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言の葉ブック第八作『現代語訳 歎異抄』本日発刊!

 浄土真宗の聖典。親鸞の語録を玉のように散りばめた宗教書の最高傑作『現代語訳 歎異抄』(PHPエディターズ・グループ)をお届けします。全国書店にてお求めいただけます。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。これは、悪人正機説・他力本願を説いた親鸞のもっとも有名なことば。生まれつき才能・素質をもち、かつ超人的な努力と難行修行の末はじめて悟り、往生が叶うとした、従来の仏教観に親鸞は敢然と「否」をつきつけます。われらのごとき煩悩具足下根の凡夫、そしてなによりも極悪非道にして地獄に落ちるしかすべのない哀れな者をこそ、阿弥陀如来はあふれる光明に一人残らず抱き取り、かならずや極楽に往生させてくれる…。ただ必要なのは、弥陀の本願を信じて唱える念仏のみ。南無阿弥陀仏、なもあみだぶ…。

 『歎異抄』は、真宗教徒、仏教徒だけが読む教義書では決してありません。「なぜ生まれてきたのか(こんな苦しい娑婆に)」「死んだらどうなるのか(悪いことをすれば地獄に落ちるのか)」「どのように生きていけばいいのか(善を積めば救われるのか)」を、誰にでも理解できる、やさしいことば、真実のことばで綴った「智恵の書」「慈悲の教え」なのです。著者とされる親鸞直弟子の唯円の文章はまことに美しい。徒然草、方丈記とならんで中世三大美文と称されています。しかしそれは唯円の文才と修辞の賜物ではなく、あくまで師親鸞の生前のことばを一言も聞き漏らすまい、書き残すまい、と魂をけずるように一字一句筆写したもの。読めばわかりますが、全文が親鸞のことばをそのまま写し取ったもの。唯円の創作、脚色の跡は微塵も感じられません。そのくらい真に迫る「師と弟子の対話」が『歎異抄』にはみごとに息づいています。

 さて、『歎異抄』にはいったい何が書かれているのか。また、何を伝えんとしたものか。その主題を本著「作品の案内」からご紹介しましょう。

本書の主題

 最初に、本書の主題ともいうべき、「信仰の告白」について述べてみたい。
 偉大な宗教家の事跡を順次たどることよりも、親鸞という一信仰者の魂の声を聞くことこそ、『歎異抄』の本質を知るもっとも近道だと思うからである。
 親鸞の略歴と本書の概要については、主題を確認した後、あらためてご紹介して行こう。

 さて、本書が宗教書の一分野を越え、また世代・性別・職業、国籍をも越えて、多くの読者に熱烈に支持される理由は何であろうか。現在一般的には、日本仏教思想の極致を示す書と評価され、

・念仏の本義を明らかにする
・親鸞の信仰が、やさしい和文で読める
・悪人正機説の解示
・親鸞と門弟の真に迫る対話
・信心による正しい生き方を示す

 などが、その魅力としてあげられている。
専修念仏、他力本願の教義がやさしい言葉で説かれていることもひとつの魅力といえようが、一読して胸に迫るのは、なによりも親鸞の生の言葉、迫真の話法ではないだろうか。ただ口で熱く語るだけではなく、脇目も振らず相手の心の深奥へ、おのれの全存在を叩き込んでいくような言葉のかたまり。信心のほとばしり。これこそ本書の生命といえよう。

 師親鸞の告白とその声音が、直弟子であった唯円の耳の中で、師の没後二十年以上が経っても、なお鳴り響き、鳴り止まないのだ。そして『歎異抄』がなる。

 ここで本書より、信仰の告白を主題とする二つの段落をご紹介したい。

 中国後漢時代に「疾風知勁草(しっぷうにけいそうをしる)」という成語がある。嵐の過ぎ去った後、はじめて本当に強い草木がわかる、との意。危難こそ人の真価を問う、とも言い換えられよう。国、時代を問わず、すべての宗教が負わねばならぬ宿命に、弾圧と迫害がある。専修念仏の禁止、法然親鸞両人流罪が処せられた「承元の法難」を皮切りに、この宗派はいかに多くの弾圧を、しかも長きにわたって受け続けてきたことか。また、個人の信仰に目を転じた時、本願他力の信仰はいかに多くの異義・邪説にさいなまれ続けてきたことか。
 信仰は危難に打ち克つことで、その光を増す。絶体絶命の信仰の危機。その瞬間、親鸞の告白がいかなる無碍の光を放ったか。その例を第二条、第九条から見てみよう。

〔第二条〕
 親鸞が晩年、布教の基盤関東を去り、京都へ戻った後、関東の信者の間に様々な異義が起こりだした。親鸞はこれを収拾し、正しい信仰を伝えんと、息子の善鸞(ぜんらん)を名代として関東へ派遣。しかし善鸞は異義を正すどころか、その片棒を担ぎ、挙句の果てに、
「父の教えた念仏は間違いであった。実は父が深夜、私ひとりにだけ伝えた秘密の往生の方法がある」
 などといい、関東の同心衆は大混乱に陥ってしまう。
「かくなる上は、聖人にじかにお会いし、まことの話を聞かずばなるまい」
 と、主だった門弟たちがこぞって上洛し、親鸞に詰め寄った場面が、冒頭の
「おのおの十余ヶ国のさかひをこえて」
 である。親鸞の返答いかんによっては、これまで築き上げてきた念仏他力の法門が一挙に水泡と帰しかねない。一触即発、凄まじい緊迫感に満ち満ちた場である。
「秘密の法を知りたくば、比叡山の立派なお坊さんに聞かれよ」
 と淡々と語り始めた親鸞の言葉は一片の申し開きもない、恐るべき純粋な信仰の告白であった。

「念仏とは何か、まるで知らぬ」
「法然聖人に騙され、地獄に落ちたとしても後悔はしない」
「もとより地獄こそわが住みかなり」
「阿弥陀様、お釈迦様、善導大師、法然聖人、親鸞は、そろってみな嘘つきか」
「私の信心はこの通り。捨てるのはみなさまの自由」

 旅塵と疑惑にまみれた同朋衆の心に、再び消えることのない信仰のまばゆい光が満たされたことは疑いもない。

〔第九条〕
 信仰者が遭遇する最大の危機、心の支えの瓦解をつづった段落。
 個人にとっては信仰の消滅、宗門にとっては教義の崩壊という最大の試練の場が描かれる。親鸞に心酔、敬服する若い門弟唯円が、思いつめた顔で師のもとを訪ねる。
 そして告白した。
「みなさま、念仏は嬉しいのでしょうか。浄土へ早く参りたいと思うのでしょうか。私は今日まで一度もそんなことを感じたことがありません」
 ややあって、静かに口を開いた師の言葉は、
「よくいってくれました。実は私もおまえと同じ心。これまでずっと不審に思っておったのです」
 であった。キリスト教徒であれば、「神を信じない」と告白する信者に、牧師が「私も信じない」と応じるようなもの。恐るべき、不信仰の告白ではなかろうか。しかしこの後、人間のもつ煩悩自体によりそのように感じられるということ、またむしろそうした者こそ救われるということが説かれていく。
 しかし、この何をも恐れず、どこまでも偽らぬ師弟間の告白こそ、無垢の信心の証ではないだろうか。その瞬間に阿弥陀仏の目もくらむほどの光に包まれ、師弟二人はすでに救済されている、と読むべきであろう。

2008年08月28日 00:17

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