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現代人を叱れ!

  昨今の日本では、親が子を、教師が生徒を、上司が部下を、全く叱らなくなりました。もし叱れば逆切れされる、叱ってもいうことを聞かないので仕方ない、なるべく面倒を避けたい…。当人にとって叱らない理由、言い逃れはいろいろあるかもしれませんが、結局は相手(わが子、教え子、後輩)に興味・関心を失ってしまったのでは。自分さえよければ将来の日本と世界がどうなろうとも、「そんなの関係ネエ」と。…少し言い過ぎでした。ごめんなさい。

 閑話休題。昔の日本人は実によく目下を叱りました。ぼくも小学校の時、親、先生の鉄拳を食らいました。今、それをありがたいと思っているし、まったく恨みに思ったことなどありません。しかし年齢を重ねた今、誹謗中傷はあるけれど、誰からもほとんど「叱られ」なくなった。いや。稽古事の師匠だけは、いまだ猛然と雷を落としてくれる。でもそれは芸事上のことだけですが。

 さて、叱り方は難しい。ただ遺恨を残し、互いに何もプラスがないのは叱り方がまずいからです。『暮らしの手帳』(花森安冶編集長)の特集では、「良い叱り」「悪い叱り方」のそれぞれ4ヵ条があるという。

■良い叱り方4ヵ条
(1)その場で短く、(2)自分の言葉で、(3)理由とともに、(4)行動そのものを叱る

■悪い叱り方4ヵ条
(1)感情先行型 (2)人格否定型 (3)責任転嫁型 (4)お説教型

 付け加えるなら、ぼくがかつて在社した、米国の150年企業ではHRノウハウがさすがに蓄積されており、「部下を叱る時は、誰もいない別室に連れて行き1対1で」「部下をほめる場合は、なるべくチームの大勢がいる前で大々的に褒める」、と学び、随分と実践したものです。

 叱り上手が周りにいない現代日本。偉人とされる、古人の言行には学ぶべきものが多いのでは。
以下、師弟、同僚、君臣の間での叱り方、意見の仕方をみてみたいと思います。

 まず最初に、もっとも厳しい上下関係がある芸道関係から「叱り」の例を参照したい。俳句の 
松尾芭蕉は、「挨拶句の名人」と呼ばれている。人を褒め、気分をよくさせて、その美点を伸ばす教育法にも定評があります。しかし、いつも褒めてくれていた師匠が生涯に一度、別人のように激しく弟子を叱る。弟子は初めてのことに戸惑い、うろたえ、起きた事に対処できずに気も失せんばかり。しかし、その果てに忽然と「芸」を悟るのです。さて…。

     前 二ツにわれし雲の秋風 (トやらんなり)    正秀
     中れんじ中切あくる月かげに             去來

 上の句は、膳所の正秀亭で興行した歌仙の第三句。初めは「竹格子 陰も□□□に月澄みて(竹の格子窓の影も□□□に見えるほどに月が澄んで)」と付けたのだが、結局上のように師(芭蕉)が添削修正したものである。
その夜、我は師とともに曲翠の家に一泊。師は、
「汝は、今宵初めて正秀の句会に招かれたのではないか。つまり先様にとって珍客ゆえ、発句はまず我であろう、とあらかじめ覚悟しておかねばなるまい。その上、発句を、と請われたら、巧拙にこだわらず即座に出すべきであった。一夜の時間、いくばくとあろうや。汝がいたずらに時を費やせば、今宵の会もむなしくなろう。これ、無風雅の極みである。あまりの無興ゆえ、我が発句を出だしたゆえんである。されば正秀、たちまち脇をつける。「二ツにわれし」と激しい空の景色を詠んだが、かくのごとき間延びした第三をつけるとは。前句の口をも知らぬ未熟なしわざ」
 と、一晩中厳しい譴責を我に与え続けたのだ。我は、
「その時、[月影に手のひら立つる山見えて]という句を思いつきましたが、ただ月のことさらさやかな景を詠まんとのみ拘泥し、位を忘れていました」
 といった。師は、
「その句を出すならば、どれほどましであったことか。このたびの膳所の恥をすすがん、と思わねばならぬぞ」
 とおっしゃったのである。

原典:「去來抄」『連歌論集 俳論集』日本古典文学大系66 岩波書店
現代語訳:能文社2009


 次は、茶道の千利休の例。利休はともかくことあるごとに門下を叱った。たとえば『茶話指月集 上』の利休関連逸話37話中、10話までが弟子共を叱る話。しかしその作や意に感心した場合、新弟子であっても心より賞賛します。芭蕉とは逆のスタイルであったらしい。『南方録』から、その典型的な指導法を見てみましょう。


ある人が、
「炉と風炉、夏と冬、茶の湯の心得と、その極意をお聞かせ願いたい」
 と宗易に問うた。これに答えて、
「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かなように。炭加減は湯の沸きやすいよう、茶は呑みやすいよう。これにて秘事はすべてです」
 といえば、問うた人は興醒めして
「そんなことは当たり前ではないか」
 というので、
「されば、この心に叶うようにしてご覧ぜよ。宗易、客にまいり、貴殿の弟子となろう」
 と申したものだ。
 同席の笑嶺和尚がこれに、
「宗易申すこと、至極もっとも。かの鳥窠禅師が、諸悪莫作諸善奉行と答えられたのと同然である」
 とおっしゃった。

『南方録 現代語全文完訳』覚書 
2006年5月 能文社


次は友人、同僚など立場が対等な人に注意し、叱る場合です。知見や技術が五十歩百歩の時、人はどうしても己の方が他よりも上、と思いがちなもの。そこを、どう踏み込み相手を説得するのか。上が下を叱ることよりもさらに難易度は高い。次にご紹介する『葉隠』の例は、現在の日常的な場面でもそのまま応用が効くかもしれません。


他人に意見して欠点を改めさせるということは大切なことであり、大慈悲となり奉公の第一と考えている。意見の仕方は大変骨が折れる。他人の善悪を見出すのは安きことである。それを意見するのも、また安きこと。大方は相手が嫌がるような言いにくいことを、言えば親切と思い、受け入れられねば、力及ばずなどという。何の役にも立たない。人に恥をかかせ、悪口を言うのと同じだ。わが胸を晴らすために言うだけのもの。
意見の仕方は、まずその人が意見を受け入れやすいか、そうでないかをよく見分ける。それで親しい間柄となり、自分の言葉を常に信用するように導く。趣味の話などからきっかけを作って、言い方もいろいろ工夫して、時期をはかって、あるいは手紙で、あるいは帰りに誘ってみてもいい。最初は自分の失敗談からはじめて、それとなくわがことに思い当たるように持っていく。まず相手の良い点を褒め立て、気分が良くなるように工夫を尽くすのだ。喉が渇いた時、水を欲しがるように受け入れ、欠点が消える。これが意見の仕方だ。ことのほかやりにくいものである。 
長年の癖というものはなかなか直らない。わが身にも覚えがある。同僚たちと日頃親密になり、癖を直して一心同体となり、主君のご用に立つことが奉公であり、大慈悲となるのである。然るに、他人に恥をかかせて何ゆえ欠点が直るものか。

『葉隠 現代語全文完訳』 聞書一 一四
2006年7月 能文社 


 最後は「叱る」の究極の形をご紹介します。下が上に意見をすること。これを「諫言」といいます。子が親に注意する。弟子が師に疑問を呈す。社員が社長に直言する…。いずれも「礼」に逆行し、ことのほか難しいもの。孔子は、家臣が主君に意見する場合、三度意見して聞き入れられなければその国を「去る」。子が親に意見する時、三度意見して受け入れられなければ、「哭して」後、もはや「何もいわず親に従う」としています。家が滅びる時殉ぜよ、それが儒の道である、というのです。

 さて、『貞観政要』は中国唐の二代皇帝、太宗の政治要諦をつまびらかにした世界的名著です。隋の滅亡を経て、国家存亡の危難を乗り越え、世界にもまれな文化先進国家を創立した、中国史最高の聖帝とよばれる太宗、李世民。彼の偉業を支えたのは、ただひとつの信念。臣下の「諫言を受け入れる」ことでした。神に近いすべての権限を手中した中国の皇帝に諫言することは、臣下にとってはむろん命がけ。以下ご紹介するのは、太宗の皇位を継ぐべき皇太子、承乾と、それを補育する諫臣、張玄素の国家存亡を賭けた凄まじいまでの魂の記録です。


 貞観十三年、太子の右庶子、張(ちょう)玄素(げんそ)は、太子承乾が狩猟に耽って学問を廃するにおよび、これを上書して諫めた。
「臣は聞いております。『天は選ばれた者に親しむのではなく、ただ徳を積む者を助く』と。まこと天の道に違えば、人にも神にも見棄てられます。いにしえの狩猟の礼は殺生を教えるものにあらず、まさに民のため、害を除かんとするもの。それゆえ聖王湯は、狩場の四面の網をただ一面のみ開けること、と定め、天下はその仁政に従いました。今、太子は苑内で狩を楽しむ。名目こそ野山での狩猟とは異なっておりますが、もし際限なくこれを行えば、ついに正法に背きましょう」

「さらに傅説(ふえつ)は、『学問というものは、いにしえを師とするもの。それ以外の方法は聞いたことがございません』という。すなわち道を広めるには、いにしえに学ぶ。いにしえを学ぶためには、必ず師の教えによらねばなりません。恩詔により、すでに孔頴達に侍講させています。願わくは、太子がこの者たちに、しばしば下問なされ、万分の一の補いとなされますように。加えて広く高名で正しい学者を選び、朝夕側近く召され、聖人の書を読み、故事を学んでいただきたい。そして日々、己の足らざるを知り、月々己の為すべきことを忘れざるように。これすなわち、善を尽くし、美を尽くすこととなります。かくなる上は、夏の禹王の子、啓も、周の武王の子、誦も太子の足元にも及びますまい」

「そもそも人の上に立とうとする者は、善行を求めずにはおられぬもの。ただ理性が欲望に打ち克てぬゆえ、物事に耽り、惑わされ、乱をひき起こすのです。これがはなはだしくなると、忠言はついにふさがれてしまう。臣下はいい加減におもねり、君臣の道は徐々に廃れていきます。古人はいいます。『小悪も見逃さず、小善も恥じてなさざることなかれ』と。つまり禍福は、小事より徐々にあらわれ来たるもの。殿下は尊い皇太子の地位におられ、まさに広く善政を敷かれるべきです。しかしながら、狩猟に遊び呆けておられる。これではどうして祖先の祠を司ることができましょうか。
創業時の理想をもって、終わりをまっとうしようとしてさえ、人はなお次第に衰えゆくものです。すなわち始めすら慎まぬ者が、どうして安らかに終わりをまっとうなどできるものでしょうか」
 しかし、承乾はこの言を聞きいれることはなかった。

 そこで玄素は、さらに上書して諫める。
「臣は聞いております。礼によれば、『皇太子といえども、学校での席次は年齢順に扱われる』
と。これは、太子なればこそ、君臣・父子・長幼の道を教えんとするもの。しかし、君臣の意味、父子の情、尊卑の差、長幼の礼儀を心に留め、国外までも広く伝えんとするには、自身の行いにより遠くまで鳴り響かせ、自身の言葉により広く行き渡らせねばなりません」

「伏して思いますに、殿下は素晴らしい素質をお持ちでございます。できることなら、なお学問に励まれ、立派な行いを身につけられますよう。僭越ながら、孔頴達・張弘智両師を拝見するに、ただ徳を備えた大学者というだけではありません。兼ねて高い政見を併せ持つ。できればたびたびこれらの者を招いて講義を受け、物の道理を明らかにし、いにしえを見、今を知り、知恵と徳の光を増されんことを期待しております。
 馬・弓・狩・酒・歌・女・珍物などは、ただ耳目を喜ばせるだけのもの。いずれ精神を汚してしまいましょう。悪習に久しく染まれば、やがて本性も悪となりゆく。古人も、『心は万物の主。節操なく移ろい揺れる時、ついに乱心にいたる』といっております。殿の背徳の源は、これらにあるのではないか、と臣は恐れるのみです」
 承乾は、この書を見てますます怒り、玄素に、
「汝は気でも触れたのではないか」
 といった。

 貞観十四年、太宗は玄素が太子にしきりに諫言していることを知り、銀青光禄大夫、行左庶子に累進、任命した。
 さてこの頃。ある日承乾は宮中で太鼓を叩いていた。その音が外までもれ聞こえてくる。玄素は門をたたき、目通りを願い、厳しく切諫した。承乾はただちに宮内の太鼓を引き出し、玄素の面前で叩き壊す。そして門番に命じ、玄素が早朝に出仕する折を伺い、物陰より馬の鞭で打たせた。玄素は危うく落命するところであった。

 またこの頃、承乾は好んで園亭、楼閣を造築。奢侈を極め、費用は日増しに嵩んでいった。これを見、玄素は上書して諫める。
「愚かなる臣ごときが、天子、皇太子の両宮にお仕えし、無為に位を盗んでおります。これは臣にとって大河、大海のごとき恵みといえましょうが、国にとっては毛ほどの益ともなっておりません。これをもって、愚かなる誠を尽くし、臣下の忠節を尽くそうと思うものであります。
 伏して思いますに、皇太子の責はまことに重いもの。徳を積み威光を広めずに、なにゆえ王業を継ぎ、守ってゆくことができましょうか」

「太宗皇帝と殿下とは、私的には父子の間柄。そして王家の用務は公務を兼ねることから、殿下の経費には制限を設けられませんでした。この決定よりいまだ六十日も経っていないにも関わらず、皇太子の出費は七万を超えています。贅を尽くした奢り、ここに極まれり、といわざるを得ません。
 楼台のもとにはただ工匠だけが集まり、宮苑の内に賢士は一人も見当たりません」

「今、太子を孝敬の点からみれば、視善問竪の礼を欠き、恭順という点では、君主の教えと慈愛の道に背いています。風評を聞いても、学問を愛し、道を好んだ形跡がなく、挙動をみれば、私刑をほしいままとする罪がある。宮中では良臣が側に仕えたことがなく、多くの邪臣やお調子者のみが深宮に巣食っております。太子が愛好する者は、遊び人や身分の卑しい者たち、施しを与えるのは絵描きや彫刻家ばかり。外より伺い見るだけで、すでにこの過失が認められます。内に隠れた悪事は数え切れぬほどでありましょう。太子の禁門は、今や市の門と何ら変わりなく、朝夕雑多な人間が出入りし、悪評は遠くまで鳴り響いております」

「右庶子の趙弘智は、経書に明るく、身を修めた当代の名臣です。臣は、太子が彼をしばしば側近く召し寄せられんことを望んでおります。弘智と語り、談じ合えば、妙計良案を立てる助けとなる。さて、このようにいったところ、臣はかの者を濫りに引き立てる、との嫌疑を蒙りました。これではいくら、『善に従うこと、流るるがごとく』といっても、流れに近寄ることすらできますまい。非を取り繕い、諫言を拒めば、必ず王室に損失をひきおこしましょう。古人もいっております。『良薬口に苦し、忠言耳に逆らう』と。伏して願います。安楽な時ほど危難を案じ、日一日と慎まれますように」
 上書が届くと、承乾は大いに怒り、刺客を遣わし、玄素を葬ろうとした。しかし、まもなく太子を廃せられることとなった。

『貞観政要 全巻和訳』規諫太子第十二 第三章
能文社2009 (近年発刊予定)

2009年04月11日 23:07

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