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名言名句 第三十一回 独行道 我事において後悔をせず。

 No.48
我事において後悔をせず。
~『独行道』宮本武蔵

正保二年(1645)五月十九日、剣聖宮本武蔵没。享年六十二。死病に犯され臨終の床にあった武蔵が、最後の力を振り絞ってしたためた自戒の書が、『独行道』と題された二十一か条です。「我事において」は、その中の一か条であり、武蔵の生き様を鮮やかに示した名言として今なお人口に膾炙しています。

「病弥重リテ遂ニ五月十九日卒去セラル。臨終ニ起テ帯ヲシメ、片膝ヲ立、刀ヲ左ニ杖ニ突キテ終ラレケルゾト」
『兵法先師伝』寺尾孫之丞系伝書

迫りくる死を一刀両断にせんと、死の床よりがばと起った武蔵。居合の抜き付けの構えのままこと切れたというから、その死をも超克する闘争心は凄絶というほかありません。
この伝の書き手、寺尾孫之丞は武蔵より『五輪書』を授けられたという、一門の高弟です。

さて、この武蔵の名言、一般には「自己存在の究極の肯定」と解せられていますが、その足がかりとなるのが小林秀雄の次の論評でしょう。

「昨日の事を後悔したければ後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度(きっと)あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである」
『人生について』小林秀雄

一 身にたのしみをたくまず
一 一生の間よくしん思はず
一 いづれの道にもわかれをかなしまず
一 物毎にすきこのむ事なし
一 身ひとつに美食をこのまず
一 道においては死をいとはず思う
(以上、独行道より)

生涯”身を捨て””兵法の道を離れ”なかった武蔵にもとより己の過去を一事たりとも悔いる心など起こるはずもないもの。武蔵の辞書には、そもそも「後悔」という言葉はなかったのでしょう。
小林秀雄の解釈をひとつの基準としながらも、あまりに簡潔に過ぎるため、この句にはさまざまな解釈がなされてきました。いわく、「我事」を「われ、こと」と読むか、「わがこと」と読むかによる、その解釈・意図の相違。いわく、「我」「事」それぞれ一文字の指す対象範囲の広狭と語釈的分析が導き出す文意の隔たり…。多くの解釈がなされてきましたが、おおよそその意味は次のグループに大別されましょう。

「我事において後悔をせず」解釈例

1.自分の為したことについて、何も後悔することはない。
2.すべて自分が為したことなので、何も後悔することはない。
3.自分の回りで起こったことはすべて事実であり、後悔しても仕方ない。

晩年、肥後細川藩に客将として迎えられた武蔵が、藩主の要請に応え藩弟の剣術指南に精励したことは周知の事実。また、ここで書・画・工芸・茶・能など、諸芸、文化に親しんだことも今日残されている武蔵の諸作品によってよく知られています。しかし晩年の武蔵の精神生活を語る上で欠かせないのは、細川菩提寺の大淵、春山ら禅師に参学修養したこと。『五輪書』最終巻、「空之巻」が、あくまで兵法の実践を微細に説いた他の四巻とは、あきらかに異質な内容となっていることに注目しましょう。

「空は善に有り、悪に無し。智は有也、利は有也、道は有也、心は空也」(空之巻)

と、『五輪書』は最後に「真の教えは書や文字にはない。悟りは自ら到るべきもの」と、それまでの四巻を読み進めてきた弟子を空無に突き落とすのです。「我事において」の句の解釈に、ユニークなものがひとつだけあります。「我」を、自我=執着すなわち、「欲」や「とらわれ」として読むというもの。

自分は思いのままに(勝つことと、剣の道を究めるためだけに多くの人を殺め、世の悪事を一身になしてきたが)生きてきたが、何も後悔してはいない

となり、親鸞が「善人なをもて往生す。いわんや悪人をや」と説いた、いわば阿弥陀仏がもっとも救うべき第一級の極悪人たる武蔵像が立ち上がってくるのです。
小さな善行を積み重ねても、決して迷いから逃れることはできない。ただあるがままの生を生き、あるがままの己を受け入れること。道を求める心があまりにひたむきならば、時に大いなる悪行もなしえよう。人の世の苦患と汚辱にまみれながら、あがきもがき続ける果てに、煩悩の厚い雲間から一条の光がふと漏れ出し、青い空が開けるのです。

十三の歳より、六十度の真剣勝負に地獄をのぞき続けた武蔵。帝の落胤といわれながらも、現世仏教を否定し、奇行・飲酒・女犯におぼれ、破戒の限りを尽くした一休宗純。
「我事において後悔をせず」
二人の生き様は、その身が仏道と修羅道の対極にありながらも、なぜか重なって見えてくるのです。

仏神は貴し、仏神をたのまず。(独行道)

己の道を己の足だけで歩んで来た者は、何かにすがることも、何かに裏切られることもありません。彼らは「後悔」という言葉より、なんと遠く隔たった場所にいるのでしょうか。

2011年02月28日 20:08

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