 東次郎

能「梅」彩色之伝
 山階 彌右衛門

能「山姥」白頭・長杖之伝
 関根 知孝


<チケット料金>
指定席A  12,500円
指定席B  10,500円
自由席   7,500円
学生席   3,000円


<チケットお取り扱い>
KANZE.NETチケット予約
観世能楽堂 03-3469-5241
研究会同人方


山姥〔あらすじ〕
 都で山姥の山巡りする曲舞で評判を取った遊女百萬山姥。母親の十三回忌に
善光寺詣でを思い立つ。途中険しい山道で急に辺りが暗くなり困っていると一
人の女が現れ自分の庵に案内する。

 女は百萬山姥に山姥の山巡りの舞を所望し、われこそ「まことの山姥」と言
い捨て姿を消す。百萬山姥が曲舞を謡い始めると山姥が本来の姿で現れ山巡り
の様を見せまた山に帰っていく。

……………《編集後記》………………………………………………………………

 世の中の家庭電化製品は、ますます利口に、ますますひ弱になっている、と
いう話。今のマンションに引っ越して、かれこれ十三~四年の年月がたつ。
 最近ガクゼンとしたことがあって、それは、現在使っている電気製品のほと
んどが故障、もしくは不具合がある、というもの。リストアップしてみると。
テレビ・ビデオ・DVD・MD・ラジカセ・洗濯機・電話・FAX・パソコン・プリン
ター・家にあるすべての時計・電子レンジ・オーブントースター・エアコン・
シャワートイレ・照明具・掃除機・スチームアイロン・ヒーター。
 早い話、ちゃんと動いているのは冷蔵庫だけ。もうひとつガクゼンとしたこ
とがあって。それは、自分自身も同じ状態だ、あちこちこわれている、という
こと。
 腰・膝・足首・目・耳・鼻・のど・指・ひじ・歯・肺・肝臓・皮膚・爪・毛
髪。そして、とりわけ頭!脳!家電も体も、故障してウンともスンともいわな
いか、というとそんなことはなくて、時々とまったり、消えたりしながらも、
何とかやってはいけている。だましだまし、あと10~20年くらいは寿命がもち
そうかな、といった感じでしょうか。くっきりはっきり、正確に厳密に動いて
くれないものは、イライラするけれど、何とはなしに愛着もわき、手離せない
ものです。また、一年何とかもちこたえてくれてありがとう。と色んなものに
感謝する年の瀬となりました。(言)

……………………………………………………………………………………………
  
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 皆さんの声をお待ちしています。Good!の投稿は次号にてご紹介いたします。
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■ 編 集 言の葉庵
■ 発 行 能文社 http://nobunsha.jp/
■ 編集長 水野 聡 mizuno@nobunsha.jp 
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2007年12月17日 11:19

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