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名言・名句 第四回

 その7
 武士道とは、死ぬことと見つけたり。

 その8
 聖の字をヒジリと読むのは、非を知るという意味。

~山本常朝/田代陣基「葉隠」聞書第一/二、四七より。

[解説]
 葉隠は、江戸中期佐賀鍋島藩士により筆録・編纂された膨大な量の「鍋島藩成立史」であり、または「鍋島武士道語録」とでもいうべき書物です。本著でもっとも有名な句が、この「武士道とは、死ぬことと見つけたり(聞書第一/二)」。武士道の聖典ともいわれる葉隠 筆者(聞書口述者)、山本常朝の鍋島武士たる者かくあるべし、との究極の姿を一言にあらわしたものです。句の真意はむろん、ただ死ねばよいということではありません。武士として死ぬには三つのポイント、というか条件がある。

1.生死分かれ目の場に臨んだなら、さっさと死ぬ方につく
2.うまくいくかどうかなど考えない
3.常時、「死に身」となっておく

これは、人が生存するために不可欠な三つの回路を切り、停止させよ、というに等しいものです。「1.さっさと死ぬ方につく」は、生存本能の停止。「2.考えない」は、理性の停止。「3.常時、死に身」は、日常の停止。ただの観念ではなく、実際これらを実行しえたとしたら、それはもはや人ではなく、何かとてつもなく恐ろしい生き物…。いや、本能の回路すらないのですから、生あるものともいえないでしょう。おそらく悪鬼か、神か…。
 さて、ではこの句にこめられた常朝の真意は何だったのでしょう。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」をそのまま裏返すと見えてきます。それは、武士、奉公人、人として完全に生きよ、ということ。別の章でいう
「ただ今がもしもの時、もしもの時がただ今のこと(聞書第二/四七)」
も同じことをいっており、これは葉隠全編を通し、繰り返し現れてくるモチーフです。常朝は語っています。完全に死ぬためには、今この一瞬、一瞬を完全に生きよ。されば、武士道を全うし、一生落度なく家職も仕果たせる、と。

[本文抜粋]
 武士道とは、死ぬことと見つけたり。生死分かれ目の場に臨んで、さっさと死ぬ方につくばかりのこと。特に仔細などない。胸すわって進むのだ。うまく行かねば犬死、などとは上方風の打ち上がった武道のこと。生か死かの場面で、うまく行くかどうかなどわかるわけもない。人皆生きる方が好きである。されば、好きな方に理屈をつける。もしうまくいかずに生き残ってしまえば腰抜けだ。この境目が危うい。うまく行かずに死んでしまえば犬死で気違いである。しかれども、恥にはならぬ。これを武道の大丈夫という。毎朝毎夕くり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。


[解説]
 聖、ヒジリの語源は今確かめることができませんが、「知れば知るほど道に疎くなる」たとえ話としては、大変興味深いエピソードです。
 およそ人間も齢を重ね、地位も相応し、経験も豊富になれば、もはや人から叱られることはなくるもの。某日、佐賀十二ヵ寺たる宗龍寺に、一門衆筆頭、学者筆頭等鍋島藩お歴々が学問談義に参集。後学のためにと、常朝や志田吉之助あたりもお供し、次の間に控えていたかもしれません。丁々発止の学問談義に、得々として自論・自説の花を咲かせている。その最中に天狗の鼻をぽきりとへし折ったのが、江南和尚のこの句、このたとえ話です。美作も一鼎も目を丸くしたに違いない。禅問答に鍛え抜かれた江南にとっては、ちょっとしたからかい程度のお説教だったかもしれません。これをもれ聞き、おそらくニヤッとした吉之助に対し、若い常朝はムッとした。それが「武辺は別物だ」以下の文です。武辺=大高慢、道=非知の対立する二項目が、矛盾しながらも融和しているのが葉隠の面白いところで、様々なエピソードとなって、たびたび現れてきます。死を恐れぬ勇猛果敢な大傑僧と腹が破れるほどの大慈悲を抱え込んだ鬼武者たちの話。これらは、また折りを見て取り上げていきましょう。

[本文抜粋]
 宗龍寺の江南和尚のもとに、美作守殿、一鼎などの学問仲間が集まり学問談義をしかけたところ、
「皆様方は物知りで結構なことである。しかれども道に疎いという点では凡人にも劣るようだ」
といったので
「聖賢が説く道以外に、道というものはなかろう」
と一鼎が反論した。江南和尚は
「物知りが道に疎いというたとえは、東にいくはずの者が、西へ行ってしまうがごとしである。物を知るほど、道から遠ざかってしまう。その仔細は、古の聖賢の言動を書物にて見覚え、話にて聞き覚え、見識が高くなり、もはや自分も聖賢に達したかと凡人を虫のように見下すからである。これが道に疎いということである。そもそも道とはわが非を知ることである。考えに考えて非を知り、一生打ち置かないものを道という。聖の字をヒジリと読むのは、非を知るという意味。仏は知非便捨の四字でもってわが道を成就すると説いている。
心に心をつけてみれば、一日の間に悪心が起きること、数限りない。われはよしと思うことなどできるはずもない」
と諭したので一同はそれより和尚を尊敬したとのこと。しかれども武辺は別物だ。大高慢にて、われこそ日本に並びなき勇士と思い込まねば武勇をあらわすことは成り難い。武勇をあらわす覇気の位は、かくあるものだ。口伝あり。
葉隠はこちら

2006年03月31日 20:06

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