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名言名句 第六十七回 空海 身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。

 No.83
身は花とともに落つれども、心は香とともに飛ぶ。~空海『性霊集』第八巻


弘法大師空海の漢詩文集『性霊集』に収められた名言です。
人は亡くなれば、その身は朽ち果ててしまうけれど、その心はかぐわしき薫りとなって広大無辺の世界へと広がっていく。
まずは、『性霊集』の空海の名言を含む章を全文現代語訳にてご紹介しましょう。

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『性霊集』第八巻(続遍照発揮性霊集補闕鈔) 現代語訳


 藤左近将監が亡母のため、三七日忌法要を行った時の願文

 先師は、このように仰った。色をはらむのが空であり、空を呑むのが仏である、と。
よって、仏の三密*1はどこかに偏在することなどあろうか。仏の慈悲は天の如く人々を覆い、地の如く人々を載せるのだ。慈悲の「慈」は苦を抜き、「悲」は楽を与えるもの。
いわゆる大師はなにゆえ仏と別者であろうか。アーリヤ・マハー・マイトレーヤ・ボーディ・サットヴァ、すなわち弥勒菩薩に他ならないのである。法界宮に住んで大日如来の徳を助け、兜率天*2に居て釈迦如来の教えを盛んにしておられる。

弥勒菩薩はすでに過去、悟りを開かれているが、人を救うため仮に釈尊の王位を継ぐべく東宮におられるのだ。そして一切の衆生をわが子として塗炭の苦しみから救済される。
この広大無辺なる救済者を何とお呼びすればよいのであろうか。

 伏して思うに、従四位下藤原氏の娘であった故人は、はじめ婦人の四徳を磨き、後に仏教の三宝を崇めた。朝には俗世を厭い、夕には弥勒菩薩の浄土を願われたのだ。
 たとえ身は花とともに落ちたとしても、心は香とともに飛ぶ。折々に長寿の大椿を登り、しばしば仙境の桃を味わうことを願ったのである。しかしいったい誰が予想できたであろうか。
秋の葉はもろくも落ち、夜の灯はたちまちに消えてしまうことを。
 今は花のかんばせを映すこともない、愛用の鏡。この形見を見るにつけ悲しみは深まるばかり。
面影ははかなくうつろい、ともに眺めた月も今は怨めしい。逝く人は悟りの世界で楽しみ、残された者は苦しむのみ。ああ。痛ましいこと、苦しいこと。

 仏弟子たるわれらは、この苦しさに耐えがたく、じっとしてはおられない。天に泣き叫び、地をたたいて腸も千切れんばかり、心も砕けんばかり。しかし月日は巡り、三七日忌が早くも迫ってきた。三宝を恃まずして、どうしてこの深いご恩に応えられようか。
 ここに謹んで高尾山神護寺の道場にて妙法を読誦し、金色の仏に礼拝する。
 伏して願わくは、この善行に乗せて亡母の霊を運ばれんことを。心蓮を八池に開かせ、悟りのつぼみを九品蓮台に花開かせんことを。
 法界はすべて、父母・国王・衆生・三宝の恩をこうむる。六道を迷うすべての者は、一人として仏の子でないものはない。親しき者、憎き者の区別なく、ことごとく悟りの仏世界へと帰せしめたまえ。


*1 三密 
三密(さんみつ)とは密教の用語で、「身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ」、「口密(語密)・口に真言を読誦する」、「心密・心に曼荼羅の諸尊を観想する」の総称である。
*2 兜率天
仏教の世界観における天界の一つ。三界のうちの欲界における六欲天の第四の天である。兜率天には内院と外院があり、内院は将来仏となるべき菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。

(現代語訳/水野聡 2020/7/9)


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藤左近将監については詳細不明ですが、いまだ個人の法事が一般的ではなかったこの時代、空海へ親しく法要と願文を依頼できる間柄であったと推測されます。

本文中に「ともに眺めた月も今は怨めしい」とあるように、故人および一族と家族のような交わりをもったものか、訃報に接し「天に泣き叫び、地をたたいて」悲しむ空海の真情がつづられます。

人は死んでしまっても、その心は永遠に思い出となって知縁者の間に伝えられ、広がっていきます。空海はこれを、人を花、心を香として文学的に比喩しました。この花と香の関係性は古来より「体と用」として比較され、論じられてきたものです。

「能に体・用のことを知るべし。体は花、用は匂ひのごとし。または月と影のごとし。体をよく心得たらば、用もおのづからあるべし」
(『至花道』体・用の事/世阿弥)

世阿弥は能の芸について、鬼や貴女、老人など、ものまねの基本を「体」、そして役者の演技力により、その基本からにじみ出てくる芸術的興趣を「用」にたとえています。基本と応用、あるいは実体とその表れ、といえばよいのでしょうか。われわれが舞台で見る実際の役者の演技が「体」であり、そこから生まれてくる驚き、面白さや感動が「用」です。

「亡婦魄靈の姿ハ凋める花の。色なうて匂ひ。殘りて在原の寺乃」

能〈井筒〉のキリで、亡霊のシテの姿が夜明けとともに白々と消え失せていく。しかし実体は消え失せても、あたり一面には花の残り香がしばし漂い、幽玄の美を観客の心に深く長く留めるのです。
同様に、人は短い生を終えても、生前の美しい面影や善き行いは、人々の心にいつまでも残り続け、困難な時には導き、励まし、癒してくれる菩薩のごとき存在へと昇華するのかもしれません。

2020年07月09日 14:19

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