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日本の音楽って、一体何だ?

ぼくはたぶん、生まれてはじめて能を見て、その音楽にノックアウトされたのだと思う。若い頃は、洋楽一辺倒。バンドをやり、選曲家をやり、とにかく寝ても醒めても音楽、音楽、音楽。当時日本の音楽など、鼻にもかけていませんでした。楽理も単純だし、なんといっても垢抜けない、古臭い印象だったのです。

 しかしこれは、単に「無知」だったというだけの話し。社会人となってしばらくたった頃、初めて能を観て、いや、聞いて衝撃を受ける。鼓奏者が傍若無人に大声でかけ声をかけながら鼓を打つ。笛は音程もお構いなしに勝手に吹いている。謡には音階がない…。
 でも、全体として不思議な調和・統一・組織感があるのです。指揮者がいないにもかかわらず、得体のしれない厳密なルールに支配された、完全無欠の統合体、のように感じられた。

 さて、今回は西洋音楽と日本の音楽の違いを考えて見たい。とくに能のそれとの大きな違いをあげてみましょう。

1. ピッチ(音程) 絶対音がない。相対音程も厳密には固定していない。
2. スケール(音階) ツヨ吟・ヨワ吟とよばれる二つの音階組織があるが、その中の各音程のピッチも厳密には規定されていない。
3. タイム(拍子) メトロノームによる等間隔にて”リズムを保つ”概念がない。リズムとビートは「序破急」とよぶ、抽象的な緩急・調子の概念に従う。

 西洋音楽の楽理・楽典というメガネを通して、能の音楽を眺めた時、根本理論・概念・体系のすべてにわたり、全く異質、いやむしろ正反対にさえ映るものです。たとえとしてよく「鼓がメロディー・音楽的色彩、笛がリズム・ビートを受け持つ」などといわれます。能の音楽組織の特殊性をよく言い表していると思います。
 鼓がメロディー楽器、笛が打楽器。さて、その他にも、西洋音楽との違いは実に多くある。

・囃子方、地方、立ち方(舞手含)の総勢20名近く全員で音楽をつくる。
・音楽の動機、方向性を示す指揮者がいない。シテが舞、謡、囃子すべてのイニシアティブをとる。
・打楽器奏者(大・小鼓・太鼓)は打音より、かけ声(と間、コミ)を重要視する。
・楽譜がない。曲はすべて口頭伝承。
・能管(笛)は、謡の音程と合わせない。また能管一本一本、すべて音程が違う(篠笛はピッチが揃うように設計されている)。喉とよばれる木片が内部に挿入され、音程がわざと不安定になるよう設計されている。
・即興演奏は厳格に排除。四分の一音、八分の一拍ずれただけで曲が破綻する。
・謡は声を出すことよりも、間(息継ぎ・休符)を重要視する。
・同一曲であっても謡は流儀により、歌詞とメロディーが異なる。囃子方は流儀・家によって手付け(符割り)が違う。

 西洋音楽との違いはいちいち挙げていればキリがありません。自ら演奏・作曲するなど、西洋音楽と深く関わった人ほど、これらの違いには違和感というより、むしろショックを受けると思うのです。感じ方は二通りでしょう。二度と能楽堂に来ないか、気になって仕方ないので、繰り返し足を運ぶようになるかです。1970年代来日した、ドイツの前衛作曲家K.h.シュトックハウゼンは初めて能を見て、「奇跡だ」「世界で最高に洗練された芸術だ」と評したとか…。

 舞の囃子の反復性を評して「ミニマル ミュージックのようだ」という言葉をよく耳にします。ぼくはむしろ、ジャズのインター・プレイのようだな、と思ったものです。囃子方四人が互いの手に触発され丁々発止の応酬をする。または、シテに誘われ地を這っていた地謡が突然爆発する…。シテ=囃子=地謡の三つの音楽のカタマリが、それぞれ力と力で押し、かつ引き合いスリリングな音楽的展開を繰り広げ、巨大な「能」という構築物を形成、現前させるのです。
 まあ、ぼくがはじめて見た時は、地謡の斉唱が強烈な修羅のりのビートで畳み掛け、”ラップ”みたいだなあ…と思ったものですが(笑)。

 気になって仕方ない人、もっと知りたい人はこうして謡や囃子を習い出します。習って、いろいろわかってくるほどに、能を見る(聞く)楽しみは数百倍にも拡大します。舞事では”1mmの芸”といいますが、プロが舞台で何気なくやっているように見えることのひとつひとつが、驚異的な肉体的鍛錬と伝承の積み重ねであることが見えてくるのです。

 謡でいえば「花を見し」というたった五文字の文句の謡い方、声の扱い・調子が同じメロディーでも、「賀茂」「忠度」「吉野天人」「班女」「鞍馬天狗」では、それぞれ全く違うのです。
 『風姿花伝』の「問答條々」にもありますが、演能当日の各役相手方、番組構成、客層、時間、場所、気候などによっても演じ方・謡い方は全く異なります。これら伝承すべき情報量があまりに膨大なので、師から弟子へと口頭伝承するしかありません。つまり楽譜はあっても役に立たない。それで700年間ありません。

 クラシックであればベートーベン交響曲第五番のスコアがあれば、指揮者・楽団が変わったとしても、再現される音楽のアウトラインは基本的に同一です。
 能はたとえば同じ”羽衣”を同じメンバーで上演したとしても(実際これはありえませんが)、ワキがひとり変わるだけで、全然別の”羽衣”となる。保存~再生のシステムが各フェーズで
根本的に違うのでしょう。

 西洋音楽はもちろん今でも好きですが、文化の認識・理解もひっくるめていうと、たとえばミラノ・スカラ座の巨大公演を観たとしても、何となく「底の浅さ」を感じてしまうようになってしまいました。能が娯楽のためではなく、神や天上の存在に捧げられ、鎮魂を究極の目的とする芸術だということもあるでしょう。
 いずれにせよ洋楽、邦楽をくらべ、どちらが優れ、どちらが劣っているなどといえるわけはありません。ただ、近世の邦楽が、西洋音楽の流入により、五線譜に移植され、平均律になじんだ耳により「別物」となってしまった現在の日本の音楽状況の中で、能の音楽だけが、中国でもなく西洋でもない、純粋な日本独自のそれを保ち、伝承しているとはいってもよいと思っています。

2006年03月18日 22:13

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 日本古来の音楽にのせて踊ります。 踊りを始める前は、ただ眠たくてあくびの出る音楽だったのに・・・。 踊りという入口から知った邦楽の魅力。 ... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年04月17日 14:00

コメント

 初めまして。
京都で日本舞踊を教えております。
子どもの頃は全然受け付けなかった日本の音楽が、こんなにも心地よいことを教えてくれた、日本舞踊との出会いに感謝しています。
 名言・名句 とても勉強になりますね!
またお邪魔します。

投稿者 chiko : 2006年04月17日 14:04

ちこ様

コメントとトラックバックまことにありがとうございます。
そうなんです!日本の音楽がこんなに心地よく、素晴らしいものとは…。大人になるまでまったく気がつきませんでした。

日本舞踊はぼくにとって、まだ未知の領域ですが
よろしければ、いろいろと教えていただきたいと思います。

京都は学生時代よく遊びに行きました。ぼくの第二の故郷です。
ちこさんの流儀は美作流というのですね。

ブログ遊びに行きましたが、ちょくちょく寄せさせていただきます。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿者 庵主 : 2006年04月17日 23:37

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