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『奥の細道』発刊!

言の葉庵現代語訳シリーズ第七弾、松尾芭蕉不朽の名作『奥の細道 現代語訳』発売開始となりました!本書は、言の葉庵初の「文芸」分野作品。当書併載の『曾良旅日記』『奥細道菅菰抄』の二編により、奥の細道作品世界がより奥行きをもち、かつ芳香を放って、その姿を立ち現すものと思います。詳細は当HPの推奨名著をご覧ください。「立ち読みコーナー」もありますので、ぜひ内容をご確認ください。

 松尾芭蕉と『奥の細道』は、日本人であればその名を知らない人はおそらくいないと思われるほど、有名な人であり、作品です。しかし、芭蕉その人については意外に知られていないのではないでしょうか。本名は何と言う?俳句の師は誰?生まれはどこ?どこで死んだのか?若い頃、有名になる前は何をしていたのか?芭蕉の俳句の処女作は…?
 本書併載の代表的な江戸期『奥の細道』注釈書、『奥細道菅菰抄』には、「芭蕉翁伝」として、松尾芭蕉若年期の略伝があります。以下に再掲しましたので、ぜひご覧ください。


芭蕉翁伝

 祖翁は、伊賀の国、柘植郷(つげのさと)の生まれ。弥兵衛宗清の子孫である。(柘植郷に宗清住居跡があるという)兄は、松尾半左衛門といい、翁は次男で(正保元年生まれ)、最初の名は半七、後に忠左衛門宗房と改名する。(松尾家代々の実名は、元祖宗清の「清」の字を継ぐという。調べると、延宝以前の俳書には多く名を宗房としている。桃青としたのは東都下向以降である)国主藤堂家の同姓同国、上野の城士、藤堂新七郎良精の家臣となり、それより嫡子、主計良忠(俳名蝉吟(せんぎん))に仕えた。蝉吟は京都の季吟に俳諧を学んだ。ゆえに、翁もともに同門に入り、

 いぬとさるの世の中よかれ酉の年

と、発句したのは十四の年という。(明暦三年のこと)しかし、蝉吟は不幸にして、寛文六年の四月、早世してしまう。翁は、君臣の因、風雅の縁、もちろんひとかたならぬ悲嘆のあまり、遺骨を負って高野山に上り、報恩院に納め、六月帰国。その後、ひそかに遁世(とんせい)の志をもったのであろうか、二君に仕えぬ由を告げ、しきりに暇乞いを願い出たが、たって許可されなかったので、その秋であろうか同僚城孫大夫というものの門に短冊を貼り、

 雲とへだつ友かや雁の生わかれ

と一句を残し、国を去って、(この時、年二十三という)都に上り、季吟師のもとに遊学した。その後、東武に下向して、
(梨一がかつて東国に遊学したころ、本船町内、八軒町というところの長卜尺という俳人と交わったことがある。彼によると、
「わが父も、卜尺を俳号として、当時世にも知られていたもの。ある年都へ登った際、芭蕉翁と出会い、ともに東武へ下り、当面の生活のためにと、縁故をたよって水辺の官職を世話した。風流人のならい、俗事にうとく、その任に堪えなかったので、やがて辞職し、深川というところに隠棲。俳諧をもって生計をたてた」
と、彼の父が話したそうである。〈この時延宝六年、年二十三である〉また一説には、本船町の長序令というものにさそわれて下ったともいう。卜尺、序令ともに古い俳集にその名がみえる。あるいは両名、同一人物か)
深川の六間掘というところに庵を結び、天和二年まで住んでいたが(この間七年。年三十九)、その冬、回禄の災に遭い、しばらく甲州に疎開。彼国にて年を越し、翌三年夏の末ころであったか、深川の旧地に戻り、草の露を払って、芭蕉ひと株を植え、

 ばせを野分して盥に雨をきく夜かな

 の吟あり。この句にちなみ、在所を芭蕉庵と名付け、人々も芭蕉の翁と呼ぶようになったとか。
翌年、改元があり、貞享となる。この秋、江戸を発って、美濃・尾張から(この時四十一。ゆえに美濃にて、薄に霜の髭四十一、の脇句あり)、伊勢路を経て、故郷上野で越年した。翌貞享二年の春も、さらに大和・難波・京都などを通過し、(これが野ざらし紀行)その夏ふたたび深川へ立ち帰り、同四年の秋まで住んだ(この間にかしま紀行あり)。冬にはふたたび上方へ旅立つ(笈(おい)の小文紀行がこれである。時に齢四十四)。翌年さらに元号を改め、元禄となす。この年、八月末ころ東武へ帰り、翌元禄二年の春、北国行脚におもむくこととなる(奥の細道紀行がこれである。時に齢四十六)。その後、美濃・尾張・伊勢路を経て、大津で年を越し、翌三年の夏、石山の奥に幻住庵を結び、四年秋までここに隠棲する(この間に嵯峨日記あり)。その後、庵を出て東武へ下り、同七年の秋(東武の庵に三年居住した)また東武を出発、東海道を経て、石山の幻住庵にしばらく留まった。京都などへ往来しながら、その後故郷伊賀へと立ち越え、奈良を経て大坂に逗留する内、病に犯される。十月十二日に世を去った。(享年五十一。この時の旅宿は、大坂御堂前花屋仁左衛門というものの借家で、地主の家は今も現存する)遺体は江州松本の義仲寺に葬られる。(この病中から終焉までのことは、其角が編んだ枯尾花集、支考の笈日記等に見える。よってここに記さず)

 右伝記は、上野の俳人、桐雨の筆記(桐雨は猿雖の曾孫で、猿雖は翁の門人であった)、加賀若杉の僧、既白坊の覚書をあわせて、ここに記した。

 芭蕉翁を「翁」と称することについて、去来の旅寝論に、
「昔、其角がわれに語る。このたび都に来たって、わが師の名高いことをますます知った。同門の人みな、師を尊敬して翁とお呼びするばかりではない。他門の人まで、われに向かって翁が、翁がという。季吟、そもそも師の師である。季吟の子、湖春から率先して、翁と呼ぶのだ。されば、門人のはばかることはあるまい。今後、句集を出すときには、翁と書くべし」
とある。(調べると、祖翁の古俳集に武蔵曲というものがある。序文は季吟の撰にて、その文に以下のようにいう)

 今は昔、逍遥遊びのおきなというものがあった。細川の流れに和歌水を汲みながら、老いのさざ波、高波越えて、滑稽の島に逍遥し、ついにはその島守となる。予、ちなみにその島風(しまぶり)を問えば、おきな答えていわく。この島は世界のまんなかなので、あまり上手すぎるものは歓迎されぬ、と。以下略

 蕉師を翁と称することは、あるいはこの序文がはじまりかも知れぬ。時は天和二年にて、祖翁の春秋はいまだ四十歳に満たず。しかしながら、この号を得られたこと、孤高の大徳、いよいよ尊ぶべきであろう。

伝記 了

2008年03月11日 22:29

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