心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.50
逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。
~孔子『論語』子罕第九
〔原文〕
子、川上に在りて曰く、
「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず」と。
〔訳文〕
川のほとりで、先生はこういった、
「過ぎ去るものはみなこの川の流れのようなもの。昼も夜も、休むことはない」と。
〔解説〕
一般に「川上(せんじょう)の嘆」として知られる、論語の高名な一節です。論語の他の名句と同様、時間、場所、対話者が特定されないため、古来この句の解釈も大きく二つの方向に分かれてきました。
「川上」とは、川の上流ではなく、川のほとり。滔滔と絶え間なく流れゆく大河にのぞんで、時を得ず、志も遂げられぬまま老境を迎えつつあるわが身を嘆じて吟ずる老いた旅人。晩年故郷の魯を出国し、理想の国主を求めて放浪、遊説の旅を続ける途上、孔子がもらした悲嘆の言葉とするのが、古くからの解釈でした。
古注にこの句を引いて、包咸は、
「逝は往也。凡そ往く者は川の流れの如し」
とし、鄭玄は新出の注で、
「逝は往也。人の年の往くこと水の流れ逝くが如きを言う。道有りて用いられざるを傷む也」
と、孔子の悲嘆を指摘しています。
冉冉として三つの光り馳せ
逝く者は一に何ぞ速やかなる
中夜寝ぬる能わず
剣を撫して起ちて躑躅す
彼の孔聖の嘆きに感じ
此の年命のあわただしきを哀しむ
「文選」司馬彪の詩は、この句に悲嘆を読み取って作られた六朝の代表的な作品といえましょう。
さてまた、それとは正反対に、この句を希望の語ととる説があります。
宋儒は新注で、昼も夜も一刻たりとも停止することのない宇宙の活動が、この川の水によって示されている。その無限の持続、無限の発展の中に人間もまたいる、と解釈します。
朱子は、「学ぶ者の時時に省察して、毫髪もおこたり、断ゆることなきを欲する」と見、程子も、「君子自らつとめてやまず」とする、易の発現をこの句に読み取っているのです。
結局、この二つの見解の違いは、それらの説の生まれた時代と精神を反映する、と吉川幸次郎は指摘します。人間は多くの制限を受け、時間の推移は人間を最大の不幸である死へと導く。これが、後漢から六朝にかけての人間観の主流であり、ここから悲嘆説が生まれた、としています。
それに対し、宋代の儒学は、悲観的な人間観を転換し、人は常に進歩の途上にある、と肯定的に捉えなおす。ここから、後代の希望的解釈が生まれてきた、と吉川は考察。また二説の違いを、「逝者」を「過ぎ行く者」と読むか、「すすむ者」と読むかにもよる、と付け加えています(『論語』朝日新聞社 昭和34年)。
この言葉を発した当時の孔子の状況から見ると、悲嘆説が当人の心情に寄り添うものかもしれませんが、いずれの説が是か否かという論議は、名言を“古の智慧”として現代の指針としていこうとする時、さほど重要ではないのかもしれません。
現代に目を転じると、分野を問わず孔子の“希望の言”ととらえた文脈が多いようです。
「河の流れも、人間の流れも同じである。時々刻々、流れている。流れ、流れている。長い流れの途中には、いろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐではないか。人間の流れも、また同じことであろう。親の代、子の代、孫の代と、次々に移り変わってゆくところも、川の流れと同じである。戦乱の時代もあれば、自然の大災害に傷めつけられる時もある。併し、人類の流れも、水の流れと同じように、いろいろな支流を併せ集め、次第に大きく成長し、やはり大海を目指して流れ行くに違いない。
川の流れが大海を目指すように、人間の、人類の流れも亦、大海を理想とする、大きい社会の出現を目指すに違いありません」
『孔子』井上靖 新潮社 平成元年
孔子を描く、井上靖最晩年の歴史小説では、孔子の最後の旅に同行した架空の弟子に、この句の“未来への希望”を訥々と語らせています。
孔子が川のほとりで観たのは「川の流れ」ではなく、未来永劫続いていく“時間”そのものに他なりません。結局、「悲嘆説」「希望説」とは、人間が己に与えられた有限の時間をポジティブにとるか、ネガティブにとるかの違いによるものではないでしょうか。
時間をビジネスそのものとする、中国の東方航空社長Liu氏は、「時間は、人間存在のポジティブなあり方である」と、孔子の句を引いて説明します。
「社長は時間について説明している。「時間」の「時」は日と寺から成り立ち,「間」は日と門から出来ている。日は太陽を表す。寺は中国語では接近する,近づくという意味をもっている。門は囲むという意味である。よって時間とは,太陽に近づき,太陽を囲むことであり,それは,時間を追い求め,時間を自分のものとするということである。だから,太陽が刻む時を自分のために最大限に利用しなければならない。さらに,社長は,「子在川上曰:逝者如斯夫,不舎昼夜」と論語を引用する。ある日,孔子が川上に立って言われた。「逝くものは斯くの如きか,昼夜を舎(お)かず」。時の流れは川の水のごとく,昼夜を区別せず流れていく。「時間は人間存在のポジティブなあり方である。時間は感覚,思考,行動のポジティブな内的覚醒(intrinsic awareness)である」と社長は語る。孔子の言葉はここまで読み取らなければならないのだ。そこには将来への明るい希望がある。私たちは,方丈記の中の「川の流れは絶えずして元の水にあらず」というような諸行無常と重ねて孔子の言葉をとらえがちである。しかし,孔子の言葉はあくまで現世でよりよく生きるための教えである。孔子曰く,「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」。死のことを考えても始まらない。生を,よく生きることを求めなさい。そのために,時間があり,そのための時間である」
『眠りと目覚めの間 麻酔科医ノート』外 須美夫ブログ
“時間”は、人間の目に見えず、手でつかみとることのできない存在。それを“カタチ”として写し取り、残そうとしたのが、絵画や彫刻、音楽などの芸術であり、“意味”として理解、定義しようとしたのが、哲学、科学、文学などの学術でした。
しかし、今から二千五百年前、時間そのものと同化し、
「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」
と看破した始めての人類が、東洋の大河のほとりに、たった一人ぽつねんと小さな影を落していたのです。
2011年12月12日 16:56
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