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勝つためのノウハウ『五輪書』後半

 本日、北京オリンピックいよいよ終幕!ここ一番の試合、競技にもてる力を尽くして感動を与えてくれたすべての選手に惜しみなく拍手したいと思います。
さて、「必ず勝つための」ノウハウを、剣聖宮本武蔵『五輪書』に学ぶ、臨時特集。後半をお届けしましょう。


■勝つ!ノウハウ塾 第六回「意中の人の本心を知りたい」

 恋愛、結婚は現代人にとって人生最大の大一番ではないでしょうか。取りこぼしは許されず、日頃大胆な豪傑も人が変わったように、ことのほか慎重になりがち。さて、普段何気なく接している恋人や片思いの相手。

相手の気持ちがはっきりしない、どうしても読めないときにどうするか…。また、携帯がかかってこない、メールの返事がこないとき、どうするか?
 こうしたときの打開・必勝パターンを武蔵は、こう教えています。


一 四手を離す
 四手を離すとは、敵も自分も同じ状況になり互いににらみ合って、戦いが膠着してしまっている状態。このときにらみ合っているなと悟ったらその心を捨て、別の方法で戦局を打開することをいう。
 集団の兵法でも四手の状態になれば、戦線が膠着し兵力も損傷するものだ。一時も早く考え直し、敵の意表をつくような方法で事態を打開することが最優先課題だ。また一対一の兵法でも四手になっていると思ったら、即座に発想を転換し、敵の状況を見極めて、全く別の手段で思い切って出ることが肝心だ。よくわきまえなさい。

解説→ひとつは「全く別の手段」。もうひとつは「思い切って出る」ことが最大の攻略方法ですね。膠着状態は、往々にして双方同じ状況に陥っているものです。
前回の「先手必勝」のパターンの応用編。


一 陰を動かす
 陰を動かすということは、敵の心中が読めないときにとる手である。
 集団の兵法でどうしても敵状が見えない時など、自軍より強く攻撃を開始する振りをして見せ、敵の手の内を見るものだ。手の内が見えてしまえば、それに応じた手段で勝つのはたやすいだろう。
 また一対一の兵法でも、敵が太刀を後に構えたり、脇に構えたりして意図が読めない時、こちらから不意に打ち込む様子を見せれば、敵が本当に使おうとしていた動きが太刀に表れるものである。事露見すれば、その太刀筋に対応して確実に勝てることがわかる。ただこのとき油断して、攻撃の拍子がずれないようにしなくてはならない。
 よく稽古すること。

解説→上の「四手を離す」のように全く新しい行動を不意に起こす…ように見せかける、という高等手段。こちらから動く気配を見せて、相手の動きを誘い出し、予測するのです。良いにしろ悪いにしろ、なんらかの反応はあるもの。そしてここで一番大事なのは、その反応をとらえて即座に次の手を打つこと。反応があった、と「油断して、攻撃の拍子がずれ」てしまうと、元の状態に後戻りし、状況がさらに悪化します。


■勝つ!ノウハウ塾 第七回「自分より強い敵に勝つ」

「正々堂々と勝負」「卑怯な手は恥」といってみすみす勝機を逸し、格上の相手はもちろん、勝てるはずの相手にも負け続ける…。日本人にありがちな闘い方ですね。これは、精神論としてみても実は「弱い」のです。なぜ、負けるのか。どうしたら自分より強い、格上の相手に勝利をおさめることができるのか?


一 むかつかせる
 むかつかせるということはいろいろある。
 ひとつにはきわどいという感覚。
 ふたつめは無理、無茶。
 みっつめは予期せぬこと。
 よく考えなさい。集団の兵法では敵にむかつかせることが大事だ。敵が予想もしなかった局面で激しくしかけ方針も立たないうちに手段を講じ、先手をとって勝つことが大事だ。
 また一対一の兵法でも序盤は余裕を見せておき、急転して急襲するのだ。敵の心の動揺、心理状態に応じて息をもつかせず、その機を逃さず勝ちに行くことが肝心だ。よく検討して見なさい。

解説→子供の喧嘩のやり方、といってあなどってはならない。強い敵ほどプライドが高いのです。撹乱戦法は、どのような勝負でも正当な基本的メソッドである、と冷静に認識すべき。


一 角にさわる
 角にさわるというのは、どんなものでも強く重いものを動かす場合、まともには動かしにくいものである。
 集団の兵法では敵の軍容を見て、強兵を配備した戦陣の先端の角に目をつけるのだ。すべての物事は角が損なわれると全体がそれにつれて損なわれるものだ。いろいろと損なわれている部分でも、特に角を、角をと狙って勝利を得ることがコツだ。
 一対一の兵法では敵の身体の角を傷つけ、身体全体を弱らせ、崩れるようになったらもう勝てる。これらをよく検討して、必勝ポイントを見極めることが大切だ。

解説→どんな巨大な組織であっても、どんなにつけいるすきのない強大な敵であっても、必ずウイークポイントがある。それを見つけ出し、タイミングをみはからかって「角」を重点攻撃すること。弱い者ほど、選択と集中です。

一 たけくらべ
 たけくらべとは、どのような場合でも、いざ敵に打ちかかろうとするとき、身体が縮こまらないように足を伸ばし、腰を伸ばし、首をも伸ばし、強く踏ん張り敵の顔に自分の顔をぴたりとつけ、身長をくらべる時、くらべ勝ったと思い、背丈が高くなった気持ちで強く向き合うことが大事だ。工夫してみなさい。

解説→勝負は相手と向き合ったとき、すでについているといいます。同じ人間と人間。すべてにわたって劣っているいわれはありません。相手は自分より、格段レベルが低い…、と相手を冷酷に見下ろすのです。ここから勝負がスタート。相手を飲み込んで勝ちに行きます。


■勝つ!ノウハウ塾 第八回「必殺の一撃」

 狙い済ましたカウンターパンチ。決勝点のゴールキック。
戦術、戦略を尽くして競ってきても、最後の瞬間に決定打を出せなければ、勝負を失ってしまいます。その道の達人の決定打「必殺の一撃」とは?
 今回は、剣聖宮本武蔵、剣術の必殺技をご紹介。そのまま現実のシーンに応用できませが、敵を一撃で倒す技のポイント、コツ、タイミング、心理パターンを学びたいと思います。


一 流水の打ち
 敵と間合いを越え、競り合いになったとき、敵が早く引こう、早く外そう、早く太刀を張りのけようとしたら、自分自身の身体も心も大きくなったような気持ちで、太刀が自分の後から何かに押されるように、存分にゆったりと大河の流れが止まって見えるように、大きく強く打つ。これを流水の打ちという。この打ち方は、体得すれば非常に打ちやすいものだ。実践する場合は、敵との距離感を見計らうことがコツだ。

解説→必殺の一撃は、必ずしも目にも見えない超早業ではありません。確実に当たり、確実に敵を打ち倒す、スケールの大きな「手」を大河の悠久な流れにたとえたところが、武蔵一流の芸術的センスといえます。


一 太刀とは別に打つ身体
 身体とは別に打つ太刀ともいえる。
 一般的に敵に打ち込むには、太刀と身体がいっぺんには動かないものである。敵の出るタイミングを見計らい、先に身体が打つ体勢となり、太刀は体勢にかまわず自動的に打って出る。 場合により、身体は静止していて、太刀だけで打つことはあるが、普通は身体が先に打って出、太刀がその後出るものだ。よく研究し、打ち方を身につけなさい。

解説→たとえば、メーカーが起死回生の画期的な新製品を市場に打って出ようとするとき。広報・広告・ネットなどの市場操作や、流通・販売店・小売への営業施策を綿密に時間をかけて尽くします。そして市場がのどから手が出るほどその製品を欲するほどに機が熟したとき、はじめて製品をチャネルに投入する。太刀=製品が、先走って出てしまうと当たらないということです。


一 打つ事と当たる事
 打つという事と当たるという事は、別のものである。
 打つという心は、どんな打ち方であれ、思いを込めて確実に打ち込むことをいう。
 かたや、当たるとは、たまたま突き当たったというくらいの心で、予想外に強く当たり、一撃で敵が死んでしまったとしても、これは当たるということだ。
 打つ、とは意図して打つことだ。考えなさい。敵の手であろうが足であろうが、当たるとはまずそこに当たることだ。当たったところを強く打つための照準である。当たるとは、接するというほどの意味だ。よく習って身につけば、全く別だとわかる。工夫しなさい。

解説→当たらないものは、はずれ。打とうとせずに、たまたま当たったものは、まぐれです。照準を定め、確実にヒットできるものだけが、必殺の一撃となります。

一 顔を刺す
 顔を刺すということは、立ち合って敵の太刀と自分の太刀が向き合った時、太刀先を敵の顔に突き刺すように常に向けていることが大事だ。
 敵の顔を突く気迫がこもれば、敵は逃れようと顔も身体ものけぞるものだ。敵をのけぞらせれば、色々と勝つ算段がある。よく工夫しなさい。
 勝負の最中、敵にのけぞる気配があれば、勝ったも同然。以上のように、顔を刺すということを忘れてはならない。兵法を稽古する中でも、この方法をよく鍛錬すべきである。

解説→どんな強敵であっても、おのれのウィークポイントにぴたりと鋭利な切っ先を突きつけられ、常にプレッシャーを受け続ければ、相手がいくら弱小であっても「ひるむ」もの。「一撃」ではありませんが「必殺」の戦術です。

一 無念無想の打ち
 敵も打ち出そうとし、自分もまた打ち出そうとしている。
 構えも打つ体制、気力もまさに打つ気力となり、手が自然に「空」から上がり、徐々にスピードを上げ激しく打ち込むこと。これを無念無想といい、打ち方の奥儀である。
 たびたび出会ううち方なので、よく習い体得して、くり返し稽古すべきだ。

解説→「打つ」という気力が極限まで高まると、おのれの意志とはかかわりなく、「空」からおのずと一撃が繰り出されます。このレベルの攻撃は、もはやいかなる強敵が、いかなる手立てをもってしても回避できません。


■勝つ!ノウハウ塾 第九回「速読法とM&Aの欠陥」

"祝!日本女子ソフトボール金メダル"

世の中すべて、「より速く」「より大きく」「より遠く」「より長い」ことが、良いとされ、これを求める傾向があります。また、その逆もしかり。「より長持ち」「より小さく」「より近く」「よりコンパクト」に…、を求める風潮が、もう一方ではあります。武蔵は、そのいずれも否定します。速いことも遅いことも、大きいことも小さいことも、いずれも良くない。負ける、と。その理由のひとつは、いずれも基準、ほどよい拍子に外れているということ。もうひとつ、いたずらに、速さ、大きさに偏向し、依存することは、弱い心の現われである、ということです。

一 他流で大太刀を使うこと
 他には大きな太刀を好んで使う流派がある。当兵法ではこれを弱い流派と見抜く。理由は、この流派はどんな場合にも人に勝つという兵法の理論を全く知らず、太刀の長さを唯一の利点として、遠い間合いからでも相手に勝ちたいと考えているから、長い太刀を好むのだ。俗に「一寸手勝り」というが、まさに兵法音痴の言い草だ。はっきり言うが兵法の道理の心得がないから、長さに頼って遠い距離から強い敵に勝とうとする。これは臆病の証拠だ。それで弱い兵法といったのだ。もし敵との間合いが近く組み合うほどの距離ならば、太刀が長ければ長いほど、打っても効かず振り回せず、長さが重荷になって小脇差や丸腰の相手にも劣るものだ。長い太刀の信奉者にはその持説もあろうが、そんなものは屁理屈に過ぎない。世の真実の兵法より見れば道理に適うわけがない。第一長い太刀に短い太刀のものはすべて負けるとでもいいたいのか。あるいはその場の状況により上下横のスペースの狭い時、脇差しか使えないときなどにも、長い刀に頼ろうとする心が兵法に対する不信感の表れで、よくない心だ。長い太刀に向かない小柄で体力のない人もいるのだ。古くから大は小を兼ねるとも言うし、無暗に長い刀を非難するわけではない。ただ長さにのみ偏向する心を嫌うのだ。集団の兵法でたとえて見れば、長い太刀とは大軍団、短い太刀は小軍団である。小軍団と大軍団の合戦はありえないのか。小軍団が大軍団を打ち負かした例は多い。当流においてこのような偏向した狭いものの見方を排斥する理由は以上だ。よく考えて見なさい。

解説→「弱肉強食」「大は小を兼ねる」の俗信をずばりと切って捨てています。己を守るのも、己を高めるのも、己のみ。武器の属性に一切頼ろうとしないのは、「寄らば大樹」の思想のかけらもなかった戦国武士の基本的なセオリーなのです。ひところメガバンクの吸収合併が相次ぎましたが、競争力は本当に高まったのでしょうか。疑問です。


一 他の兵法で速さをよしとする
 兵法ではただ速いということは本道ではない。速いと感じるのは物事が正しい拍子に合っていないので、ずれた分だけ速いとか遅いとか思うのである。その道の達人になれば速くは見えないものだ。飛脚を例にとれば、一日に四・五十里もいくものがある。これも朝から晩まで速く走っているわけではない。未熟な飛脚は一日中走っても、さして距離は伸びないものだ。また能の世界で、上手が謡う謡に、下手が一緒に謡えばとかく遅れてしまうので、忙しく聞こえるのだ。また鼓・太鼓で老松を打つ場合、静かな曲だが下手はここでも遅れたり、先走ったりしてしまう。高砂は調子が急だが、速いということは悪い。速いとは、コケるといって拍子の間に合わない。むろん遅いのはもっとよくない。これも上手の場合、ゆるゆると見えて決して拍子の間が抜けない。万事達人のすることは忙しく見えないものだ。このたとえで、速い遅いの道理がわかるだろう。とりわけ兵法の道では、速いということはよくない。そのわけは、これも場所により沼やぬかるみでは身体も足も速く動かせない。太刀もなおさら速く斬ることはない。速く斬ろうとすれば扇や小刀でもないので、ちょんとやり、まったく斬れないものだ。よく考えてみなさい。集団の兵法でも、速く急ぐ心が妨げとなる。枕を押さえるという口伝を心得ていれば、何も遅いということは関係ないのだ。また相手のむやみに速いことには、そむくといって静かな気持ちになり、人に引きずられないようにすることが大事だ。この心持を工夫し日頃鍛錬することだ。

解説→武蔵の「速い」「遅い」の定義は、まさに目からウロコです。速さや遅さというものは、そもそも錯覚であり、真実は正しい拍子にあっているかいないかのみ。これも上と同じく、速さに頼る心を嫌ったものでしょう。日常生活でも、急ぎ、せかされ、あせってやる仕事がうまくいくことはほとんどありません。目にも留まらぬ名人芸は決して「速い」のではなく「間が抜けない」。修行の結果まったく「無駄」がなくなったからなのです。わたしたちは、人間の脳にコンピュータのロボット検索を応用しようとしている速読法の根本的な誤りに、いつ気がつくのでしょうか。


■勝つ!ノウハウ塾 最終回「奥の手を出せば必ず勝てるのか」

オリンピック開催にあわせてお届けした、勝つための「ノウハウ塾」、今回が最終回となります。

 武蔵が生涯闘ったのは、すべて真剣勝負。ただ勝つことだけをめざした、命の取り合いです。勝てばすべてが手に入り、負ければむなしく野に白骨をさらすのみ。『五輪書』には実践のみがあって、論理のための兵法、見かけを競う美技などかけらもありません。

 さて、今回は「表=初心のための基礎」、「奥=達人のための奥義」の違いを明快に定義しています。くみしやすい敵には基礎の剣術で軽くあしらい、手ごわい強敵には奥の手、秘術をつくして闘う…。これは本当に有効なのでしょうか。しからば奥の手で常に闘えば、すべての敵に勝てるというのでしょうか。


一 他流で奥表としていること
 兵法の教えに何を表といい、何を奥といおうか。芸事では事により極意・秘伝などといって、奥儀の段階はあるが、まさに敵と斬り結ぼうとするに当たって、表の手で戦って、奥の手で敵を斬るということはあるまい。当兵法の教育方法は入門者にはその人の技量に応じて、できそうなことから習わせて、すぐ呑み込める道理を最初に教え、理解の及ばないものはある程度稽古が進んで理解できそうになったら、徐々に深い道理も伝授してゆくのだ。しかしほとんどのレッスンが敵との対応方法を教え、体得させるものなので、そもそも奥と入り口の区別はない。例えば山の奥へ分け入りさらに奥へ行こうとしたら、元の入り口に戻ってきたりするものだ。どんな道のことであっても、奥の手が役立つこともあれば、初歩の手で効果のあることもある。これら戦いの道理において、何を隠し何を公開する必要があるのか。そういうわけだから、私は道を伝えるのに誓紙や罰文などというものを不要とするのだ。この道を学ぼうとする人の知識や能力に応じて、正道を教え、兵法から生じる悪い癖、五道・六道を捨てさせ、自然と兵法の誠の道に進み、心に一点の疑いもない境地に導くことが当兵法の教育方針である。良く鍛錬を積み重ねるように。

解説→武蔵の言葉は、「奥の手」を売り文句に、上手に商売をする剣術道場を皮肉ったもののようにも聞こえます。そもそも秘伝、奥義というものは日本の芸道上、一子相伝のはずです。理由はふたつあり、ひとつめは道を究めた達人同士でしか伝え合うことのできない、最高レベルの難易度の技術だからということ。もうひとつは、秘伝の内容自体はさしたる特別なものではないにせよ、世の中の誰一人そのことに気づいている者がないようなこと。たとえば、世阿弥、『風姿花伝』の「花」がこれにあたります。
 結局ここで武蔵がいいたかったのは、「奥義まで窮めたのだから、必ず勝てるはず」「奥義さえあれば大丈夫」…、とこれに依存する弱い心を戒めたものです。前回の「速さ、長さ」に頼ることと同じ理屈ですね。
 もうひとつ重要なポイントは道をたどれば、もっとも奥が、実は入り口とつながっていた、ということ。これは日本独自の思想、「道」の根本的な考え方です。「空を道とし同時に道を空とする」。五輪書、最終章「空の巻」を見てみましょう。

 二刀一流の兵法において、空の巻として書き表したことは、空という境地は物がなく、未知の事柄を空と定義している。もちろん空という何かがあるわけではない。あるがわかって初めてないがわかる。これが空の境地である。世間一般の俗見では理解できないものを空としているが、これはまことの空ではない。すべて迷いというものである。これを兵法の道に置き換えて見ると、武士道を行くに当たって士の法がわからないことは、もともと空ではなく、色々誤解して仕方がないのでこれを空とか呼んでいるが、もちろんこれもまことの空ではない。武士は兵法の道をしっかり身につけ、必要な関連武道もたしなみ、武士道が明白になり心迷わず、朝夕鍛錬を怠らず、心と意、二つの心を磨き、観と見二つの眼を澄まして一点の曇りなく、迷いの雲晴れた所にこそまことの空の境地があるのだ。まことの道に至らない間は仏法にも世法にも導かれずひとりひとりが勝手に確かな道と思い込み、よいことをすると思っていても、心の正道に基付き、世間の大きな物差しで計ってみれば、その身その身の心の傾きやその眼その眼の歪によって、まことの道からはずれていってしまう。こういう心があるので、まっすぐ続くことを本意とし、まことの心を道とし、兵法を広く行っては正しく明らかに大局的に物を考え、空を道とし同時に道を空とするのだ。
  空には善があるが悪はない。智は有である。利は有である。道は有である。心は空である。

解説→「あるがわかって初めてないがわかる。これが空の境地」「理解できないものはまことの空ではない。すべて迷いというものである」。
 上の「入り口と奥がつながる」ことが、まさしく「空の境地」なのです。それがいまだ見えていないため、仕方なく「空」と認識すること、これは「迷い」である、と切り捨てます。
 武蔵は晩年、肥後細川藩に止宿し禅宗に徐々に帰依していきますが、その中ではじめてこの「空の境地」にたどり着いたのではありません。13歳より、六十数度に及ぶ真剣勝負の修羅道を潜り抜けながら、生身の肉体に感得したものを、禅の語法により悟ったものに違いありません。
 観念やたとえではなく、リアルに「心は空である」という境地から落ちてくる剣をかわせる者は、もはやこの世にはなかったものと思われます。

2008年08月24日 09:34

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