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名言名句 第三十回 旧唐書 葬は蔵なり。

 No.47
葬は蔵なり。人の見るを得ざらんことを欲するなり。
~『旧唐書』長孫皇后


長孫皇后は、中国唐二代皇帝太宗の皇后です。太宗の偉大な治世「貞観の治」を内助の功により支えた、中国史上もっともすぐれた皇后と目されています。
 隋大乱後の困難な皇業を内から支え続けた人生。貞観八年、三十四歳にて病を得、二年後三十六歳で亡くなりました。「葬は蔵(かくす)なり」は、臨終の床にあって、皇帝太宗に託した遺言の中のことば。『礼記』壇弓上篇からの引用です。「くれぐれも私の葬式は質素に」、これが長孫皇后人生最後の願いでした。またこの時、唐建国の功臣、房玄齢が太宗の怒りに触れ、自宅に謹慎していました。皇后はまずこのことから、太宗に後事を託そう、と次第に細くなる息で語り始めました。

「玄齢は、陛下にもっとも古くから仕え、細心で慎み深く、国家の秘策は一言も漏らしたことがありません。国に災いをもたらすということがなければ、玄齢を見捨ててはなりません。
また私の一族は幸いにも陛下の姻戚となりました。この関係は、よほど徳を積まねば危機を避けることがかなわないもの。姻戚として永く関係を保つには権勢の地位につけず、ただ外戚として儀式に参列するだけにしていただけましたらさいわいです。
私はもう生きてお役に立つことができません。しかし死んでも手厚い弔いはどうかご無用に。葬とは隠すこと(葬は蔵なり)。人に屍を見られなければ、それで良いのです。いにしえより聖人賢人はみな葬儀を簡略にしていますね。ただ道のない世でのみ、大きな山陵を作り、無駄な労力と費用を尽くして、世間の物笑いとなっているのです。私をただ、山に葬ってください。土盛りした墳など必要ありません。何重ものお棺もいりません。葬具はみな、白木と素焼にしてください。質素なお葬式、これが私の思い出となりましょう」
(『旧唐書』長孫皇后伝 長孫皇后)

 長孫皇后、正式には文徳長孫皇后といいます。長孫が実家の姓、文徳は死後の諡(おくりな)で、皇后の号としては最高のもの。唐朝一の重臣、長孫無忌の妹で、太宗と無忌は幼友達でした。
 皇后は幼少時より読書を好み、礼を重んじ、倹約に努め、華美飽食をまったく求めたことがない。十三歳にして秦王時代の太宗に嫁ぎ、玄武門の変、皇帝即位、貞観の治の各時代にわたって一貫して陰から帝業を支え続けたのです。

中国史上一の賢夫人と称えられる長孫皇后には、多くのエピソードがあります。それら一部をご紹介しましょう。

「牝鶏が朝を告げるのは、ただ家の終わり。妾は婦人ですので政事に関与はいたしません」
(『旧唐書』巻五 后妃伝)

 即位した太宗は国の頂点に立ち、全権力を手中にすると同時に、絶対的な孤独となりました。臣下に相談できないことは、ついついもっとも信用する身内に頼りたくなる。ある時太宗は、臣下の賞罰について、皇后に助言を求めました。その答えが、上の「牝鶏が朝を告げるのは」。この「婦人」とは女性のことではなく、妻という意味。「牝鶏が朝を告げる」は、『書経』周書 牧誓篇にある句で、殷の暴君紂王が、妃の妲己の言うがままとなり、国を滅ぼしたことを戒めたものです。内向きの助言はするけれど、皇后が深く政治と人事に関わるべきではない、との見識をもっていました。それはまた、自身の親兄弟・血縁者が皇統につながることにより多大な権力をもつことをも警戒するものでした。

皇后は、唐建国の大功臣である兄、長孫無忌が要職を占めることに反対しました。

「漢の呂・霍、切骨の(痛切な)戒めとなすべし。とくに願わくは聖朝、妾の兄をもって宰執(宰相)となすことなかれ」

呂は前漢高祖皇后の呂后。霍は前漢武帝の重臣、霍光のこと。共に政権を私し、一族が朝政を占有。外戚政権の走りとなりましたが、共についには失脚し、一族全員が亡びます。妹が皇后、兄が宰相となることで長孫一族は外戚政権を招いてしまう。これに先回りし、皇后は太宗に嘆願したのです。願いは入れられ、無忌の吏部尚書と尚書左僕射の顕職は解かれました。

また、多くの官女・妃のいる宮中も、皇后の高い仁徳によりきわめて円満に運営されていたといいます。
たとえば、太宗の子を産んだ官女が難産で亡くなると、その子を引き取ってあたかもわが子のように慈しみ、育てた。また、ある妃嬪(高位の女官)が病を得ると、皇后は自らの薬を与え、いたわったといいます。こうして皇后が治めた内廷は、皇帝の寵をめぐって陰険な闘争が繰り広げられた従来のそれとはまるで異なり、「風平浪静(平穏無事)」であった、と評されています。

皇后は直接政治に口をさしはさむことはありませんでした。しかし一人の妻として、わが夫をやんわりとたしなめたことが、いくつか記録に残ります。それもあくまで聖帝の威徳を傷つけぬよう、繊細かつ洗練された方法で。

ある日、魏徴の直諫に立腹した太宗は皇后のもとへ来て、
「いつか魏徴めを処断せずばなるまい」
といった。皇后はいったん自分の部屋に戻り、朝服(臣下が朝廷で着ける公服)に着替えて出御。ひざまずいて、太宗に祝福を宣べた。驚いた太宗がその理由をたずねると、皇后は、
「史書に『主賢臣実』ということばがあります。賢明な君主があってはじめて、忠実な臣下がいる、というたとえ。魏徴が死を賭して陛下に直諫するのは、陛下に忠実な臣下であるという証拠です。また魏徴がこのように思い切ったことがいえるのは、陛下が賢明な君主だという証しではありませんか。わが唐にとって、これほどめでたいことはありません。これを祝わずにおられましょうか」
とお答えした。太宗はたちまち怒りを鎮め、皇后の機転に感心したという。

貞観十年、太宗、皇太子、朝廷一同の看病もかいなく、長孫皇后は三十六年の短い生を終えました。太宗は、皇后を昭陵に葬ります(後に太宗自身と合葬)。昭陵を臨む高い塔を建設させ、太宗はいくたびも塔に昇って皇后をしのび、涙を流したといいます。また以降、新しい皇后を迎えることはありませんでした。

葬礼も終わったある日、皇后の筆になる『女則』(10巻/現存せず)という書が偶然発見されました。いにしえの婦人の善事が集められている。皇后はこれを託した人に、
「これは妾の暇つぶし。女性の文章は筋道が立っておらず、陛下に見られたくないのです。どうか言わないでくださいね」
と、言付けたといいます。太宗はこの書を見て慟哭し、
「是れ、内に一良佐を失う」
といいました。

2010年10月24日 19:09

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