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名言名句 第三十九回 申楽談儀 美しければ手の足らぬも苦しからぬ也。

 No.56
美しければ手の足らぬも苦しからぬ也。
~世阿弥『申楽談儀』


世阿弥の芸談、『申楽談儀』の一句です。原文はこの後、
「悪くて手のこまか成るはなかなか悪く見ゆる也」
と続きます。
この句を含む段落を原文と訳文をまずはご紹介しましょう。

〔原文〕
一 萬事かかり※也。かかりもなきやうの風ぜいも、又其かかりにてをもしろし。
かかりだによければ、わろきことはさして見へず。
うつくしければ、手※の足らぬもくるしからぬ也。
わろくて手のこまか成るは、なかなかわろく見ゆる也。

※かかり 風情、情趣、余情など。
※手 技、技巧。

(『世阿弥 申楽談儀』岩波文庫1994年)


〔現代語訳〕
能では万事かかりが大切である。一見かかりのないような能も、むしろそれがかかりと感じられ、面白いものだ。
かかりさえしっかりしていれば、欠点はさほど目につくまい。
美しければ、技が未熟でも問題はない。
むしろ無様な姿で技巧をつくした能ほど、いっそう劣って見えるものである。

(水野聡訳 能文社2013年)


「美しければ、技が未熟でも問題はない。むしろ無様な姿で技巧をつくした能ほど、いっそう劣って見えるものである」。
本文中の“手”とは技や手段のこと。また“美しさ”“悪さ”は外見・表面上のことですが、見方を変えれば、“美しさ”とは芸の基本と姿勢の正しさ、誠実さなどととらえることもできる。
よってこの一句は、能という芸術に限らず、人生の様々な局面へも応用のきくものではないでしょうか。

「目的が正しければ、手段は未熟でもいずれ達成できる。逆に目的が誤ったもの、邪なものであれば、いくら立派な理論・弁舌を並べ立てたとしても、結局醜悪にしか感じられない」
ものであり、後者は最終的に目標を達することはないのです。

『風姿花伝』、『猿楽談儀』等、世阿弥の伝書が六百年もの間伝承されてきた理由は、それが能のことを語りながらも、狭い芸術の範囲にとどまらず、人としてものの見方、生き方に深い示唆を与え、様々なことへの気づきを与えてくれる書だからといえましょう。

さて、この句を収める岩波版原文には、「萬事かかり也」の見出しが付されています。
すなわち能の“かかり”について論ぜられたもの。“かかり”は“風体”とともに、世阿弥能芸書に頻出する、重要なキーワードです。
もとは歌論の用語から転用されたものながら、世阿弥独自の解釈がなされ読解には少々注意が必要。ちなみに一般的な辞書での定義は以下です。

・かかり【掛かり】
[9] (和歌・連歌・能楽などで)風情。趣。姿。風体。様子。感じ。
姿―まことにいつくしさたとへん方なし〔出典: 御伽草子・文正〕
〔大辞林 提供:三省堂 〕


・ふうてい【風体】
2 和歌・連歌などの表現様式。作品から感じ取られる情趣や、それが言葉に表れている姿。歌風。
3 能楽で、役柄・曲柄・芸風・風情などをさしていう語。世阿弥の能楽論用語。風姿。
〔デジタル大辞泉〕

このかかりと風体は世阿弥伝書で時に同じ意味で用いられることもあり、前後の文脈より読み解かねばなりません。が、各伝書をあらためて見るとおおむね下のような意味で使い分けられているようです。

【かかり】 風情、情趣、余情
【風体】 姿、芸、芸風

さて当段落では続いて、『松風』『姨捨』『高野』『右近』『恋の重荷』の各曲に対し、演技・演出について世阿弥の芸談が述べられます。
現在も演じ続けられている世阿弥の名作能。その鑑賞ポイントは、やはり“かかり”にあることは疑いもなさそうです。現代語訳にてご紹介します。


〔現代語訳〕
舞の最中にそっと面を使うと効果がある。左へはまず使うことはない。右へさりげなく面を使うのである。五七五七の句の切れ目にものを見る型をするとよい。

『松風村雨』※の能で、「わがあと弔ひてたび給へ」の所よりワキへ近寄ったなら、思いが間延びしてしまう。「わがあと弔ひて」まではぐっとこらえて、「いとま申して」で寄り、「帰る」で実際に帰れば面白いものである。
「松風ばかりや残るらん」では、「残る」から帰るゆえ面白くない。「らん」でようやく帰るのだ。ことにこうした所は、思いと型が相応せねば感動を呼び起こせるものではない。

『姨捨』の能の「月に見ゆるも恥ずかしや」。ここでシテは“路中に金を拾う”※ことができる。
猿楽は観客の遠見※をもととするもの。シテは悠々と余情たっぷりに見せるべき。
それなのに「月に見ゆるも恥ずかしや」と、相手からわが顔を扇で隠し、月をまったく見ようともせず、縮こまった姿をして見せるなど見苦しいばかりである。「月に見ゆる」と、扇を高くかかげ月からわが顔を隠す。相手の顔を視線の隅でとらえ、おぼろげな風情で舞い終えるなら、観客の遠見に訴えることができよう。

『高野』※の能の「いつかさて、たずぬる人を」では軽くさらさらと謡うべき。とくにここは、遅く謡うとかかりが間延びする。
『丹後物狂』の「思ふこと思ふこと、なくてや見ましよざの海の」は、悠々とした謡で舞台の風情を彩る所である。性急に謡えば、シテの風情はない。とりわけかかりを大事にした謡いどころである。

『右近の馬場』※の「まつことあれや有明の」は、徐々に謡を早めていくところ。しかしあまりに走りすぎるのは具合が悪い。

『恋の重荷』の「思ひの程の立ち別かれ」は、静かなワタリ拍子※のかかりである。この能は濃密な桜に柳の糸枝が乱れかかるようにすべし。
『船橋』は松の古木が風になぶられるがごとし。そもそも本物の鬼を見た人などいないのだから、鬼の演技はただ面白さだけが肝要である。むしろ現在能こそ難しいわけである。

(水野聡訳 能文社2013年)


※『松風村雨』 現行『松風』。
※路中に金を拾う 当時のことわざ。骨を折らずに利を得るたとえ。
※遠見 遠くまで見通して、見えないものまで思い描く想像力。
※『高野』 現行『高野物狂』。
※『右近の馬場』 現行『右近』。
※ワタリ拍子 下がり端に続いて謡われる平ノリの謡。

2013年04月03日 19:31

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