心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.40
楽しみ、その中に在らん。
~『貞観政要』巻第八努農第三十(太宗)
●『貞観政要(上)(下) 呉兢 撰/水野聡 訳』2012年能文社
唐建国の聖帝、太宗と名臣との政治問答書、『貞観政要』の中の句です。まず原文と現代語和訳をご紹介します。
〔原文読下し〕
貞観五年、太宗、天下の粟価、おほむね計るに斗に値五銭、その尤もやすきところは、斗に値両銭なるを以って、よりて侍臣にいひて曰く、国は人を以って本と為し、人は食を以って命と為す。もし禾穀みのらずんば、すなわち兆庶、国家の有する所にあらざらん。朕、億兆の父母となり、すでに豊稔に属することかくの如し。いずくんぞ喜ばざるをえんや。ただみずから倹約を努め、必ずたやすく奢侈を為すを得ざらんと欲す。
朕、常に天下の人に賜いて、皆富貴ならしめんと欲す。今、遥を省き賦を薄くし、農時を奪わず、比屋の人をして、その耕稼をほしいままにせしめん。これすなわち富むなり。厚く礼譲を行い、郷閭の間をして、少は長を敬し、妻は夫を敬せしめん。これすなわち貴きなり。ただ天下をしてみな然らしめば、朕、管弦を聴かず、田猟に従わずとも、楽、その中に在らん。
(明治書院 昭和59年)
〔現代語和訳〕
貞観五年、太宗は全国の穀物価格が、おおよそ一斗の値が五銭、最も安いものでは、一斗二銭となったのを聞き、侍臣にいった。
「国は人をもって本とし、人は食によって生きている。もしも穀物が実らねば、万民を国家のものとすることはできぬ。朕が万民の父母となってより、かくのごとき豊作となった。これを喜ばずにはおられようか。しかし今後も倹約に努め、軽がるしく贅沢をせぬようにと願っている。
朕は常に、天下の人に与え、皆が富貴になるようにと願っている。今、夫役を免除し税を薄くし、農繁期を妨げることなく、あらゆる人に農業に精を出させたいと思う。これがすなわち富むことである。厚い礼儀を広め、郷村においては、年少者は目上を敬い、妻は夫を敬うようにさせよう。これがすなわち喜ぶことである。天下がすべてこのようになれば、朕はもはや音楽を聴かずとも、狩猟に出かけなくとも、楽しみは、わが内にあるのだ。」
(能文社 2009)
〔解説〕
仕事、趣味、娯楽、スポーツ、読書、酒…。あなたがもっとも「楽しみ」とし、「喜び」を覚えるものは何でしょうか。唐の太宗は、「楽しみ、その中に在らん」、楽しみはただ、自分の中にあるのだ、といいました。管弦を楽しみ、美酒に酔い、狩猟に血を騒がせることも、自分にとってはつまらない。人民が富み、栄え、互いに尊ぶ世をつくり、それを見ること。これこそが天が自分に与えた使命であり、それを果たすことに無常のよろこびを噛みしめるのです。幸せや、楽しみは、どこか遠くにあり、探し求めて得られるものではなく、すべて自分の中にあるもの。また豊かさは、むさぼろうとして得られず、人に与えれば与えるほど、自分の中でますます大きくなるものといえるのかもしれません。
道元のこのことばも、政治と宗教の違いこそあれ、人の豊かさの本質を表したものです。
さて、いにしえの日本にも、同様のエピソードがあります。「民のかまど」と呼ばれる、記紀等で紹介される、仁徳天皇の治世がそれです。
高き屋にのぼりて見れば煙立つ 民のかまどはにぎはひにけり
(高殿からわが国を見渡せば、いずれの村落の民家からも、盛んにかまどの煙が立ち昇る。豊かなるかな、わが国は)
これは『水鏡』『古来風体抄』などで、仁徳天皇御製とされる著名な歌。しかし実際は、『日本紀竟宴和歌』(延喜六年)の「たかどのにのぼりてみれば天の下 四方に煙て今ぞ富みぬる」が、仁徳天皇の事跡をもとに、御製として誤って伝えられたものです。
その仁政により、死後「仁」と「徳」の諡号をおくられ、世界最大の墳墓が築かれた仁徳天皇の「民のかまど」とはどのようなものか。以下、日本書紀(巻第十一)からご紹介しましょう。
四年の春二月の己未の朔甲子(AD316.02.06)に、群臣に詔して曰はく、
「朕、高臺に登りて、遠に望むに、烟氣、域の中に起たず。以爲ふに、百姓既に貧しくして家に炊く者無きか。朕聞けり、古は聖王の世には、人人、詠德之音を誦げて、毎家に康哉之歌有り。今朕、億兆に臨みて、玄玄に三年になりぬ。頌音聆えず。炊烟轉疎あり。即ち知りぬ。五穀登らず。百姓窮乏しからむと。邦畿之内すら、尚給がざる者有り、况や畿外諸國をや。」
三月の己丑の朔己酉(03.21)に、詔して曰はく、
「今より以後、三年に至るまでに、悉に課役を除めて、百姓の苦を息へよ。」
是の日より始めて、黼衣糸圭履、弊れ盡きずは更に爲らず。温飯煖羹、酸り餧らずは易へず。心を削くし志を約めて、從事乎無爲す。是を以て、宮垣崩るれども造らず。茅茨壞るれども葺かず。風雨隙に入りて、衣被を沾す。星辰壞まより漏りて、床蓐を露にす。是の後、風雨時に順ひて、五穀豐穰なり。三稔の間、百姓富寛なり。頌德既に滿ちて、炊烟亦繁し。
七年の夏四月の辛未の朔(AD319.04.01)に、天皇、臺の上に居しまして、遠に望みたまふに、烟氣多に起つ。是の日に、皇后に語りて曰はく、
「朕、既に富めり。更に愁無し。」
皇后對へて諮したまはく、
「何をか富めりと謂ふ。」
天皇の曰はく、
「烟氣、國に滿てり。百姓、自づからに富めるか。」
皇后、且言したまはく、
「宮垣壞れて、脩むるを得ず。殿屋破れて、衣被露る。何をか富めりと謂ふや。」
天皇の曰はく、
「其れ天の君を立つるは、是百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは。」
九月に、諸國、悉に請して曰す、
「課役並に免されて、既に三年經りぬ。此に因りて、宮殿朽ち壞れて、府庫已に空し。今黔首富み饒にして、遣拾はず。是に以て、里に鰥寡無く、家に餘儲有り。若し此の時に當りて、税調貢りて、宮室を脩理ふに非ずば、懼るらくは、其れ罪を天に獲むか。」
然れども猶忍びて聽したまはず。
十年の冬十月(AD322.10)に、甫めて課役を科せて、宮室を搆造る。是に、百姓、領されずして、老を扶け幼を携へて、材を運び簣を負ふ。日夜を問はずして、力を竭して競ひ作る。是を以て、未だ幾時を經ずして、宮室悉に成りぬ。故、今までに聖帝と稱めまうす。
「今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり」。
このことばに仁徳天皇の治世の精神は尽くされています。そしてさかのぼれば、中国の明君・聖帝の原点とされるのが、古代の帝堯。
「勧倹質朴の帝である。後世の人は、門番のような木っ端役人すら、堯よりはましな生活をしていたと評す。飢える者があれば、自分のせいで飢える。寒さにふるえる者があれば、自分のせいで着るものがない、罪を犯す者があれば、その者を犯罪に追いやったのは自分だ、と考える帝であった」(書経 堯 1)
帝堯、太宗、仁徳天皇。これら聖帝に共通するのは、地を這うように低く、近く、貧しい民家一軒一軒のかまどにまで及ぶ、慈愛のまなざし。哀れな行き倒れを見れば、ぽろぽろ涙を流し、むつまじい幼い姉妹を見れば、わが身内がぽかぽかと暖かになってくる…。たとえ身は天の高みにあっても、心と目が民の肌近く、低きにあれば、帝王の楽しみは追わずとも得られるのかもしれません。
2009年08月09日 20:02
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