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名言名句 第二十六回 春秋左氏伝 水は懦弱なり。即ちこれに死する者多し

 No.43
 水は懦弱なり。即ちこれに死する者多し。

~『春秋左氏伝』子産 昭公二十年


前句には、「火は烈なり。民のぞみてこれを恐る。ゆえに、これに死する者少なし」とあります。中国春秋時代の名政治家、鄭の子産の名言です。出典は、春秋左氏伝。古来よりわが国でも教養書の一つとして親しまれ、古典作品にも引用、紹介されています。

この句の意味は、「火は恐ろしいもの。その恐ろしさゆえ人は近づかず、これによって死ぬ人は少ない。水は一見穏やかで静かに見えるため、人は近づき馴れ親しみ、かえって呑みこまれ命を落とす者が多い」というもの。晩年、病を得て危篤の床にあった子産が、国政の後継者に政治の要諦を、火を苛政に、水を善政にたとえて教えたものです。
善政を布いて国を治めうるのは、高い徳を身につけた者のみ。ゆるやかな仁政では、人民が侮り、世の中は徐々に乱れてしまおう。なみの執政者であれば、厳しい治世こそ国を治める指針とすべきもの、と子産は後継者に助言しました。
仁による徳治主義か、法による厳罰主義か。この二項は、政治の永遠のテーマです。堯・舜ら聖帝の時代より、中国は宗室制度を中心として、徳の高い王によるゆるやかな統制を理想としてきました。しかし時が下るに従って、綱紀は乱れ、人々はわがまま勝手に振舞いだす。これを、ぴりっと引き締めるのが、法による厳罰主義。『史記』孫子呉起列伝で、孫子が呉王闔閭の愛妾を斬って、宮中の美女の演習軍を思い通りに動かしたエピソードが、まず思い浮かびます。
一方、徳治主義は、当コラムで紹介した、唐の太宗聖徳太子「十七条憲法」などに、その典型を見ることができます。が、まずは子産と春秋左氏伝をご案内しましょう。

●子産
子産(~BC522年)は春秋時代、小国鄭の卿をつとめた名執政者。当時、大国晋と楚の間にあり、たびたびの国難が続いていた鄭に、善政を布き改革を行って、国威を高めたことにより、後世偉大な政治家として称えられることとなります。紀元前536年「参辟」という中国史上初の成文法(法律)を制定しました。これにより、中国法家の源流とも目されています。同時代の孔子も崇敬しており、「恵人なり」「己を行うや恭、上につかうるや敬、民を養うや恵、民を使うや義」(論語)、「古の遺愛なり」(春秋左氏伝)と、賛辞を惜しみません。

●春秋左氏伝
四書五経の一つであり、孔子が編したとされる『春秋』の代表的な注釈書。作者は、魯の左丘明とされています。豊富な資料を元に『春秋』を補う、春秋時代を知るもっとも重要な歴史資料です。

さて、法による厳罰主義は、民治の実効性がある反面、どうしても批判にさらされる。子産の成文法を晋の叔向は、「過去に滅んだ国には刑法が多かったと聞く。自分が死んだ後のことは考えているのか」と指弾しました。子産は「私は非才ゆえ、自分が生きている間、国を治めることだけで精一杯である」と答えたといいます。

子産「水は懦弱なり」のエピソードは、『葉隠』にも引用されている。しかし若干脚色を加え、法の厳罰主義を批判しています。

仁政成りがたくば、きびしく政をするがよし。きびしくといふは、事の出来ぬ以前をきびしくして、悪事の出来ぬようにする事なり。出来てよりきびしくするは、わなをかけたるが如し。
(葉隠 聞書十 四)


子産が自ら実践し、追い求めた政治の究極の姿は、仁による統治でした。しかし、大国間の争いに翻弄され、あまつさえ頻発する内乱に対処するためにやむなく手をつけたのが、法による厳罰主義。徳と罰、理想と現実の板ばさみとなりながらも、「有徳者のみ、よく寛をもって服す」政治を目指し続けた子産。孔子は、その生き様の中に「剛ならず、柔ならず。至高の和の精神」と子産の類稀な政治の信念を見て取るのです。


■『春秋左氏伝』子産 昭公二十年

鄭の子産が病に倒れた。子大叔に、こういった。
「私が死んだら、きっとあなたが政治を執ることとなりましょう。徳の高いものだけが、寛大なやり方で民を服することができる。そして次策が、厳しい政治です。そもそも火は激しいもの。人はそのため遠ざかって火を恐れるのです。ゆえに、火で死ぬ者は少ない。水はおだやかでやさしい。人は水に親しみ、遊ぶもの。ゆえに、はからずも多くの人が水で命を落とすのです。寛大な政治はこのように難しいのです。」

数ヶ月病の床についた後、子産は亡くなった。そして大叔が執政官となる。厳しい政治をするに忍びず、寛大な治め方をした。その結果、鄭では盗人がはびこり、ついに悪人どもが萑苻の沢を占拠するにいたる。大叔はこれを悔いていった。
「私がもっと早くあの方の助言に従っておれば、こんな事態に至らなかったものを」
すなわち歩兵団を発し、萑苻の盗人を攻めて、ことごとく誅滅させたのである。これで盗賊はしばらく鳴りを潜めた。これを聞いて孔子はいった。
「子産の助言や善し。政治が寛大な時、民は上を侮る。侮れば苛酷な政治でこれを正す。しかしまた、厳しすぎれば民はそこなわれる。そして今度は寛大なやり方で民を救済するものだ。寛大な政治で厳しさをゆるめ、厳しい政治でゆるんだ人心をひきしめる。政はこのようにして調和を保つもの。詩経に、
『民もまた労せり、ほとんど少しく安んずべし。この中国を恵みて、もって四方を安んぜよ』
 とあるのは、寛大な政治をすすめるもの。
『善をそしり、悪に従う者を許さず。悪人を戒め、国に背き残虐にして、明法を守らぬ者をとどめよ』
 とあるのは、厳しい政治を謳ったものである。
『遠きを安んじ、近きを善くし、もってわが王を定めよ』
 とあるのは、剛柔二様の政治で、安定をもたらそうとすることである。
『厳ならず、緩ならず。剛ならず、柔ならず。政を布くこと適々、百福ここに集まる』
 とあるのは、至高の和の精神を述べたものである」。

 子産の訃報に接し、孔子は、
「古の風をもち、人を愛する人であった」
 と、涙を流した。

現代語和訳 能文社 2010年
底本『新釈漢文大系33 春秋左氏伝 四』明治書院 昭和58年

2010年03月16日 08:34

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