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日本文化のキーワード 第六回「切腹」

今回取り上げるキーワードは、日本文化において武士道と強く結びついている、「切腹」。
欧米で奇異な自死方法とみられる切腹は、日本人の殉死の代表的な作法です。

森鴎外の名作『興津弥五右衛門の遺書』は江戸正保年間、細川家の一人の侍の殉死をテーマとした作品。『阿部一族』『渋江抽齋』等、後期鴎外作品の中心となっていく歴史小説分野の記念すべき第一号です。原文は候体の擬古文で書かれており、現代の読者にはとりつきにくいかもしれません。【言の葉庵】では、近代の名作に手を入れる愚をあえて犯し、すべての人に名作に触れていただきたいと願い今回現代口語訳にてご提供することとなりました。
まずは訳文にて全文ご鑑賞ください。

・森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』 水野聡訳

■歴史小説に開眼する鴎外

そもそも鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を執筆・創作したきっかけは、明治天皇崩御に対する、陸軍大将乃木希典の殉死に衝撃を受けたことにあるとされています。乃木将軍自決の報を受けてより、鴎外はたった五日で本作を書き上げ出版社に寄稿しました。
鴎外文学、前期と後期のターニングポイントとされる当作品執筆の真意とテーマは、当人が直接語る機会をもたなかったため、読者や批評家により様々な観点が討論されてきました。
乃木将軍と個人的に親交の深かった鴎外。当時、日本の武のトップである乃木将軍の潔い死に直面し、近代化に伴いまさに絶滅せんとした古来の美しい日本精神を再発見しようとしたものかもしれません。


■数奇に命をかける

本作品の過去の評論でまったく光のあたることがなかった視点を【言の葉庵】ではご紹介してみようと思います。それは、数奇。戦国武将の多くがとりわけ深い関心を示した茶道具へのこだわりです。そもそも興津弥五右衛門が殉死にいたった遠因は、この数奇に端を発します。
長崎に珍品を満載した安南船が到着。主君三斎は、
「茶事に用いる珍品を求めて参れ」
と弥五右衛門に命じます。弥五右衛門は相役の横田清兵衛とともに長崎へ向かうこととなる。
本作は、細川藩家中の物語です。【言の葉庵】読者のみなさまには茶道に興味をおもちの方が多いと思われます。細川三斎は、利休七哲と称されるほどの戦国数奇大名の代表格。数奇に命をかけた古田織部ほどではないにせよ、武と数奇のいずれかを選べといわれたなら、おそらく進退窮まるに違いないと思われるほど茶の湯に入れ込んだ大名でした。
一つの茶碗が城一つの値と等しいといわれた、数奇の時代。天下人すら身命をかけて数奇をめぐり争いました。茶道史上高名なのが、利休と秀吉の身分を越えた数奇の戦い、俗にいう「野菊の茶会」です。

・野菊の茶会

天下を手中に収めた秀吉。しかし利休との数奇をかけた戦に敗れ、ついにその命を奪ってしまったとはいえないでしょうか。
天下の名香、初音の競り値をめぐり、上の人々と同様命をかけた弥五右衛門と清兵衛。清兵衛に茶事の心得がなかったことが間接的要因とはいいながら、「たかが四畳半の炉にくべる木の端くれ」が騒動を巻き起こす。細川藩、伊達藩(一説では加賀前田藩もこの競りに参入したとも)の争いにとどまらず、後には天皇をも動かしたとは現代の私たちの想像もおよばない社会現象といえましょう。


■日本人はなぜ腹を切るのか

まずは殉死と切腹について整理してみます。

・殉死とは
主君などの死の跡を追って、臣下が死ぬこと。殉死者を主君とともに葬ることを殉葬といいます。
殉葬については日本はもとより、古代エジプト・メソポタミア・中国・朝鮮の各国で行なわれました。そして殉死には臣下が主君を慕い自発的に命を断つ場合と、冥界の主君に仕えるため兵士や奴隷が強制的に命を奪われ、ともに埋葬される場合とがあります。

・切腹とは
主に日本の武士道にみられる、自ら腹部を短刀で切って死ぬ、日本独自の自決方法。腹切り・割腹・屠腹などともいいます。自殺のみならず近世では武家の処刑としても採用されました。
主君の跡を追う切腹を「追い腹」といい、何らかの責を負って罪を償う切腹を「詰め腹」とよびました。武士にとって主君への忠義の証しである追い腹はもっとも名誉ある行為であり、本人はもとより家中・一族にいたるまで広く賞賛される「武士らしい死に方」でした。

歴史的に切腹は平安時代の源為朝(1139-1170)が最初とされています。以降、中世において武士の自決方法として採用されますが、戦国時代には武士の潔く名誉ある行為として称揚されていくようになります。水際立った切腹の作法により、秀吉を感服せしめた高松城城主清水完治の事例がもっとも高名です。

・切腹の起源
では、なぜ「腹」なのか。古代西洋の医学と哲学の歴史を鑑みて、新渡戸稲造は『武士道』の中で、
「腹部には人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」
により、勇を重んじる日本の武士の自決方法として切腹が採用されたと分析しています。

腹を割って話をする、腹をくくる、腹に一物…。日本人にとってたしかに腹は大切なもの、力が宿る部位ではありました。しかし平安時代の武士がはじめて切腹した時にブルータスやモーゼの故事を参考にしたとはとうてい思えません。漢字・仏教・儒教・道教・芸術・工芸…。古来より日本は多くのものを中国より輸入し、独自の日本文化を作り上げてきました。もしも中国に忠義の証しとしての切腹があったなら、日本人がそれに倣ったと考えることはむしろ自然なことではないでしょうか。

古代中国、春秋時代、衛の国に弘演という、主君に強い忠誠心をもつ家臣がいました。主君が異民族に殺害された時、自らの腹を切って主君の跡を追ったという故事が、『呂氏春秋』『漢詩外伝』などで伝えられています。「弘演納肝」とよばれるこの逸話を『貞観政要』の引用からご紹介しましょう。


 貞観十一年、太宗は侍臣にいった。
「昔、北狄の異民族が衛の懿公(いこう) ※を殺し、その肉を喰らい尽くして、ただその肝だけをひとつ残しておいた。懿公の臣、弘演※はこれを見て、天を仰ぎ大哭する。そしてわが腹を割いて、その肝をつかみ出し、懿公の肝を腹中に入れて死んだという。今このような忠臣は、なかなか求められまい」

 特進の魏徴が答える。
「それは君主が家臣をどのように待遇するかによります。昔、刺客の予譲※は主君、智伯の仇を討たんと、敵の趙襄子をつけ狙う。しかし襄子は予譲を捕らえて、いった。
『あなたは昔、范氏や中行氏の家臣ではなかったか。智伯は、これらをことごとく滅ぼしたのだ。しかしあなたは、智伯に仕え、范氏、中行氏の仇を取らなかった。なにゆえ智伯のためだけに仇を取ろうとするのか』
 予譲が答える。
『たしかに私は以前、范氏と中行氏に仕えていました。二人の主は私を並の家臣として遇しました。よって私も並の主君として仕えたのです。しかし智伯殿は私を国士として迎え、厚く遇してくれました。それでこのたびは国士として恩に報いたのです』
 すなわち忠臣は、ただ君主がこれを礼遇するかどうかによるだけのもの。それなのにどうして、人がいない、などといえましょうか」

(『貞観政要』巻五 論忠義 2012年能文社)

※懿公 衛の第十九代君主。恵公の子。懿公九年(前六六〇年)、北の異民族の翟(狄)に国を攻め滅ぼされ、自身も殺された。『左伝』閔公二年より。
※弘演 懿公の寵臣。この逸話は、『呂氏春秋』忠廉篇、『韓詩外伝』七、『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」等に見られる。
※予譲 戦国時代、晋の刺客。この逸話は『史記』刺客伝より。同書の言、「士は己を知るものの為に死す」で高名となった。


弘演の逸話はわが国の『太平記』にも引かれています。忠義の証明としてもっとも聖なる力が宿る腹を切る殉死。当時の日本の武士たちに強烈な印象を与えたであろうことは想像に難くありません。


■追い腹こそ名誉の死

江戸期に入ると儒教の浸透により、武士の忠誠心と勇気を測るものさしとなっていった、切腹・追い腹。もはや戦のなくなってしまった時代、武家社会では追い腹こそ見事な死に方、武士の鑑とする風潮が高まり、多くの侍が自ら死んでいきました。
『興津弥五右衛門の遺書』では、「いかにも晴れがましく」感じ嬉々として切腹の場に臨み、後の『阿部一族』では、追い腹を許されなかったため、一族全員討ち死にという悲劇が巻き起こされてしまうのでした。
忠誠心の厚い有為の人材ほど真っ先に失われていく、藩主と家臣の結びつきのみ強められ、幕藩体制の身分秩序が保たれ難い…。などの理由により寛文三年(1663)四代将軍徳川家綱により、追い腹は原則禁止されました。

『葉隠』では追い腹禁止令が発布される以前、藩主鍋島勝茂の死去に際し、多くの家臣が追い腹を遂げたことが記録されています。その一場面をご紹介しましょう。


 お薬役は、采女が勤めていたがご臨終に際し、茶道具を打ち砕いた。御印役の喜右衛門は光茂公の御前で御印を打ち割った。そのようにしながら、二人で御亡骸を行水して差し上げ、棺にお入れし、差し俯いて泣く。が、突然立ち上がり、
「殿は、たったひとりで行ってしまわれる。一刻も早く追いつかなくては」
と浴衣のまま外に飛び出すと、大広間には美作守をはじめ、側近や外様の衆が居並んでいた。両人手をつき、
「いづれの方様にも、ご懇意にしていただき、今さらお礼の言葉とてございませぬ。幾日語ったとて名残りもつきますまい。さらば、でございます」
とお別れをいい、走って行った。諸人は涙を流すばかりで言葉もない。さしも剛勇の美作守も声が出せず、後姿を目で追って
「ああ。曲者かな、曲者かな」
とのみつぶやいた。杢之助は最後まで讒言した者のことを言って怒っていた。采女は小屋に帰り、一日の疲れをいやすべく行水し、少しの間休むといってまどろみ、目覚めると
「枝吉利左衛門 が餞別にくれた毛氈を敷け」
と命じて、二階の一間に一枚の毛氈を敷いて追腹を切った。介錯は、三谷千左衛門である。
 ある人によれば、杢之助が肌身離さず懐中した扇に一首の歌があった、と。

惜しまるるとき 散りてこそ世の中の 
花も花なれ人も人なれ

(『葉隠 現代語全文完訳』聞書四 七九 2006年能文社)

本文中の「介錯」とは、切腹した人が苦しまぬよう即座に首を切り落とす、介添役です。切腹の儀式では重要な役目のため切腹当事者とともに介錯人の名も必ず記録されました。が、この介錯を依頼することはなかなか容易ではなかったようです。
同じく『葉隠』より、口述者山本常朝が青年期に一族の介錯を依頼された時の記録を見てみましょう。


 天和二年十一月十一日、沢辺平左衛門が切腹を仰せ付けられた。十日夜、平左衛門に内示があったので、山本権之丞(常朝)に介錯の依頼が届けられた。これへの返書の写しである。(権之丞、二十四歳の時)

お覚悟、見事でございます。介錯ご依頼の由、ご意向承りました。一度はご辞退するのが礼儀なれど、はや明日のこと。今、ここにおよんでどうこう言う場合でもありますまい。しかとお受けいたしました。ご立派な方もたくさん居られる中、特にそれがしをご指名いただけたこと、本望と思います。この上は、どうかお心を安らかにおもちください。夜中ではありますが、おっつけお伺いします。お目通りの上、お礼申し上げたいと思います。以上

十一月十日

この返書を平左衛門が見て、
「これ以上のものはない」
といったという。古来より、侍の頼まれごとで最も嫌がられるのは、介錯だといわれている。理由は、うまくやり遂げたとしても、名を上げることにはならず、もし仕損じようものなら、生涯の疵(きず)となるからだ。右、文面は常朝師が控えておいたものだ。

(『同』聞書第七 二四)

日本が近代国家建設を着々と推し進めていた時期に、あたかも先祖がえりのごとく起きた、乃木将軍殉死事件。鴎外はその挽歌として『興津弥五右衛門の遺書』を書き、以降歴史小説に作家としての軸足を置くこととなります。そして古来日本人のもつ意地や献身などの精神性を探り、時代を越えた人間存在の本質に光を当てていきます。

武士の追い腹は、個人の生を越えて子孫と未来へ贈る魂のメッセージ。もはや主君も殉死もない近代日本人である鴎外は、私たちが命をかけて守り、追いかけるべきもっとも大切なものをいかにして見つけるか、本作を通して問おうとしたのかもしれません。

■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバー

・第九回 歌

・第八回 仕舞い

・第七回 間

・第六回 切腹

・第五回 位

・第四回 さび

・第三回 幽玄

・第二回 風狂

・第一回 もののあはれ

※「侘び」については以下参照

・[目利きと目利かず 第三回]

・[目利きと目利かず 第四回]

2013年01月21日 16:00

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