言の葉庵 |能文社 |お問合せ

 

第九回 謡曲『羽衣』クセを完全読解する。

現代人にとって能に距離を感じさせている要因の一つに“言葉”の問題があるかもしれません。今回の読解教室は、能の歌詞である〔謡曲〕読解にチャレンジしたいと思います。

一般に能の一曲のハイライトは〔クセ(曲)〕にあるといわれている。演劇としての見どころ、音楽としての聞きどころは、クセと呼ばれる部分にギュッと濃縮されているのです。
いわゆる〔クリ・サシ・クセ〕と総称される少々長めの段落は、舞の段落とともに、初心者にとって睡魔と戦わなければならない、鑑賞の難所(?)。ここがわかれば、能は80%理解できる、といいます。

さて今回は、能の三番目物の代表曲『羽衣』をとりあげました。ストーリーがシンプルで、曲が短めのため、はじめて能を観る入門曲としてたびたび演ぜられる曲。しかし、たとえば耳だけで聞いて『羽衣』のクセを完璧に理解できる人はどれほどいるのでしょうか。耳には心地よく、しかしながら意味不明の“イメージ語”が美しく連なる羽衣の歌詞。その言葉に込められた古代伝説を知ることで、『羽衣』の豊穣な物語世界はようやく私たちに扉を開き、千年の時を越えた桃源郷を垣間見せてくれるのです。
まず〔原文〕、そして〔語釈〕〔訳文〕の順に読解を進めていきましょう。

◆原文
<カッコ>は段落名

地謡<次第> 東遊びの駿河舞※1. 東遊びの駿河舞。この時やはじめなるらん。
地謡<クリ> それ久方の※2. 天といっぱ、二神出世※3. のいにしえ、十方世界※4. を定めしに、空は限りもなければとて、久方の空とは名付けたり。
シテ<サシ> しかるに月宮殿※5. のありさま、玉斧(ぎょくふ)の修理(しゅり)とこしなえ※6. にして、
地謡 白衣黒衣(びゃくえこくえ)の天人※7. の、数を三五に分かって※8. 、一月(いちげつ)夜々の天乙女、奉仕(ほうじ)を定め役をなす。
シテ われも数ある天乙女、
地謡 月の桂※9. の身を分けて、仮に東の駿河舞、世に伝へたる曲とかや。

地謡<クセ> 春霞※10. たなびきにけり久方の、月の桂の花や咲く。げに花鬘、色めくは春のしるしかや。
面白や天ならで、ここも妙なり天つ風※11. 雲の通路吹き閉ぢよ。乙女の姿しばし留まりて。この松原の春の色を三保が崎※12. 、月清見潟※13. 富士の雪、いづれや春の曙。類波※14. も松風ものどかなる浦のありさま。

その上天地(あめつち)は、何を隔てん玉垣※15. 内外(うちと)の神※16. の御末にて、月も曇らぬ日の本や。


◆語釈

※1.東遊びの駿河舞
「東遊」は、古く東国の舞曲で、のちに宮中の舞楽として取り入れられた。全6部からなり、その中に「駿河舞」が含まれる。
「昔、駿河国宇土浜に神女あまくだりて舞ひしを、野叟(のそう)の学び伝へて、舞を今は駿河舞とて、あづまあそびにするは是也」(『袖中抄』)
※2. 久方の
「天」の枕詞。
※3. 二神出世
イザナギ、イザナミの二神がこの世に生まれた。
※4.十方世界
東西南北+四隅(西北・西南・東北・東南)+上下の十方向。全世界の意。
※5. 月宮殿
須弥山の中腹をめぐる、月天子の住む宮殿。
※6. 玉斧の修理とこしなえ
月天子の不思議な斧で造られた、永遠に朽ちることのない建物。
※7. 白衣黒衣の天人
「月宮殿内に三十の天子あり。十五人は青衣の天子、十五人は白衣の天子なり。月の内に常に十五の天子あり。月の一日より、白衣の天子一人月宮殿に入り、青衣の天子宮殿の外に出る。かくの如き次第にして十五日には唯十五の白衣天子月宮の中にあり。故に月円満なり。十六日より三十日まで毎日に白衣の天子一人去り、青衣の天子一人月宮に入る。故に月輪漸次滅するなり」(『三界義』恵心僧都)
古代中国で、月の満ち欠けをこのように考えていたことに基づく。
※8. 数を三五に分かって
三かける五は、十五。和歌で数を婉曲に表現する言葉遊びです。「十五人、一組となって」の意。
※9. 月の桂
月の中に桂の巨木があったとされる古代伝承による。
「月中桂有、…月桂高五百丈」(『酉陽雑俎』天咫)
※10. 春霞
「春霞たなびきにけり久方の月の桂も花や咲くらむ」(後撰集・春上 紀貫之)
※11. 天つ風
「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」(古今集・雑上 良岑宗貞)
※12. 三保が崎
春の色を「見よ」の掛詞。
※13. 清見潟
月「清い」の掛詞。
※14. 類波
類「無し」の掛詞。
※15. 玉垣
「隔て」の縁語、さらに「内外」の序詞。
※16. 内外の神
伊勢神宮の内宮外宮の神。すなわち、天照大御神と豊受大御神の流れをくむ日本という意。


◆訳文

地謡<次第> 「東遊びの駿河舞」は、この時にはじまったのでしょうか。
地謡<クリ> そもそも「久方の天」とは、イザナギ・イザナミ二柱の神様がお生まれになった時、十方の世界を名付けられた。天を見上げれば、果てもないので「久方の空」とお呼びになったことにちなむのです。
シテ<サシ> さて、その天空の月宮殿は、玉の斧で造られたため永遠に朽ちることはなく、
地謡 白衣と黒衣の天人たちが、それぞれ十五人一組の天乙女となって、一ヶ月の間毎夜毎夜(月の満ち欠けの)おつとめをしているというのです。
シテ 実は私もその天乙女の一人、
地謡 天高い月世界より、仮に遊び下った地上界で舞うこの曲が、後の世の「駿河舞」となったものでしょうか。
地謡<クセ> 地上では春霞がたなびいているけれども、今天上では月の桂の花もほころぶ頃。私の髪飾りの花も色めいて見えるのはきっと春のせい。
この地上界の景色もまた妙にして、面白いもの。天上界へと通う風の道よ、しばらく閉じていてください。今はここに留まって、この松原の春の景色を眺めようと思うから。
花咲く三保が崎、月の清見潟、雪景色の富士の山。いずれも春の曙にかすむ絶景です。この比べるもののない、波と松風がいろどる浦のありさまのなんと美しいこと。

さてこの上は、天上界と地上とどのような違いがあるといえましょうか。天より生れ落ちた天照大神の末孫たる日本の、月も決して翳らぬ様子を目の当たりにすると。

◆原文

シテ 君が代は※1. 、天の羽衣稀にきて、
地謡 撫づとも尽きぬ巌ぞと、聞くも妙なり東歌声添へて数々の蕭笛琴箜篌(しょうちゃくきんくご)※2. 孤雲の外※3. に充ち満ちて、落日の紅は蘇命路(そめいろ)の山※4. をうつして緑は並みに浮島※5. 払ふ※6. 嵐に花降りて、げに雪を廻らす※7. 白雲の袖ぞ妙なる。


◆語釈

※1. 君が代は
「君が代は天の羽衣まれに来て 撫づとも尽きぬいはほならなむ」(拾遺集・賀 読み人知らず)
尊い君の代は、よもや天人が降り来て、羽衣で触れようとも消えてしまわないような巌のごとく磐石の時代でありますように、との意。
※2. 蕭笛琴箜篌
蕭は縦笛、笛は横笛。箜篌はハープに似た竪琴で百済伝来の楽器。平安時代には用いられなくなった。
※3. 孤雲の外
寂照法師(大江定基)臨終の偈、「笙歌遥聴孤雲上、聖衆来迎落日前」(『宝物集』『十訓抄』)
※4. 蘇命路の山
須弥山の別名。また、前句の「紅」に「染め色の山」と掛かる。
※5. 浮島
波に「浮く」の掛詞。
※6. 払ふ
「浮島が原」の掛詞。
※7. 雪を廻らす
古代中国では、粉雪の舞う様子を美人の舞にたとえた。
「流風廻雪を以て、美人の飄揺に比す」(『洛神の賦』曹子健)


◆訳文

シテ 尊い君の代は、よもや天人が降り来て、
地謡 羽衣で触れようとも消えてしまわぬ巌のごとく磐石の御世でありますように、と歌う。その妙なる調べが東歌。天より降り来る歌を彩り、笙・笛・琴・箜篌、数々の楽の音も御来迎の雲より漏れ落ちてくるではありませんか。空より見れば、落日の夕陽がまるで須弥山のごとく富士を紅に染め、波には松の緑が浮き上がって映り、風が花吹雪を舞わせています。天人の舞は、まことに「廻雪の舞」。白雲にたなびくその袖が描く妙なる景色かな。

『羽衣』クセは、地上界をたたえる“国誉め歌”です。
天空より眺める三保の松原の絶景に、「しばしここで休らわん」と、地上に舞い降りた天女が遭遇する不幸が一曲のテーマでした。
「いや、疑いは人間にあり。天にいつわりなきものを」と、天女にさとされ、深く己を恥じた漁師白龍が〔天の羽衣〕を天女に返す。その心根の質朴なる人間が住む地上界に対して、天女は景色の美しさとともに“人の心の美しさとやさしさ”をあわせて嘉する段落が、クセなのです。
三保の松原、海に影を落す緑の浮島のように、古代中国伝説や古今集、後撰集の名歌が彩りを添える珠玉の詞章。能のクセは、目で観、耳で聞く中世日本文学のダイジェストといってもいいのかもしれません。

2012年02月12日 19:53

>>トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://nobunsha.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/181

バックナンバー

第十回 『戴恩記』話者を敬語の程度で見つけ出す。

第九回 謡曲『羽衣』クセを完全読解する。

第八回 世阿弥絶筆「佐渡状」を読む。

第七回 時代により「価値転換」するモノとコトバ

第六回 「候文」完全攻略の裏技公開!

第五回 名文の「圧縮美」を解凍する。

第四回 名人は、造語に遊ぶ。

第三回 隠された主語は、動作をヒントに探しだせる。

第二回 主語を探す。誰が誰に言っている文か。

第一回 現代語とは意味の変わった言葉

◆言の葉庵推奨書籍

◆言の葉メールマガジン
「千年の日本語。名言・名句マガジン」

「通勤電車で読む、心の栄養、腹の勇気。今週の名言・名句」、「スラスラ古文が読める。読解ポイントの裏技・表技。古典原文まる秘読解教室」などのコンテンツを配信しています。(隔週)

◆お知らせ

ビジネス・パートナー大募集

現在、弊社では各業界より、マーケティング関連委託案件があります。
つきましては下記の各分野において、企業・フリーランスの協力パートナーを募集しています。

◇アナリスト、リサーチャー
◇メディアプラン(フリーペーパー、カード誌媒体等)
◇プランナー、アートディレクター、コピーライター
◇Web制作
◇イベンター、SPプロモーション
◆化粧品・健康食品・食品飲料・IT・通信分野

 

Copyright(c)2005.NOBUNSHA.All Rights Reseved

Support by 茅ヶ崎プランニングオフィス