心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.70
句調はずんば舌頭に千転せよ。~松尾芭蕉 『去来抄』
今回の名句は、松尾芭蕉の高弟、向井去来の『去来抄』に収められています。
「発句の形が整わぬ時は、その句を千回様々に変化させて吟じてみよ」
と、師が句作に悩む去来に指南したのです。
俳句や川柳、詩や広告コピーなどの実作では誰しも経験する産みの苦しみ。
作品は〔天から言葉の神が舞い降りて〕瞬時になる場合もありますが、通常その仕事が8~9割形を成した後、作者の伸吟、葛藤、言葉との格闘が始まるものです。
自分の思うところになかなか収まらず、何時間、何日間、何週間も頭を抱え苦しむもの。
芭蕉も「蛙とびこむ水の音」の上の句が得られず、自分の中で堂々巡りをし、幾通りもの代案を難産し続けたことが記録に残ります。
この句では「舌頭に千転」とあり、句の調子は文字面ではなく、音の響きと移りに重きを置いたことがわかります。
古来和歌は読むものではなく、節をつけて「歌う」ものでした。和歌の伝統を継ぐ、連歌の俳諧にとって、歌い、吟ずることの重要性はいうまでもないこと。言葉自体が心地よい音調をもち、おのずと口ずさめる句を目指した教えが「舌頭に千転」だったのです。
さて、上の句と並べて、芭蕉の句作の秘伝をもう一例紹介しましょう。
発句は屏風の画と思ふべし。
『二十五箇条』支考
同じ師が、ある弟子には「舌頭に千転」と教え、別の弟子には「屏風の画」と教えています。
去来へは、言葉の音の美しさを説いた芭蕉。支考へは、文字で書く句の姿の映りを重視せよと指南しました。
この句には続きがあります。
「己が句を作りて目を閉じ、画になぞらへて見るべし。死活をのづからあらはるるものなり。
此ゆへに俳諧は姿を先にして、心を後にするとなり」
これを支考は「姿先情後」と名付けました。心を表す俳句が文学として成立するために、仕上がりの姿の美しさ、強さは絶対条件である。心はおのずと後から湧いて出るもの。まず文字を視覚の美として捉えよ―。このように支考は師の教えをしたためたのです。
芸道修行において、達人は弟子どもに対して、全く逆の指導をすることがあります。
句作において芭蕉は、去来へは音=聴覚の重要性を、支考へは文字面=視覚の重要性をそれぞれ説きました。
弟子がいずれかへの志向へ傾くきらいがあったため、逆向きへその手綱を強めに引いただけで、師の教え自体己の信ずる一つの方向を目指したものとみるべきでしょう。
2015年12月30日 19:07
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